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松山将棋センター 将棋教室ストーリー

日本アマチュア将棋連盟が発行している会報誌アマレンに連載している原稿です。

#01

皆様こんにちは。四国ブロック理事の児島有一郎です。今月から、毎月掲載していきます。駄文ですがお付き合いください。内容は、日々の事では無く、私が将棋の指導を始めて二十年、松山将棋センター開設十四年目までの事、将来の事などを書いて行きます。限られたスペースですので、話の内容が途中で終わる事もありますが、翌月までお待ちください。

私は、日本将棋連盟のプロ棋士以外で、将棋のみで生計を営んでいる少数の中の一人だと思っている。全国的に将棋道場が苦戦している中で、現在の道場の基盤は、将棋教室だ。基本は月謝制で、8月現在子ども164名。大人33名合計197名の生徒がいる。これに、日々道場に対局に来られる方の席料が収入となる。現在は一人で出来る規模ではないのでスタッフがいる。当初1人から始まり20年掛かって現在の規模になった事などを、来月以降から書いていこうと思う。(続く)
(児島有一郎)

#02

私の一般的な一週間を、紹介します。月曜は12時30分~21時まで将棋センター、火曜10時~12時まで愛媛新聞カルチャー教室、午後から休み。水曜10時~12時個人指導、その後は21時まで将棋センター、木曜10時~12時リビングカルチャー教室、13時~16時個人指導、その後21時まで将棋センター、金曜10時~12時フジカルチャー教室、12時30分~9時まで将棋センター、土曜10時~12時将棋センター子ども教室、13時30分~17時30分まで、えひめ文化健康センター教室、18時~21時将棋センター、日曜は各種将棋大会運営という1週間です。

将棋センターでは平日14時~21時までが子ども将棋教室で20名~30名位の生徒が来ます。全員と4面指し対局します結構しんどいです。土曜は午前中だけで、30~40名来ますが、スタッフがいるので身体は楽です。基本自由時間は火曜の午後ですが、この時も雑用が結構入ります。(続く)
児島有一郎

#03

物事は同じ状況であっても、考え方によって捉え方は変わってきます。指導者の考え方でも、「将棋教室に来るときに、ルールは最低限覚えて来る事」と言われる方もいますが、松山将棋センターでは、無料体験の時にルールを覚えてもらう事を基本にしています。手間は掛かかりますが、入会するか否かに関わらず将棋のルールを知っている人が一人でも増える事が大事と考えています。

将棋は今のルールになって四百年以上続く素晴らしい文化ですが、メジャーなスポーツ等に比べると、まだまだマイナーな世界です。理由はルールが難しいと言う事にあると思います。当初は、どうすればもっと簡単に、将棋のルールを普及出来ないものかと考えました。どうぶつ将棋もやりましたが、結局、本将棋のルールをもう一度教える事になるので、二度手間になるので、今は最初から本将棋を教えています。今はコツコツと将棋人口を、増やすしかないと考えています。(続く)
児島有一郎

#04

今から約二十一年前、私は五年勤めた四国日立化成住機を退職し外資系損害保険の代理店の研修生となった。ちょうどそんな時に、日立化成のOBの方で、囲碁六段の方がおりその方の持ちビルで、囲碁将棋会所を始める事になり、子ども将棋教室もスタートした。

最初の生徒は、毎週土曜の午後2時間を教室とし、ウィクリー新聞に募集広告を載せ、小学生と幼稚園の兄弟二人が来てくれた。教え方も分からず、とにかく一生懸命だったが、ルールを知らない小さな子どもに2時間教えるのは、間が持たなかった。それでも1年程続けていると生徒は5人になった。5人いるとそれなりに忙しいが、今度の悩みは中々強くならないと言う事であった。今考えると当たり前で、週一回2時間将棋をして強くなる訳がない。そんな時、他の指導者の方に「強くしようと思う事が間違い、強くなる子は、勝手に強くなる」と言われ気持ちが楽になった。(続く)
児島有一郎

#05

子ども将棋教室を始めて、1年程が過ぎて当時の愛媛県将棋界の重鎮であった永井兼幸(昨年86才で死去、元県名人)さんから、当時の愛媛社会保険センター(現愛媛健康文化センター)の将棋教室を引き継いで欲しいと言われ、時間帯が重なっていた為、子ども教室の皆さんに移籍して頂き、約20名の教室をする事になった。

その頃に、私が所属している、日将連松山坊っちゃん支部と、永井さんが顧問をしていた。日将連愛媛囲碁将棋会館支部が合併する事になり、支部道場を、愛媛囲碁将棋会館に変更する事になった。愛媛囲碁将棋会館は、2階建てで1階が駐車場70台、喫茶が50席、2階の道場が席数400席というとてつもない規模であった。間違いなく日本最大規模の囲碁将棋道場だったのではないだろうか。将棋を知らない建設会社社長が、松山に将棋道場がないので、儲かると思って建てたものだった。現在はデーサビスになっている。(続く)
児島有一郎

#06

当時あった愛媛囲碁将棋会館は、それなりにお客さんは来ていたのですが規模を考えると、採算の取れるものではなかったでしょう。
実際、営業を開始後一年程で2階の道場は使わなくなり、1階の喫茶で将棋を指すようになった。それでも五十席あるので充分の広さでした。しかし、一年程でその建物を他の事業に使用するために閉鎖となり、二軒隣のマンションの一階が新しい愛媛囲碁将棋会館となりました。そこでも、将棋囲碁合わせて120席の広さで、県大会の時などは、碁盤を、将棋盤に置き換えて開催していました。入り口には喫茶コーナーがあり簡単な食事などをする事が出来ました。

そこで約5年続きました。その頃の私は、自営業だった為、平日は仕事をして、土曜日はカルチャースクールで将棋教室、日曜日は、将棋大会の運営と大会参加という日々でした。(続く)
児島有一郎

#07

愛媛囲碁将棋会館は、盆正月が休みでした。経営的には掻き入れ時のはずですが、儲けの事はあまり考えてなかったようです。お客さんから、盆正月を開館して欲しいと要望があり、私が交渉し責任を持つと言う事で、鍵を預かり開館する事になりました。数年間は(今もそうですが)正月実家に帰れなくなりました。営業開始前には掃除をしました。当時の会館は、先週紹介したように、広い建物なので、掃除の方を月十万で雇っていましたが、盆正月はその方も休みです。後で、会館のお客さん達に聞いた話ですが、皆さん私が、愛媛囲碁将棋会館から給料を貰っていると思っていたそうです。盆正月に私が開館している時でも無給でした。なぜそこまでしたのかと言う事ですが、理由は二つあります。一つは、動機はどうあれ、愛媛県にこれだけの将棋会館を作って頂いているので応援しなければいけないと言う事です。もう一つは紙面の関係上来月になります。(続く)
児島有一郎

#08

なぜ、将棋会館のお客さんが、私が給料を貰っていると勘違いするくらい会館の手伝いをした大きな理由は、愛媛囲碁将棋会館が、閉館した時は私が将棋センターをしようと当時から考えていたからです。傍目から見ても規模を考えれば赤字経営で、社長は囲碁将棋に興味がないので、続いてくれればありがたいですが、いつかは閉館すると思っていました。私が小中学生の時に通った。松山将棋教室(今で言う指導棋士五段の方が経営)は八年で閉店、その後の将棋横丁も経営者が変わりながら約八年で閉店しました。愛媛囲碁将棋会館も結果的に八年で閉館となります。私が松山将棋センターを始める時も目標八年でしたが、4月で十五年目に入ります。愛媛囲碁将棋会館の手伝いは私にとっては、無給であっても次につながる大きな勉強だったのです。

因みに松山将棋教室は、愛媛支部として愛媛囲碁将棋会館は同名の支部で支部対抗戦の西地区大会を制しています。やはり道場の存在は大きいと思います。 (続く)
児島有一郎

#09

松山から将棋道場が無くなって3ヶ月もすると、Aさんの言った通り回りの方々から、将棋道場を開設してほしいと連絡を頂くようになりました。私はまず将棋道場をするに当たって、任せられる人材が第一だと思っていました。

当時、私は損保会社の代理店を独立開業していましたので、私が将棋道場にいる事は出来ません。私の考え方としては、将棋道場は赤字にならず、多少の黒字で私の本業に損失が出なければ良いと考えていました。それにはやはり、信用し任せられる人がいないと出来ないと考えていましたが、中々適任者が見つかりませんでした。一先ず夕方から閉店までなら出来る方を見つけたので、道場開業の為に準備段階に入りました。まず場所探しです。松山では松山市駅近辺が中心地なのですが、家賃は高く電車、バスが交通の起点となり、車社会の松山には適さないと思い今の場所を選びました。続いて資金面です。敷金、空調、机、椅子、盤駒等で最低百万以上は掛かりそうでした。 (続く)
児島有一郎

#10

松山から将棋道場が無くなって3ヶ月もすると、Aさんの言った通り回りの方々から、将棋道場を開設してほしいと連絡を頂くようになりました。私はまず将棋道場をするに当たって、任せられる人材が第一だと思っていました。当時、私は損保会社の代理店を独立開業していましたので、私が将棋道場にいる事は出来ません。私の考え方としては、将棋道場は赤字にならず、本業に損失が出なければ良いと考えていました。それにはやはり、信用し任せられる人がいないと出来ないと考えていましたが、中々適任者が見つかりませんでした。一先ず夕方から閉店までなら出来る方を見つけたので、道場開業の為に準備段階に入りました。そして場所探しです。今の場所に決める時の最初のネックは三つ奥の部屋が、無許可の雀荘だった事です。しかし、考え方を変えれば、無許可だと何かあれば困るのは雀荘の方だと思い決めました。(続く)
児島有一郎

#11

当時、今から約16年前ですが、私の悩みは、強い子供が育たない事でした。指導と言っても週に1回、当時の社会保険庁が運営していたカルチャースクールで教えるだけだったので、人数も少なかったのですが、県大会で優勝した子供はいませんでした。松山将棋センター開設の少し前でした、そこで、加藤寿己君と出会いました。

加藤君との関係が、その後の指導において私の自信なっていきます。加藤君は中学1年の1月に入会しました。遅い入会で気力も7級位でしたが、プロを目指しているというので、私は頑張りなさいと言いました。それから数か月、さほど熱心でもなく、いつもお母さんと一緒にカルチャースクールに来ます。大会に出ても負けると直ぐに帰ります。私も、プロを目指していると言う言葉は、子どもの夢物語だと思っていたので、大して気にはしていませんでした。中学2年の9月時点で4級と、とても奨励会を口にできるレベルではありません。(続く)
児島有一郎

#12

先々月号の続きです。加藤寿己君は中学2年なのに、いつも母親と一緒でした。お母さんに事情を聞くと、不登校で中学校に行っておらず、家から出るのは将棋に行く時だけと話されました。私も中学2年の時に、諸事情で学校を半年で四十日休んだ事があるので、(元は将棋が原因ですが機会があれば書きます)何とかならないかと考え私の言う通り練習すれば、来夏、奨励会を受験出来るレベルにすると話し加藤君といくつかの約束をしました。私が加藤君からは、月謝は取らない事、四月末までに松山将棋センターの四段になれなければ諦めること、奨励会に通れば学校は行かなくいいが、奨励会に落ちたら、高校に行く事が私の出した条件でした。加藤君が了承しそこから、練習が始まりました。将棋センターで四段の方が、9月末に4級なのに7カ月で四段なんかなれる訳がないという人もいましたが、私は、何となく自信はありました。練習方法は次号で(続く)
児島有一郎

#13

私が、加藤寿己君にやらせた練習方法とは、特別な事ではなく、詰将棋と棋譜並べです。詰将棋はまずは、3~9手までの物を沢山解く。時間を決めて毎日1時間集中してする事。続いて20手までの形の良いものを解く、これは私が主に解いていた。将棋世界の詰将棋サロンが中心(松山将棋センターには、昭和50年前半からの将棋世界、近代将棋、将棋マガジン、将棋ジャーナルがあります)で、その他形良い作品集などを、数時間解図します。詰将棋によって将棋に必要な基礎体力が身に付きます。

棋譜並べは、たくさんの戦形を覚えることは無理なので、二つだけに絞って並べさせます。相手が居飛車の時と振り飛車の時に何をするかです。確か加藤君の場合は居飛車の時は矢倉、振り飛車の時は急戦だったと思います。大体一局1時間~2時間掛けて並べさせました。詰将棋に2、3時間。棋譜並べに10時間位が一日の練習時間です。(続く)
児島有一郎

#14

実戦は、土日の松山将棋センターでの、手合い割戦が中心です。

この成績で段級が昇段級していきます。私の考えですが、平手の将棋は、定跡を覚えれば、途中までは格上とも同じように指せます。定跡があまり整理されていない駒落ちを沢山指す事で、下手には弱点を付く練習になり、上手の将棋には厚みが付くと私は考えています。

週に二日は、私の仕事が終わると加藤君の家に行って指しました。当時は、損害保険の代理店と将棋センターを両方していたので、忙しかったですが、私にも相当な熱意と、加藤君に対しての責任感がありました。

加藤君は、元々楽天的な性格で物事を難しく考えないところがありました。こういうタイプは壁に当たるまでは結構伸びます。棋力は周囲の人が驚く位上達しました三月には三段になり、県下の準タイトル戦になる県棋王戦でベスト8入りを果たしました。(続く)
児島有一郎

#15

松山将棋センターの昇段規定は、土日祝日に行っている手合い割り戦の成績によって昇段します。三段までは、9連勝か12勝1敗、四段は12連勝か15勝1敗なので決して簡単ではありません。後、他の道場では、あまりない制度は降段制度があり、成績が悪いと落ちるので、段位のインフレも比較的少ないと思います。加藤君は、中学3年の四月末に四段格になり私が考えている奨励会を受けられるレベルには到達しました。それからは、師匠探しです。当時、お願いしたプロ棋士の先生は、1年は兵庫県の道場に通ってから決めると言われましたが、3ヶ月にしてもらい月に2回私と加藤君で通いました。その後、先生からも、特別だよと言われながらも、奨励会受験の許可を得ました。大会での成績も中学選抜で愛媛県代表になり、全国大会でもベスト8まで進みました。穴の多い将棋でしたが、終盤力があり、何とか奨励会を受ける格好は付きました。(続く)
児島有一郎

#16

加藤君の奨励会試験は、1勝3敗で落ちました。しかし、中学校に殆ど通ってない子どもが、1年近く一つの事に没頭して、頑張れたことは本人には、良い経験だったと私は信じています。加藤君は、今は将棋から離れていますが、約束通り高校は卒業しました。加藤君が高校3年の時に、他の後輩の将棋教室生徒3人(小田一彦、黒田尭之)で、支部対抗戦西地区大会で優勝し、チームのリーダーとして私の夢をかなえてくれました。私も、27才の時に同大会で優勝しました。それからは、松山坊っちゃん支部として優勝する事、その後は、教室の生徒3人で優勝する事でしたが、加藤君が叶えてくれました。加藤君の話は、これくらいにしたいと思います。

次回からは文章内に登場した小田一彦君の事を書きたいと思います。小田君は私の今までの生徒の中では、トップ3に入る実力で、愛媛大学時代は、四国代表県代表数回、学生名人戦3位、2年連続四国名人等活躍しました。(続く)
児島有一郎

#17

小田一彦君が、松山将棋センターの子ども教室に通い始めたのは十四年前の2月の1週目の土曜日からでした。小学6年だったので少し遅いスタートです。その1週間後に黒田尭之君が入門しました幼稚園でした。松山将棋センターでの教室を始めて間もない事もありましたが、この二人はなぜか入門の日付を覚えていました。小田君は、中学に入学当初は、ソフトボールもやっていましたが、コーチに、将棋を辞めろと言われ反発してソフトボールを辞めました。

小田君も、中学から高校卒業するまで、来ない日がないくらい将棋センターに通ってきました。熱心さもありましたが、小田君には、勉強法など殆ど教えた事がありません。その頃、私は奨励会を目指す加藤君を教えていたのですが、小田君は私が加藤君に言っている事を聞いて、自分で実践していました。元々優秀な子でしたが、私が言わなくても、詰将棋、棋譜並べをこなしていく手の掛からない子でした。(続く)
児島有一郎