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松山将棋センター 将棋教室ストーリー

日本アマチュア将棋連盟が発行している会報誌アマレンに連載している原稿です。

#26

相手チームは私学の小学校で、将棋部がありました。顧問の先生は、開会式開始前にオーダー表を出してくださいと言われたが、まだ提出してなかったので、運営側の落ち度だと言ったようですが、私の抗議が認められて、再度、同時に提出する事になりました。結果両チームが実力順の当たりになりました。相手の大将もその年に奨励会に合格するレベルなので強かったのですが、3-0で勝ちました。決勝戦の相手は全員が二、三段位でした。山根さんには少し分が悪そうなので、M君に頑張ってもらうしかありません。前日からこの組み合わせを予想してM君が、力を発揮できるように接して行きました。結果、藤岡君とM君が勝ち2-1で双葉小学校が優勝しました。

この年は、黒田尭之君が小学名人戦準優勝、小学生王将戦優勝。支部対抗戦西地区大会では、松山坊っちゃん支部で教室の生徒3人(小学生と高校生二人)で優勝と文科杯優勝で私の指導歴の中で最高の成績を残せた年でした。
(続く)児島有一郎

#25

双葉小学校が、第4回文科杯西日本大会小学生の部に出場した時の3人の棋力は、松山将棋センターの基準で藤岡君が五段格、M君が三段格、山根さんが初段格でした。西日本大会は藤岡君と山根さんが全勝で突破しました。M君は2勝2敗でした。M君は強いのですが、4年生という事と性格的にムラがあり、対局前に泣いたりする事もあり、実力の割りに勝てませんでした。勝つという事は、実力も然ることながら、自分の持っている物を、如何に発揮するかも含めてが総合力だと思っています。普段強くても、大会で勝てない人は何かが不足している訳です。

翌月開催されたベスト4以上で対戦する決勝大会では、初戦、埼玉県と当たりました。相手は四段、二段、2級位のチームでした。対戦前にオーダー表を出すはずでしたが、なぜか、双葉小の座り順を見てから相手がオーダー表を決めることになり双葉小が不利な当たりになり私は異議を申し立てました。
(続く)児島有一郎

#24

第4回の文科杯で全国優勝するには、藤岡隼太君以外の2人を、育てる必要がありました。当時のメンバーM君3年生は、やる気もあり奨励会を目指していましたので、問題ありませんでしたが、もう一人のH君は、学業第一で将棋は週1回の習い事の一つでした。そこに山根さんが入ってきました。六月から十一月までは、日曜以外通い十一月からは日曜も来るようになりました。理由は将棋センターが日曜休みだと聞かされていたからです。

当時の松山将棋センターの小学生少数精鋭でした。JT杯岡山大会高学年の部に5人が参加しました。四国大会が日程的に参加出来ない為です。3人がベスト4以上で黒田尭之現奨励会三段が、ベスト8でした。優勝は藤岡君で、準々決勝で黒田小学生準名人、準決勝で小学生準王将のY君を破り優勝しました。因みに双葉小のM君もベスト4で三段になっていました。確かこの時点で、双葉西日本大会進出が決まっていました。
(続く)児島有一郎

#23

第3回の文科杯では、藤岡君率いる双葉小学校は西日本大会でベスト4でした。あと一つ勝てば、東西決戦進出です。代表決定戦の前に、私はオーダーで悩みました。初めての学校対抗ということで、どのチームも慣れておらず何となく、予選と同じオーダーで来る予感がしました。当て馬作戦なら勝てそうだし、まともに当たれば負けそうです。副将と三将を入れ替えれば、11で藤岡君勝負の感じですが、相手も子ども達だけで戦っているのに、私が作戦を立てることもどうかと思い真向勝負しました結果敗れました。私は、作戦が拙かったかなと悩みました。松山についてから、保護者の方に双葉小学校は、先生も含めてチームなのだから勝てるオーダーを組んでほしかったと言われ悩みましたが、来年全国優勝してこの後悔を忘れるしかないと思い直しました。

この時の、メンバーの実力は、藤岡君が三段で、あとの二人が3級と8級でした。初めての学校対抗で今と比べればレベルはまだまだでした。
(続く)児島有一郎

#22

今月から、5月に学生名人を獲得した藤岡隼太君の事を書きます。長編になります。藤岡君は小学校2年で将棋教室に入門しました。既に強く道場で4級のスタートでした。藤岡君は来た当初から、優等生という言葉がぴったりの子どもでした。

藤岡君が初めて全国大会に出場したのは小学3年の倉敷王将戦低学年の部でベスト8に進出しました。松山将棋センターでは初段の実力でした。1学年上に黒田尭之現奨励会三段がいて道場三段でした。藤岡君が目標にしている存在です。小4の時に、現在の学校対抗に変わった文部科学大臣杯がスタートし藤岡君が、1名足りない双葉小学校のメンバーを集めるのに奔走していたのを覚えています。その時に声を掛けて大会に出場しませんでしたが、藤岡君の応援に来て将棋教室に入門したのが、藤岡君の3才からの幼馴染の山根ことみ女流です。山根さんは10級でしたが、翌年の文科杯目指しての練習がスタートしました。
(続く)児島有一郎

#21

今月は、⑱の続きに戻ります。

I君は小学6年の10月に教室に入会しました。実力は5級でしたがプロになりたいと言います。ご両親も本人がしたいならと中2か中3での奨励会受験を目指す事にしました。中学入って数か月して道場に来る日が遅い日があるので理由を聞くと、塾に行っていると言います。そんな時間はないはずだと言うと、翌日に塾を辞めました。実力は中1の終わりで三段だったと思います。もう少し強くなれば奨励会を受験できるレベルでしたが、中2になって少しすると、月曜は道場に来なくなりました。何度言っても来ないので、9月頃理由を聞くと、日曜に1日将棋を指すと月曜は疲れて行けないと言います。それならプロは止めなさいと言いました。翌日、もう諦めますと行ってきました。その後のI君は、将棋は伸びて中3で県知事杯争奪大会で優勝、高校大学も将棋部で、卒業後はお父さんが転勤族で松山に実家が無いにも係わらず愛媛県庁に就職して将棋を続けています。
(続く)児島有一郎

#20

3月20日~3月31日に掛けて、将棋教室と道場を休業する事なく何とか移転する事が出来ました。その時の話を一つ。31日の午後8時頃でした。新道場は、1日からは土足で、準備中は土禁でした。明日からは土足ですからと小2M君のお母さんに告げると、きれいなのにもったいないから、絶対土禁がいいと言われました。私も設計段階でそれは考えていたのですが、土禁のカルチャースクールは流行らないカルチャーはどこも土足ですよとアドバイスされて、土足に決めていました。特に土禁は女性が嫌がりますよとの話でした。その事を話をしたら、ここに女性が何人来るのですか?土禁にすべきですと押し切られM君のお母さんが靴箱は新築祝いにしますから明日の午前中だけ耐えてくださいと言って翌日60人分の靴箱を用意してくださいました。お客様からの意見は色々ですが、やはり道場を綺麗に維持する事は出来るので私としては、良かったと思っています。
(続く)児島有一郎

#19

今月は、先月の続きでなく脱線します。先月号に松山将棋センターの移転オープン大会の案内を掲載して頂きました。ちょうど16年目に入る4月1日より、現将棋センターから直線で30m裏になりますが新築する事が出来ました。15年前に道場を開場する時は、銀行から趣味(将棋)には貸せないと200万も貸してくれませんでしたが、今回は同じ銀行から、2000万以上の融資を受けられました。将棋教室を仕事として認めてもらったと思っています。(実際15年前は副業でしたが)8年前からは、収入は将棋一本で、もっと遡れば高校卒業後に母親から、1か月分の生活費10万円をもらって、松山に出て来てアルバイトしながら定時制の大学に通い何とか、ここまで着たので、自分としては感慨深いところもあります。

昨年十一月から外部教室の生徒数も含め二百名を越えました。移転先は現在より少し狭いので、教室のやり方を考えなければならないと思っています。
(続く)児島有一郎

#18

当時の私の、将棋道場での日課は掃除でした。営業開始の一時間前に行き、掃き掃除、モップ、机、将棋盤を磨くこれを必ず営業前に行うことでした。5年間続きましたが、拡張してもう一部屋借りた事により掃除の時間が、倍かかるので段々と回数が減りましたが、土曜日の朝は8時半から掃除してました。掃除してると何も言ってないのに小田君が来て手伝い始めました。それから掃除を手伝う子が少しづつ増えていきました。今は、土曜日の教室は生徒数が増えて指導のアルバイトの子ども達が増えたのでその子達と掃除してますが、義務化している感じです。小田君がいた頃は、自主的に手伝ってくれていました。

トイレ掃除だけは、私が必ずしてたのですが理由は、手抜きをされるのが嫌なので自分でしてました。その事を聞いたI君は、僕にトイレ掃除させてくださいと申し出てきました。家でお母さんに教わり練習してきましたと。
(続く)児島有一郎

#17

小田一彦君が、松山将棋センターの子ども教室に通い始めたのは十四年前の2月の1週目の土曜日からでした。小学6年だったので少し遅いスタートです。その1週間後に黒田尭之君が入門しました幼稚園でした。松山将棋センターでの教室を始めて間もない事もありましたが、この二人はなぜか入門の日付を覚えていました。小田君は、中学に入学当初は、ソフトボールもやっていましたが、コーチに、将棋を辞めろと言われ反発してソフトボールを辞めました。

小田君も、中学から高校卒業するまで、来ない日がないくらい将棋センターに通ってきました。熱心さもありましたが、小田君には、勉強法など殆ど教えた事がありません。その頃、私は奨励会を目指す加藤君を教えていたのですが、小田君は私が加藤君に言っている事を聞いて、自分で実践していました。元々優秀な子でしたが、私が言わなくても、詰将棋、棋譜並べをこなしていく手の掛からない子でした。
(続く)児島有一郎

#16

加藤君の奨励会試験は、1勝3敗で落ちました。しかし、中学校に殆ど通ってない子どもが、1年近く一つの事に没頭して、頑張れたことは本人には、良い経験だったと私は信じています。加藤君は、今は将棋から離れていますが、約束通り高校は卒業しました。加藤君が高校3年の時に、他の後輩の将棋教室生徒3人(小田一彦、黒田尭之)で、支部対抗戦西地区大会で優勝し、チームのリーダーとして私の夢をかなえてくれました。私も、27才の時に同大会で優勝しました。それからは、松山坊っちゃん支部として優勝する事、その後は、教室の生徒3人で優勝する事でしたが、加藤君が叶えてくれました。加藤君の話は、これくらいにしたいと思います。

次回からは文章内に登場した小田一彦君の事を書きたいと思います。小田君は私の今までの生徒の中では、トップ3に入る実力で、愛媛大学時代は、四国代表県代表数回、学生名人戦3位、2年連続四国名人等活躍しました。
(続く)児島有一郎

#15

松山将棋センターの昇段規定は、土日祝日に行っている手合い割り戦の成績によって昇段します。三段までは、9連勝か12勝1敗、四段は12連勝か15勝1敗なので決して簡単ではありません。後、他の道場では、あまりない制度は降段制度があり、成績が悪いと落ちるので、段位のインフレも比較的少ないと思います。加藤君は、中学3年の四月末に四段格になり私が考えている奨励会を受けられるレベルには到達しました。それからは、師匠探しです。当時、お願いしたプロ棋士の先生は、1年は兵庫県の道場に通ってから決めると言われましたが、3ヶ月にしてもらい月に2回私と加藤君で通いました。その後、先生からも、特別だよと言われながらも、奨励会受験の許可を得ました。大会での成績も中学選抜で愛媛県代表になり、全国大会でもベスト8まで進みました。穴の多い将棋でしたが、終盤力があり、何とか奨励会を受ける格好は付きました。
(続く)児島有一郎

#14

実戦は、土日の松山将棋センターでの、手合い割戦が中心です。

この成績で段級が昇段級していきます。私の考えですが、平手の将棋は、定跡を覚えれば、途中までは格上とも同じように指せます。定跡があまり整理されていない駒落ちを沢山指す事で、下手には弱点を付く練習になり、上手の将棋には厚みが付くと私は考えています。

週に二日は、私の仕事が終わると加藤君の家に行って指しました。当時は、損害保険の代理店と将棋センターを両方していたので、忙しかったですが、私にも相当な熱意と、加藤君に対しての責任感がありました。

加藤君は、元々楽天的な性格で物事を難しく考えないところがありました。こういうタイプは壁に当たるまでは結構伸びます。棋力は周囲の人が驚く位上達しました三月には三段になり、県下の準タイトル戦になる県棋王戦でベスト8入りを果たしました。
(続く)児島有一郎

#13

私が、加藤寿己君にやらせた練習方法とは、特別な事ではなく、詰将棋と棋譜並べです。詰将棋はまずは、3~9手までの物を沢山解く。時間を決めて毎日1時間集中してする事。続いて20手までの形の良いものを解く、これは私が主に解いていた。将棋世界の詰将棋サロンが中心(松山将棋センターには、昭和50年前半からの将棋世界、近代将棋、将棋マガジン、将棋ジャーナルがあります)で、その他形良い作品集などを、数時間解図します。詰将棋によって将棋に必要な基礎体力が身に付きます。

棋譜並べは、たくさんの戦形を覚えることは無理なので、二つだけに絞って並べさせます。相手が居飛車の時と振り飛車の時に何をするかです。確か加藤君の場合は居飛車の時は矢倉、振り飛車の時は急戦だったと思います。大体一局1時間~2時間掛けて並べさせました。詰将棋に2、3時間。棋譜並べに10時間位が一日の練習時間です。
(続く)児島有一郎

#12

先々月号の続きです。加藤寿己君は中学2年なのに、いつも母親と一緒でした。お母さんに事情を聞くと、不登校で中学校に行っておらず、家から出るのは将棋に行く時だけと話されました。私も中学2年の時に、諸事情で学校を半年で四十日休んだ事があるので、(元は将棋が原因ですが機会があれば書きます)何とかならないかと考え私の言う通り練習すれば、来夏、奨励会を受験出来るレベルにすると話し加藤君といくつかの約束をしました。私が加藤君からは、月謝は取らない事、四月末までに松山将棋センターの四段になれなければ諦めること、奨励会に通れば学校は行かなくいいが、奨励会に落ちたら、高校に行く事が私の出した条件でした。加藤君が了承しそこから、練習が始まりました。将棋センターで四段の方が、9月末に4級なのに7カ月で四段なんかなれる訳がないという人もいましたが、私は、何となく自信はありました。練習方法は次号で
(続く)児島有一郎

#11

当時、今から約16年前ですが、私の悩みは、強い子供が育たない事でした。指導と言っても週に1回、当時の社会保険庁が運営していたカルチャースクールで教えるだけだったので、人数も少なかったのですが、県大会で優勝した子供はいませんでした。松山将棋センター開設の少し前でした、そこで、加藤寿己君と出会いました。

加藤君との関係が、その後の指導において私の自信なっていきます。加藤君は中学1年の1月に入会しました。遅い入会で気力も7級位でしたが、プロを目指しているというので、私は頑張りなさいと言いました。それから数か月、さほど熱心でもなく、いつもお母さんと一緒にカルチャースクールに来ます。大会に出ても負けると直ぐに帰ります。私も、プロを目指していると言う言葉は、子どもの夢物語だと思っていたので、大して気にはしていませんでした。中学2年の9月時点で4級と、とても奨励会を口にできるレベルではありません。
(続く)児島有一郎

#10

松山から将棋道場が無くなって3ヶ月もすると、Aさんの言った通り回りの方々から、将棋道場を開設してほしいと連絡を頂くようになりました。私はまず将棋道場をするに当たって、任せられる人材が第一だと思っていました。当時、私は損保会社の代理店を独立開業していましたので、私が将棋道場にいる事は出来ません。私の考え方としては、将棋道場は赤字にならず、本業に損失が出なければ良いと考えていました。それにはやはり、信用し任せられる人がいないと出来ないと考えていましたが、中々適任者が見つかりませんでした。一先ず夕方から閉店までなら出来る方を見つけたので、道場開業の為に準備段階に入りました。そして場所探しです。今の場所に決める時の最初のネックは三つ奥の部屋が、無許可の雀荘だった事です。しかし、考え方を変えれば、無許可だと何かあれば困るのは雀荘の方だと思い決めました。
(続く)児島有一郎

#09

松山から将棋道場が無くなって3ヶ月もすると、Aさんの言った通り回りの方々から、将棋道場を開設してほしいと連絡を頂くようになりました。私はまず将棋道場をするに当たって、任せられる人材が第一だと思っていました。

当時、私は損保会社の代理店を独立開業していましたので、私が将棋道場にいる事は出来ません。私の考え方としては、将棋道場は赤字にならず、多少の黒字で私の本業に損失が出なければ良いと考えていました。それにはやはり、信用し任せられる人がいないと出来ないと考えていましたが、中々適任者が見つかりませんでした。一先ず夕方から閉店までなら出来る方を見つけたので、道場開業の為に準備段階に入りました。まず場所探しです。松山では松山市駅近辺が中心地なのですが、家賃は高く電車、バスが交通の起点となり、車社会の松山には適さないと思い今の場所を選びました。続いて資金面です。敷金、空調、机、椅子、盤駒等で最低百万以上は掛かりそうでした。
(続く)児島有一郎

#08

なぜ、将棋会館のお客さんが、私が給料を貰っていると勘違いするくらい会館の手伝いをした大きな理由は、愛媛囲碁将棋会館が、閉館した時は私が将棋センターをしようと当時から考えていたからです。傍目から見ても規模を考えれば赤字経営で、社長は囲碁将棋に興味がないので、続いてくれればありがたいですが、いつかは閉館すると思っていました。私が小中学生の時に通った。松山将棋教室(今で言う指導棋士五段の方が経営)は八年で閉店、その後の将棋横丁も経営者が変わりながら約八年で閉店しました。愛媛囲碁将棋会館も結果的に八年で閉館となります。私が松山将棋センターを始める時も目標八年でしたが、4月で十五年目に入ります。愛媛囲碁将棋会館の手伝いは私にとっては、無給であっても次につながる大きな勉強だったのです。

因みに松山将棋教室は、愛媛支部として愛媛囲碁将棋会館は同名の支部で支部対抗戦の西地区大会を制しています。やはり道場の存在は大きいと思います。
(続く)児島有一郎

#07

愛媛囲碁将棋会館は、盆正月が休みでした。経営的には掻き入れ時のはずですが、儲けの事はあまり考えてなかったようです。お客さんから、盆正月を開館して欲しいと要望があり、私が交渉し責任を持つと言う事で、鍵を預かり開館する事になりました。数年間は(今もそうですが)正月実家に帰れなくなりました。営業開始前には掃除をしました。当時の会館は、先週紹介したように、広い建物なので、掃除の方を月十万で雇っていましたが、盆正月はその方も休みです。後で、会館のお客さん達に聞いた話ですが、皆さん私が、愛媛囲碁将棋会館から給料を貰っていると思っていたそうです。盆正月に私が開館している時でも無給でした。なぜそこまでしたのかと言う事ですが、理由は二つあります。一つは、動機はどうあれ、愛媛県にこれだけの将棋会館を作って頂いているので応援しなければいけないと言う事です。もう一つは紙面の関係上来月になります。
(続く)児島有一郎

#06

当時あった愛媛囲碁将棋会館は、それなりにお客さんは来ていたのですが規模を考えると、採算の取れるものではなかったでしょう。
実際、営業を開始後一年程で2階の道場は使わなくなり、1階の喫茶で将棋を指すようになった。それでも五十席あるので充分の広さでした。しかし、一年程でその建物を他の事業に使用するために閉鎖となり、二軒隣のマンションの一階が新しい愛媛囲碁将棋会館となりました。そこでも、将棋囲碁合わせて120席の広さで、県大会の時などは、碁盤を、将棋盤に置き換えて開催していました。入り口には喫茶コーナーがあり簡単な食事などをする事が出来ました。

そこで約5年続きました。その頃の私は、自営業だった為、平日は仕事をして、土曜日はカルチャースクールで将棋教室、日曜日は、将棋大会の運営と大会参加という日々でした。
(続く)児島有一郎

#05

子ども将棋教室を始めて、1年程が過ぎて当時の愛媛県将棋界の重鎮であった永井兼幸(昨年86才で死去、元県名人)さんから、当時の愛媛社会保険センター(現愛媛健康文化センター)の将棋教室を引き継いで欲しいと言われ、時間帯が重なっていた為、子ども教室の皆さんに移籍して頂き、約20名の教室をする事になった。

その頃に、私が所属している、日将連松山坊っちゃん支部と、永井さんが顧問をしていた。日将連愛媛囲碁将棋会館支部が合併する事になり、支部道場を、愛媛囲碁将棋会館に変更する事になった。愛媛囲碁将棋会館は、2階建てで1階が駐車場70台、喫茶が50席、2階の道場が席数400席というとてつもない規模であった。間違いなく日本最大規模の囲碁将棋道場だったのではないだろうか。将棋を知らない建設会社社長が、松山に将棋道場がないので、儲かると思って建てたものだった。現在はデーサビスになっている。
(続く)児島有一郎

#04

今から約二十一年前、私は五年勤めた四国日立化成住機を退職し外資系損害保険の代理店の研修生となった。ちょうどそんな時に、日立化成のOBの方で、囲碁六段の方がおりその方の持ちビルで、囲碁将棋会所を始める事になり、子ども将棋教室もスタートした。

最初の生徒は、毎週土曜の午後2時間を教室とし、ウィクリー新聞に募集広告を載せ、小学生と幼稚園の兄弟二人が来てくれた。教え方も分からず、とにかく一生懸命だったが、ルールを知らない小さな子どもに2時間教えるのは、間が持たなかった。それでも1年程続けていると生徒は5人になった。5人いるとそれなりに忙しいが、今度の悩みは中々強くならないと言う事であった。今考えると当たり前で、週一回2時間将棋をして強くなる訳がない。そんな時、他の指導者の方に「強くしようと思う事が間違い、強くなる子は、勝手に強くなる」と言われ気持ちが楽になった。(続く)
児島有一郎

#03

物事は同じ状況であっても、考え方によって捉え方は変わってきます。指導者の考え方でも、「将棋教室に来るときに、ルールは最低限覚えて来る事」と言われる方もいますが、松山将棋センターでは、無料体験の時にルールを覚えてもらう事を基本にしています。手間は掛かかりますが、入会するか否かに関わらず将棋のルールを知っている人が一人でも増える事が大事と考えています。

将棋は今のルールになって四百年以上続く素晴らしい文化ですが、メジャーなスポーツ等に比べると、まだまだマイナーな世界です。理由はルールが難しいと言う事にあると思います。当初は、どうすればもっと簡単に、将棋のルールを普及出来ないものかと考えました。どうぶつ将棋もやりましたが、結局、本将棋のルールをもう一度教える事になるので、二度手間になるので、今は最初から本将棋を教えています。今はコツコツと将棋人口を、増やすしかないと考えています。
(続く)児島有一郎

#02

私の一般的な一週間を、紹介します。月曜は12時30分~21時まで将棋センター、火曜10時~12時まで愛媛新聞カルチャー教室、午後から休み。水曜10時~12時個人指導、その後は21時まで将棋センター、木曜10時~12時リビングカルチャー教室、13時~16時個人指導、その後21時まで将棋センター、金曜10時~12時フジカルチャー教室、12時30分~9時まで将棋センター、土曜10時~12時将棋センター子ども教室、13時30分~17時30分まで、えひめ文化健康センター教室、18時~21時将棋センター、日曜は各種将棋大会運営という1週間です。

将棋センターでは平日14時~21時までが子ども将棋教室で20名~30名位の生徒が来ます。全員と4面指し対局します結構しんどいです。土曜は午前中だけで、30~40名来ますが、スタッフがいるので身体は楽です。基本自由時間は火曜の午後ですが、この時も雑用が結構入ります。
(続く)児島有一郎

#01

皆様こんにちは。四国ブロック理事の児島有一郎です。今月から、毎月掲載していきます。駄文ですがお付き合いください。内容は、日々の事では無く、私が将棋の指導を始めて二十年、松山将棋センター開設十四年目までの事、将来の事などを書いて行きます。限られたスペースですので、話の内容が途中で終わる事もありますが、翌月までお待ちください。

私は、日本将棋連盟のプロ棋士以外で、将棋のみで生計を営んでいる少数の中の一人だと思っている。全国的に将棋道場が苦戦している中で、現在の道場の基盤は、将棋教室だ。基本は月謝制で、8月現在子ども164名。大人33名合計197名の生徒がいる。これに、日々道場に対局に来られる方の席料が収入となる。現在は一人で出来る規模ではないのでスタッフがいる。当初1人から始まり20年掛かって現在の規模になった事などを、来月以降から書いていこうと思う。
(続く)(児島有一郎)