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#25 「松山商科大学(定時制)時代 4」

2022.7.7 更新

児島有一郎

1月に入ってから学生相談所で見つけたアルバイトは、松山市役所の近くで建設中の完成が近い10階建てのビル清掃の仕事でした。3週間程働き日当5000円で昼食付でした。清掃と言っても完成してないビルの、室内の建設資材の片付けや、細かな引き渡しの為の清掃です。朝現場に行くと社長に言われるのが、学生相談所に内緒と言う約束でビルの外壁に付着したコーキングを落とす作業を引き受けるかという事です。引き受けると日当が1000円+されて6000円もらえました。外壁にはピケ足場が組んでありますが、1~10階までの作業なので落ちれば死んでしまいます。学生相談所は危険な作業はさせないという事になっているので、誰かが言えば相談所の利用は出来なくなる会社でした。今考えると相当危険な仕事でした。しかし、私は日当が1000円増えるので率先してやりました。仕事も危険でしたが、一番堪えた事は寒さです。大した防寒着も持っていなかったので、震えながら仕事をしていました。自分の持っている衣服で翌日は対策して行きますがどうにもならない日々が続きました。その後も多種に渡りバイトをやりました。多分30種以上のアルバイトをしたと思います。覚えている主なものは、事務所の引っ越し、建設中だった松山市コミュニティセンターの企画展示ホールの内外装工事、杭打ち、土木作業の斫作業、公衆電話の撤去、椿祭りの駐車場整理、伊予鉄そごうでの閉店後の撤去作業(複数社)、パン工場等他にもありますが1日のみのバイトも多くこれくらいしか記憶にありません。この頃の事で覚えている事は、現場に遠出する場合は待ち合わせ場所が、学生相談所前が多かったのですが、私は待ち合わせ時間の20分前には行く事にしていました。これは相手の方が待ち合わせ時間の10分前には来るだろうから、相手方を待たせてはいけないと思い。その10分前には行っておこうと心がけていたからです。バイト先の迎えの方が早めに来られた時に私が待ち合わせ場所にいると、最近では珍しいタイプだなとよく言われました。先ほど挙げたバイトの中で、一番割の良かったバイトは杭打ちでした。日当は8000円と昼食付で大変そうなので友達は行きませんでしたが、行ってみると杭と言っても片手で持てる鉄杭でそれを金槌で地面に打ち込むだけでした。その鉄杭に電流を流す地質調査の仕事でした。しかも初日は2時間で終わりました。その会社の方は、翌日は県から視察が来て検査があるので、前日はその為の予行演習だと言っていました。2日目も2時頃には終わりました。沢山バイトしているとこんなに割の良い事もあるのだと思いました。公衆電話の撤去はハードな仕事でした。トラックの荷台に積んである使わなくなった緑の公衆電話を降ろして行く作業ですが、1人では運べる重さではなく大変でした。この会社が酷かったのは通常バイト代は日払いなのですが、後日、来住町の事務所に取りに来るように言われました。それだけでも二度手間なのですが、取りに行くと準備出来てないので、また別の日に来るように言われました。2度目には支払ってもらいましたが、文句を言って帰った記憶があります。自分に向いてないと思った仕事は、パン工場での仕事です。ベルトコンベアで流れ来るプラスチックトレーに紅白饅頭を載せていくのですが、3日間がとても長く感じられました。2時間働くと15分休みでしたが、機械に合わせて作業する事は、時間が経たずに私には向いてないと思いました。一緒に行っていた友達も時間が経たず大変だと言っていましたが、その友達は後日、プリンを作っている会社に3ヶ月バイトに行きました。同じように流れ作業の仕事ですが、「大丈夫」と聞くと、慣れて来ると楽しみが見つけられるようになったと言っていました。母親は家の近所の三瀬商店という卵工場で卵の選別をしていましたが大変な仕事をしながら育ててくれたのだと改めて感じました。

3月に入った頃でした。岩崎町にある花園と言う花屋さんのバイトに1週間行く事になりました。家から歩いて数分の場所でした。花屋さんと言ってもメインの仕事は観賞植物のリースを主にしていました。当時のそごう(現髙島屋)や街の衣料品店、喫茶店、道後のホテル等に観葉植物の貸し出しを行っていました。同業者も数社あったようですがリースの件数では松山では上位の会社だったと思います。仕事は車に乗ってリース先に行き、観葉植物を交換して持って帰るというものでした。車に乗っている時間もあり、1日は早く経ちました。1週間勤めると、私が定時制に行っている事を知った社長が当分、毎日バイトに来てくれないかと言ってくれました。私には有難い話だったので働かせてもらう事にしました。大学4回生の時には社員になり、大学を卒業した年の9月迄勤めたので3年半お世話になりました。吉田節夫社長には仕事や交友関係の基本を教えてもらったと思っています。当時の花園さんは社長・奥さんと私が勤め出して愛媛大学の定時制を卒業した首藤さん(現社長)と首藤さんの弟さんで愛媛大学の定時制の2回生だった勝則さんとお店のパートの方が2人いた小さな有限会社でした。私が1週間一緒に仕事していた方が辞めたので、私に声が掛かったようでしたが、私は車の免許がなかったので、仕事には差し障りがありましたが、社長は良く雇ってくれたと今でも感謝しています。今でも年に数回ですが花を買う時は花園に行くようにしています。

4月になり大学の休学期間も終わりここからは、真面目に授業に出なければと思い直しました。私は入学当初、自分の勉強したかった事を履修して授業に出ましたが、理解出来ずに授業が嫌になった事も休学の理由にありました。今回はM先輩のアドバイスをかなり参考にして履修しました。M先輩も私と同じ定時制でした。短大扱いなので2年で終わりますが4回生でした。中学は愛媛の有名進学校卒ですが、高校は3校行き結局、大検を取って松山商科大学の短大部に入学、2年間は授業も出席せずに3年の途中から出て卒業に漕ぎ付けた苦労人?です。M先輩には卒業したければ、単位の取りやすい授業を履修しろとアドバイスを受けました。毎年、同じ問題を出す先生の授業。テストが教科書持ち込み可の授業。出席を真面目にしていれば単位を取れ易い先生の授業等ですが、その通りに履修しました。授業は1/3休むとテストが受けられなくなるので出欠は気を付けましたが、授業を真面目に聞いた記憶はありません。1つのエピソードですが、私のアパートから会社まで徒歩3分位だったのですが出勤する時に、雨も降っていないのに長靴を履いて傘を持っている人と良く会いました。傘を持つのは普通ですが、雨降ってないのに長靴は私には変に感じました。前期のテストの時その人が教室に入ってくるのです。私は大学の事務員さんだったのかと思いました。テストなので問題用紙を配りに来たのだと思ったのですが、声を聴いていつもの教授だと分りました。それくらい私は授業中に前を見てなかったという事です。それからはその先生と会うと挨拶をする事にしましたが、何の授業だったかは覚えておらず柚山先生という名前しか記憶にありません。

5月の連休に中四国学生大会が岡山市で開催されました。私はバイトの関係で余り長く休みが取れず、大会の前日までバイトをして夕方の広島行きのフェリーにバイクを載せ宇品港に渡りました。その日は中学時代の友達(渡部君・通称エイリアン)が広島経済大学に行っていてその寮に泊めてもらい、朝5時にバイクで岡山に出発しました。8時頃には皆が泊っている宿舎に合流して大会に参加しました。今なら倒れそうなスケジュールですが、やはり若さなのか、この頃はあまり疲れを感じませんでした。しかし、この時の大会での私の将棋内容と将棋に対しての姿勢は本当に酷いものでした。それが結果にも表れました。前回1敗だったA級の団体戦は全敗、個人戦の予選は抜けたものの2回戦で敗退しました。将棋は右四間飛車1本で単調な将棋(実際は疲れで考える事が嫌になっていたのかも知れません将棋は疲れていると考えられなくなります)でしたし、服装はTシャツにジーンズに捻じり鉢巻きをして臨むと言う失礼なものでした。この頃は新日本プロレスの長州力が好きで、将棋大会の会場にラジカセを持ち込み長州力のテーマパワー・ホールを流す始末です。こんな事で勝てる訳がありません。私が全敗の上にもう一人のポイントゲッターである前部長木山さんも大会の朝姿が見えません。木山さんも前日のバイトが休めずに朝の新幹線で岡山に着くはずでしたが、会場にいないので対局開始後ギリギリまで待って来なければ、時間切れ5分前に1回生の田中君を指させるという作戦を取りましたが、結局、1日目終了まで会場には現れず、宿舎に帰っている途中に会いました。事情を聴くと疲れていて車内で寝ていて岡山を乗り越して気が付いたら名古屋だったそうで、そこから引き返して来たという事でした。その状態では対局していても勝てなかったかも知れません。翌日の1局目は、前大会で最終戦に優勝決定戦を戦った島根大学と降級決定戦をする事になりました。ここを凌いで何とかA級に残留しました。その日の個人戦ですが木山さんの対局であり得ないものを見ました。将棋は木山さん必勝でした敵玉は受けが難しく、歩で王手を掛けて来ました。どう応じても自玉は安全なのですが、木山さんは読みを入れてから手が相手陣に伸びて王手放置の反則負けになりました。団体戦は市川君が勝ったと思いますが、新戦力の前田秀房君の力も大きかったと思います。後は植條さん、高橋さんの力で何とか残留出来たのだと思いますが、この大会での記憶はあまりありません。前田君は高知県出身の新入生で将棋世界の段位検定で五段を取ったと言っていましたが、高校の高知県代表経験者で手厚い強い将棋でした。私はかなり負け越したように思います

(続く)