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#1 「将棋と出会うまで」

2020.6.23

児島有一郎

皆さん、こんにちは。松山将棋センターを主宰している児島です。新しくコラムを掲載していきます。不定期の更新になります。仕事の合間、気分等で執筆して行きます拙い文章ですが、気長にお付き合いください。テーマは私が将棋に教えられた事、考えさせられた事、人との出会い等を書いて行きたいと思います。事実は小説より奇なりと言いますが、小説と思って読んで頂けるとありがたいです。

早速ですが、皆さんの最初の記憶とは、どんなもので何歳位の時でしょか?私は将棋教室では、子ども達に生まれて直ぐと言っています。これは将棋教室で対局中に泣く子どもがいると、「対局中には泣くな、先生は生まれた時も泣かなかったよ」と言ってるからです。普通は生まれた時に泣かないと、看護師さんにお尻を叩かれて泣かされます。泣かないイコール息をしていない。しかし、私はそれでも泣かずに両手をシッカリ握り、看護師さんに「我 慢」と言って生きている事が解ったのだと言っています。作り話なのですが、本当の所の最初記憶は、2才の終わり頃だと思います。その記憶とは、母の父である中村糺(ただし)爺ちゃんに渡り廊下を一人でハイハイして何度も怒られたと言うものです。私の田舎は現宇和島市吉田町(旧北宇和郡吉田町)です。今も母が住んでいますが、そこには中庭を囲むように渡り廊下があり高さが1m程で柵もないので落ちると危ないので、通ってはいけないと言われていました。それを私が母屋からその廊下を、ハイハイしながら祖父の部屋まで行き祖父に何度も怒られると言う記憶です。私は昭和42年6月7日生まれなのですが、糺(ただし)爺ちゃんは昭和45年の8月に肺炎で亡くなっているので、私が怒られていたのは、2才の終わり頃だと思っています。しかし、次の記憶となると4才位になってしまします。当時は父の実家である高浜5丁目に父の両親(児島岩敏・千嘉子)と住んでいました。丁度、松山観光港の目の前の路地を入ったところです。家は建て替わっていますが今も、叔母夫婦(父の妹児島幸子)が住んでいます。その路地を歩いている記憶が次の記憶です。観光港前の通りから一本山手側の通りが遊び場でした。そこで遊んでいる記憶が次の記憶になります。あと覚えているのは、1年保育だったのですが、三津浜幼稚園を受けに行く日(昭和42年は丙うまの翌年で子どもが多かった)に母が化粧に手間取り(あくまで私の記憶です)家から出るのが遅くなり、高浜からタクシーに乗って三津浜幼稚園まで行ったのですが、門が閉まっており抽選に間に合わなかったと言うものです。それで高浜6丁目の高浜保育園に入園しました。私には年子の弟(剛・伸宏)が2人いるのですが、3人同時に入園しました。当時の私の家庭は父が松山市役所、母が松山中央卸売市場でタイプライター打ちをしていました。父が公務員なので保育園だと、お金が沢山掛かると言っていたのを覚えています。

私がどんな子どもだったのか一つのエピソードを紹介します、この頃は家が近かった事もあり、梅津寺パークによく連れて行ってもらいました。そこで父とゴーカートに乗るのが好きだったのですが、梅津寺のゴーカートは距離も短く値段が高かったです確か2人乗りで200円でした。それに比べて道後公園のゴーカートは距離が長く1人だと50円2人乗りが100円でした。私は道後公園のゴーカートに乗りたくて、叔父の家に遊びに行った時(現在の松山大学近辺)道後公園に連れて行ってと駄々を捏ねましたが連れて行ってくれません。それで私は50円を握りしめて道後公園まで歩いて行きました。道は何となく覚えていました。今でもその辺りを歩くと懐かしいです。幼稚園でよく歩いたなと思います。道後公園についてゴーカートに乗ろうとすると、小学校2年生以下の子どもは大人と一緒じゃないと乗れないように書いてありました。私は、嘘をついて乗ろうかとも考えましたが、身体が小さい(小学校入学時は106㎝19㌔)のでバレると思い人が乗っているゴーカートを眺めていました。3時間程だと思いますが、現在の子規博物館を出た辺りに座っていると、母が「まさかと思ったけど」と言いながら探しに来てくれました。それでゴーカートに一緒に乗ってもらいました。この頃から私は相当に頑固と言うか言い出したら聞かない一面を持っていたようです。

道後公園が出たのでついでに話しますと、私は3才~4才までの1年間ほど道後公園内に住んでいました。その話をすると今の子どもにはホームレス?と言われるのですが、私が生まれた頃は鷹ノ子公民館に住んでいたそうです、父が松山市の福祉課に勤めていた関係で、母が鷹ノ子公民館の管理人をすると言う事でそこに住んでいました。その後出る事となり、今度は母の兄夫婦(中村基三郎・純子)が道後公園で(展望台の下の花見広場)南予荘と言う民宿をやっており昭和45~46年頃そこに一緒に住んだそうです。伯母が南予荘を始めた理由は、伯母の伯父水谷正太郎さんが愛媛県議会議員(1期)を務めていた頃、南予から来た人に宿泊してもらうという事で民宿を始めたと聞いています。伯父夫婦はそこに10年以上住んでいたらしいのですが、46年頃に公園の中に住んで居る事がダメになり立ち退きになったそうです。しかし、ここでの私の記憶は一切ありません、広場で撮った写真は残っているのですが、印象に残る出来事がなかったのでしょうか。それで父の実家の高浜5丁目に引っ越しました。

次に私が覚えている記憶は日時までわかります。昭和47年5月15日です。父とテレビを見ていました。父が「歴史的な瞬間だ、今から沖縄が日本に戻ってくる」と言ったのを覚えています。テレビの画面は交差点を映していました。

そろそろ将棋の話をしたいと思います。小学校に上がる頃です。家に将棋盤と駒があるのを見つけて、父にルールを教わりました。その将棋盤の足は電柱の部品のがいしを脚にしていました。当時はどの家庭にも将棋盤はあったように思います。父の将棋のレベルは5級位です。将棋よりは囲碁の方が好きで、現在は二段位で松山市の高齢者の大会で優勝をした事もあります。当時、夜は8時~9時までに寝ていましたが、その日は0時頃まで父と将棋指しました。私が先手で歩ばかり動かし動かす歩が無くなり、先に相手の歩の前に歩を出して取られるという事の繰り返しでしたが、なぜか将棋が面白く現在に至っている訳です。私には忘れられない日です。

(続く)