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#2 「不思議な事」

2020.7.7 更新

児島有一郎

物心が付いた頃から、不思議な事がありました。父親が1週間に半分位しか家に帰ってこない事です。お父さんは何所で寝ているのだろう?市役所の仕事ってそんなに忙しいのかな?とは思っていましたが、母にその事を尋ねた事は、私の記憶ではありません、何となく聞いてはいけないような気がしていました。一度父親に連れられて仕事場から旅館の様な所に泊まった事があり、お父さんはこういう所で寝ているのだと思った事もあります。父親の印象は怖かったですが、嫌いではありませんでした。昔はありがちでしたが、小学校に上がる頃に、ビール飲めとかタバコ吸ってみるかと言って飲ましてくれる人でした。今思うとそうして酒タバコの不味さを教えてくれたのかと思います。その年齢で酒タバコが美味いと思える子どもは流石にいないでしょう。雀荘・パチンコにも連れて行ってくれました。雀荘は退屈でした何時終わるかわからないし遊ぶものもないので嫌でした。パチンコは父親が調子良いと玉をくれて打たしてくれたので雀荘よりは時間が経ちました。逆に私が付いて自分の玉がない時は取られました。但し、父親も私が小さかったからパチンコに連れて行っていたようで、中学生の時に市内で会った時に今からパチンコに行くと言うので、俺も行こうかと言うと馬鹿な事を言うなと怒られました。その辺の分別はあったようです。そんな感じの父親でした。あと何となくお金に困っている事は子どもながらに感じていました。私が小学1位の時に、住んで居る家が狭かったので(玄関から2部屋を祖父祖母が使い、台所との間の一部屋を父の弟さんの部屋でした。私達5人は台所の奥の1部屋で生活していました)父が2階を増築すると言って従弟から100万(家に持ってきてくれた)借りたのを覚えています。家が広くなるのは何か嬉しくて工事が待ち通しかったのですが、何時になっても工事は始まりませんでした。そんな状態なので夫婦喧嘩も良くありました父が手を上げるので子どもながらに、女の人に手を出すのはダメだと思いました。それで母は家を出ていくのですが、一緒について行くのは弟2人でした。私は家に残ったのですが、祖父祖母がいるとは言え母がいない時も父が家に帰ってこない日もありました。長い時は一月程母がいない時があり、その時は流石に伯父の家や宇和島市の実家等を父が探しに行きましたが、母は居ませんでした。

小学2年の頃です。突然、母の兄夫婦の基三郎伯父さんと純子伯母さんが訪ねてきました。そして、二人の前で正座で、うな垂れてれて一言も声を発しない父親がいました。その日は伯父の前では一言も喋りませんでした。この日の印象が強すぎて、中学生の頃この日の事を伯父に尋ねました。内容は、借金を清算してやるから母とやり直せという事だったそうです。伯父にそんなにお金持ちなのと聞くと100万位(昭和49年頃なので今なら300万位)までならの心算だったと言っていました。後年、父の妹さんにその話をすると、金額が多すぎて言ってもどうにもならないと思って言えなかったのではないかと言われました。父親の借金は、私が大人になって父方の親戚の方に聞くと大変な額だったようです。伊予鉄に勤めていた祖父の退職金で支払い、その後、高浜の家が抵当に入り(それを父の弟さんが買い戻した)他にも保証人にもなってその払いもあったようです。保証人になった理由は保証人になってもらったので、その代わりその人の保証人になったと言う事でした。私が高校生の頃から母親が私に保証人だけは絶対になるなと何十回も言っていたのですが、父の事があったからだと思います。その話はまた後に出てきますが、馬鹿な私はそれで大変苦労するのです。他にも親戚の方で300万以上を貸して返してもらってない方が、私が知っているだけで3人います。それだけのお金を父は一体何使ったのか、今でも父には聞けません。

そういう家庭でしたので、母も高浜の父の実家に居ても面白くなかったので、土曜になると松山市喜与町にあった伯父の家に毎週のように泊まりに行っていました。そんな事情もあり、基三郎伯父さんと純子伯母さんは本当の親のように接してくれていたと思います。

こんな事もありました。父が三津浜の辺りでバイク(父)と車の事故で鎖骨を骨折して入院しました。その頃ですが場所は覚えていないのですが、母が3人の子どもを連れて、ある家を探していました。その家は留守でしたが、近所の家に入りその家の事を聞いていました。私の記憶ではパジャマ姿の男の人が訪ねて来る事がありますよと、その家の方が話していた記憶があります。それとその家の方が苺を出してくれて、兄弟3人で争うようにそれを食べました。母はあの時は恥ずかしかったと後年言っていました。碌な物を食べさせてないと思われたと、子どもで男の子3人だとそんな事は普通だと思いますが、母は松山卸売市場の青果部に勤めており、果物好きだったので、当時から果物は毎日を食べさせて貰っていたので、その話をされると母に恥ずかしい思いをさせたと反省しました。話が逸れましたが、母が探していた家は、父が交際していた方の家でした。パジャマ姿の男とは父の事で、入院している病院を抜け出してその家に行っていたようです。私はそんな事は全く分からず後年、そういう事だったのだと理解しました。後日、母が私を連れて改めてその家を訪ね、その女性と対峙していた事は今でも覚えていますが話の内容はわかりません。父は、家に帰ってこない時は、そこで寝泊まりしていたのだと私が理解するのは、それから2年程掛かりました。

小学3年になった頃です。ある朝、登校前に父が子ども3人を集めて話があると言いました。内容は、事情があって一緒に住めなくなる、お母さんの実家に行ってくれ、必ず一緒に暮らせるように迎えに行くと言うような話でした。集団登校で小学校に行く途中も弟達は泣いていました。私は長男なので、弟達の前で泣く訳にはいかないと思い我慢していました。私は永らく父の必ず迎えに行くと言う言葉を信じる事になります。

3年の夏休みに私達は、当時の北宇和郡吉田町(現宇和島市吉田町)の母の実家に引っ越しました。その時の母は、タイピストという手に職もあったので、松山でその仕事をしながら私たちを育てるか、吉田町の実家に帰るかと言うものでしたが、子どもが小さいので祖母がいる実家の方が何かと良いだろうという事で吉田町に帰ったようです。そこからの母の生活は本当に大変だったと思います。

(続く)