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#17 「高校2年時代(宇和島南高校)4」

2021.10.15 更新

児島有一郎

高校2年になり、将棋同好会にも1年生部員が多数入りました。2年生の部員は大塚君の他には、富永俊則君、寺崎博文君が入部していました。島津君は他の部活をしていたので入部はしませんでした。富永君と寺崎君の棋力は2,3級位になっていましたが、大塚君は同好会に来なくなっていました。代わって部員ではないのですが、剣道部の長岡洋光君とテニス部の西村昭生君が、部活のない時に指しに来るようになっていました。長岡君、西村君は大塚君と同じ位の棋力で、宇和島には強い人が多いという印象を持ちました。西村君はお父さん(昭蔵さん)が将棋好きで、宇和島の将棋道場や南予開催の大会に良く通っており道場三段位でした。お父さんに鍛えられた西村君は初段位の実力がありました。長岡君は西村君と同じ中学の友人同士で2人で対局して長岡君が強くなった感じでした。しかし、2人とも部活の顧問が厳しく、掛け持ちでの入部を許してもらえないので、高校大会には3年の総体が終わるまでは出られないと言うのです。しかし、土曜は一緒にと金クラブに行く事もありましたし、月1回の月例会にも部活動の都合が付けば出場していました。クラスは2番目のクラスで、昇級する事もありませんが降級する事もなかったのでやはり棋力は初、二段位の力だったと思います。私としてはこれだけの実力があるのだから、大会が近づけば2人とも出場してくれるのではないかと思っていました。2年の大会が近づくにつれて、私は昨年のベスト4の雪辱を晴らすべく大会に臨みたかったのですが、私の思いとは反対に物事は進んで行きます。大塚君は原付の無免許運転が発覚して停学となり、将棋同好会も退部しました。西村君と長岡君にも相当お願いしましたが、掛け持ちは出来ないし退部も出来ないと言われ、結局2人の出場は諦める事になりました。高校選手権県大会には、私と富永君、寺崎君の3人チームで出場しようと思いました。1年生は出場人数によってチームと個人戦に出ようと思いましたが、やはり部活ではなく同好会だったので遠征費が自費という事が大きく思ったほど参加者が集まりませんでした。そんな中また問題が起きます。大会の申し込み日が近づくと、毎日練習に来てくれている寺崎君が大会には出場しないと言うのです。理由は宇和島市を離れてまで将棋を指そうとは思わないと言うのです。私は同好会の活動なのだから冗談だと思っていました。今と違い当時は、高校の将棋大会は1年1度の高校選手権しかありませんでした。その1度の大会の為に1年間頑張っているのです。現在は高校選手権、高校竜王戦、新人戦の全国大会・四国大会(各県8人代表)と3つの全国大会と四国大会があり私たちの頃から考えると羨ましい限りです。高校選手権だけの為に頑張っているのに、その大会に出ないと言う寺崎君が私には理解出来ませんでしたし土壇場になれば、出場してくれると思っていました。大会の申し込みは私と富永君、寺崎君で団体戦の申し込みをしました。1年生は2人が出場するので個人戦で申し込みました。大会前日に寺崎君に、明日は頼むよと言いましたが「俺は行かんよ」と言われました。1チーム3人の団体戦なので寺崎君が出場してくれないと、私たちが困る事は分かっているので、朝の集合時間には来てくれると信じていましたが、当日の集合の宇和島駅に寺崎君は現れませんでした。富永君に「出場しないのは本当だったのだね」と話して、私は表面上平静を装いましたが、心中は相当に落ち込んで松山行きの電車に乗り込んだのを覚えています。昨年は、同好会がある訳でもなく、同じクラスの将棋好きを集めて直ぐに出場する事が決まりベスト4に入ったのに、同好会で1年間活動してきて、大会出場のメンバーが揃わないとはどういう事なのかと考えてしまいました。本当に世の中とは思ったようには、上手くいかないものだと思えます。こんなことなら個人戦に出場する1年生を団体戦入れて参加していれば良かったと思いましたが、私は寺崎君が当日になれば参加してくれると信じていたので1年生を入れる事をしなかったのです。

大会は昭和59年6月24日(日)に、前年と同じ済美高校で行われました。1名メンバーが来てない事を受付で話して大会は始まりました。当初は、1人が不戦敗で2人が勝てばチームの勝利になると言われて1回戦に望みました。1回戦は私と富永君共に勝ちチームも初戦突破と思ったのですが、対局終了後に1名足りないのでやはり団体戦の出場は認められないと言われました。1回戦の対局は個人戦扱いとする事になり、私と富永君は個人戦予選の1回戦勝利という扱いで、個人戦の予選2回戦に望むことになりました。チームは不戦敗扱いで、対戦校の大洲高校Cの勝ち上がりとなりました。大会の数日前に、新田高校の清水一郎君から連絡があり、1年以上前に将棋部を退部していたのだが、顧問の岸先生に頼まれたので、今年は団体戦に出場すると連絡がありました。新田高校の将棋部顧問の岸宏先生は、部活動に熱心な先生でした。私とはあまり接点はなかったのですが、松山将棋センターをオープンして5年目位の頃、突然訪ねて来て頂き役立ててくださいと棋書を段ボール1箱分頂きました。学生時代に少し話した事がある程度だったので覚えて頂いていた事に驚いた記憶があります。

個人戦に回る事が突然決まりましたが、3年生で今年が最後の市川君が、昨年と同様に個人戦に出場していたので優勝とか勝敗をあまり意識せずに対局に臨めました。その後、2連勝で予選3勝して予選を通過しましたが、清水君の新田高校Aが3回戦で八幡浜高校に1勝2敗で敗退しました。八幡浜高校は大将、副将が有段者で3将は級位者でした。清水君は新田高校の3将だったので大将か副将ならまた違う結果だったかもしれません。新田高校Aは敗退しましたが、清水君は団体戦の個人成績は3連勝で、個人戦ベスト8に進出してきました。この年は市川君も勝ち残っていました。ここまでくると優勝を意識し始めましたがベスト8の抽選が行われる時に私は嫌な予感がしました。元々、くじ運は良くないので、清水君、市川君どちらかと同じブロックに入るのではと予感がしました。抽選の結果、私の嫌な予感が当たり順当に勝ち上れば、準決勝で清水君、決勝で市川君と当たる組み合わせになりました。準々決勝は3人とも勝ちベスト4に進みました。私は苦手な清水君との対戦ですが、この時は気持ちが負けなかった事を覚えています。1年以上対局した事がなかった事と、清水君は1年以上将棋を休んでいたので負ける訳がないと言う気持ちで対局に臨めました。戦型は矢倉になりました。清水君の持ち味は切れ味鋭い攻めにありました、私も攻め将棋だったのですが、清水君ほどの切れ味はありませんでした。しかし多少無理気味でも攻撃の形を作れば自分の将棋に持ち込めると思っていました。結果攻め切って勝つ事が出来ました。決勝は優勝候補大本命の市川君です。対局室も応接室に移動しての椅子対局ですがの低めのテーブルに脚付きの将棋盤を置いての対局となりました。部屋の周りに松山工業、宇和島南、その他の残っていた方20名以上が取り囲んでの対局となりました。秒読みは清水君が担当してくれました。大会審判長の笠崎政之四段(当時笠崎家具の社長だったと思います)の見守る中対局は始まりました。持ち時間は15分30秒位だったと思います。棋譜が残っているのですが、市川君が3手目に角交換をしてきました。当時の市川君の将棋は手厚い受け将棋でと金を自陣に引き付けて来るようなイメージでしたが、私は自分の得意の攻めに持ち込みやすいので比較的組し易い所はありました。それでも強靭な受けに切れ筋に持ち込まれる事も良くありましたが、この時は私の穴熊を封じる為に3手目に角交換をしたのだと思います。私は居飛車で対応し、市川君は振り飛車に構え力戦になりました。私が不利な将棋を怪しい手で粘って逆転、その後も派手な手の応酬で二転三転して市川君を振り切って勝つ事ができました。内容はともかく熱戦だったと思います。終局後に笠崎審判長に言われたのは、私は30秒ギリギリまで考えて指していたのに、市川君は着手が早かったと言われた事でした。高校最後の大会の市川君より私の方が無欲で臨めたのかも知れません。後日、秒読みをしてくれた清水君に言われたのは、対局に熱中するあまり秒読みを忘れてしまい30秒の秒読みが正確に読めていなかったと話してくました。市川君はそれに気づいており、対局中に気にしていたようですが、私は全く気付いていなかったという事です。それだけ私の方がその一局には集中していたという事だったのでしょう。私に取っては本当に無欲の優勝でした。相手は格上で負けて元々の気持ちでぶつかりましたが、市川君は最後の高校選手権でこれを逃すと、高校で度も全国大会に出場出来ないと言うプレッシャーは大きかったと思います。市川君の中学3年時の中学選抜の準決勝、そしてこの大会と市川君に勝つ事が出来た事が私の中学、高校の思い出です。市川君には私に青春を2度潰されたと今でも言われます。団体優勝を目指して1年間、同好会活動をしてきましたが、寺崎君の不出場で個人戦に回り、自分としては思ってもない優勝でしたが、この個人戦優勝が認められて、来年からは同好会から部に昇格する事が決まりました。しかし、この年は同好会なので部費がなく、夏休みに東京で開催される全国大会への遠征費は自費になり、引率の先生も自腹で引率をしなければなりませんでした。参加出来るかどうかも校長先生の判断によると言われ、金銭面の他にも出場出来るのかわからない状態でした。

(続く)