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#16 「高校1年時代(宇和島南高校)3」

2021.9.20 更新

児島有一郎

この頃の将棋への熱意は、中学時代ほどではなく部活(同好会)で対局、土曜の午後はと金クラブでの対局、家では棋譜並べを中心に勉強していました。プロの将棋はあまり並べずに、将棋ジャーナルのアマ強豪の将棋を中心に並べました。当時のアマ強豪の将棋の印象は少し工夫した得意戦法を持っている人が多いという感じでした。あとは月1度のと金クラブの月例会に出場するのが実戦の場でした。松山将棋教室から将棋大会の案内は届いていましたが、牛乳配達をしているので基本的には泊りでの遠征は無理になっていたので松山に行く事もなくなりましたし、後述しますが松山将棋教室も、中の川に将棋横丁と言う道場が出来て迷走期に入っていたようです。

この頃一番熱中していた事は筋力トレーニングでした。少林寺拳法の練習を吉田町に変わってからの、そこでの練習前の準備運動はかなりハードなものでした。まずは、柔軟体操、続いて腕立50回、腹筋50回、拳立(コブシを当てての腕立て)50回、膝曲げ腹筋50回、指立(指での腕立て)50回、足上げ腹筋3分、手首を裏返しての腕立て50回、背筋50回、手首で表裏返しの腕立て50回、首振り50回、最後に壁にもたれての倒立3分で準備体操が終わるのですが、準備運動がこなせるようになるのに3ヶ月程掛かりました。初めて来た人でこの準備運動こなせる人はいませんでした。このメニューは練習日だけなので、家では朝起きた時、学校から帰った時、寝る前に腕立て300回、腹筋300回、1日腕立てと腹筋を900回ずつしていました。母に「何の為にそんなに身体を鍛えるの」と聞かれて、「家は貧乏で貰う財産もないから、お母さんに貰った身体を鍛えているのだ」と答えると「それなら頭を鍛えなさい」と言われていました。

高校1年の時は、そんな生活の繰り返しで特に日常生活で記憶に残っている事はありませんが、学校生活では高校大会の引率に来てくれた中村陽一先生が独特なキャラクターで印象に残っています。英語の先生で趣味は釣り、自給自足の生活が出来るように心がけていると言っていました。学校で何か悪い事をすると、罰を与えられるのですが、それがユニークでした。私が初めて与えられた罰は木を切る事でした運動場の端に、切り倒された直径40~50cmの丸太を鋸で輪切りにすると言う物でした簡単そうですが、初めてした時は1回輪切りにするのに2時間程掛かりました。中村先生はこの輪切りにした木を持って帰って、自宅の風呂の薪にしていました。今なら問題になりそうですが、当時は誰も問題にする人はいませんでした。授業もユニークで英語の授業なのに全く関係ない問題を出して、答えると中間・期末試験の点数に足してくれました。私は英語が相変わらず苦手だったので助かりました。高校受験の時は点数としては60点位取れるようになっていましたが、やはり付け焼刃の勉強だったので、忘れるのも早く、高校入学までの1ヶ月ほど勉強をしないと、忘れてしまった事も多かったです。高校に入ってからの英語は30点~50点位と苦戦していました。宇和島南高校は赤点が29点以下だったのですが、宇和島東高だと赤点は39点以下だったので、東に行っていれば進級できなかったのではと思えました。授業で英語以外の問題で点数を足してくれる中村先生は私には有難い先生でした。覚えている問題は、関ヶ原の合戦で西軍を裏切ったのは誰?と言う問題と、ホゴと言う魚の説明をしなさいと言う事でした。ホゴの説明には私は自信を持って手を挙げて「ピチピチして美味しい魚」と答えました。正解と言われ1点もらいました。他にも年間で5点程もらったと思います。私の記憶では、中学以降で5教科の最低点数は、高校1年の時の英語で28点ですが、この時も点数を足してもらえたのでギリギリ赤点を逃れました。失敗もあります。隣のクラスの亀井君が1時限前の授業で英語の教科書を忘れたと言うので、教科書を貸す代わりに英訳を書いといてと頼みました。次の私の授業時間、英訳が書いてあったので私は安心して授業に臨み、私に当たったので亀井君の書いた訳を読みました。出だしは「トムはジゴロだった」から始まりました。まずジゴロとは何だろうと思いながら読みましたが、読み進めて行くと途中で読むことも出来ない内容になっていて亀井君にやられた事に気づきました。後でわかりましたが前日にテレビでリチャードギアのアメリカンジゴロと言う映画をやっていました。これで罰が1回追加です。こんな事もありました隣の席の大塚君に、ワシントン大統領の子どもの頃の、桜の木の話が当たりました。大塚君が私に教えてくれと言うので、小声で「ワシントンが桜の木を切ってしまいお父さんに誰が切ったのかを問い詰められた時に、僕じゃないよ」と嘘をついたのに手に鋸を持っていたと教えて大塚君がそのまま話して、中村先生に「面白いじゃないか馬鹿者」と怒られて罰が追加されました。私は1年で7回程の罰だったと思いますが、多い人は20回程で、島津君もそれくらい受けました。中村先生は、釣りが好きで朝方まで釣りをして授業に来たという事も話していました。定年退職したら、松山の高浜に住んで船を買って釣りをして暮らしたいとも話していました。私が小学3年まで高浜に住んでいた話をしたので、釣りの事、魚の事を聞かれましたが、私はあまり釣りに興味がなく子どもの頃に、何度か父親に連れられて高浜観光港や高浜港の桟橋から釣りをした程度なので、話について行く事が出来ませんでした。子どもの頃、釣りに行って釣れた記憶がないので釣りが嫌いになったようなものでした。本当に釣りが好きな人は釣れなくても面白いと聞いて、勝てなくても将棋が面白いという事に共通すると思いました。中村陽一先生は私が苦手だった英語の先生でしたが、小・中・高の担任の先生の中でも印象に残っている先生の1人です。

冬休みには年賀状の配達をしました。これは高校3年生まで3年間やりました。冬休みに入り2週間程のアルバイトでした。バイト代は覚えていませんが私の配達区域は家の近所で、吉田町の中心部だったので配達も早く終わりました。年賀状の期間ではない時期は昼過ぎには配達が終わりました。終わると帰る事が出来て1日分の給料をもらう事が出来たので割の良いアルバイトでした。1月1日が仕事という事が少し辛い事くらいでしたが、特に正月にする事もないので然程苦にはなりませんでしたが、朝牛乳配達をして帰ると朝ご飯を食べて直ぐに郵便配達なので結構忙しかった事は覚えています。1月1日の配達枚数が流石に多かったですが、16時位には配達が完了したように思います。通常配達の定時の5時まで仕事した事は3年間で1度もありませんでした。2日は配達が休みですが3日に出勤した時にクレームが入っていました。1日に年賀状が届いてないと言う物でした。その家は年賀状の枚数が多い家なのに、1枚も入っていないと言われ、間違えて他の所に配達してないかと言われました。その隣の家に多くの配達をした記憶がありそれを、通常に配達している方に伝えると、そこはお婆さんが一人暮らしをしているので、そんなに年賀状が配達される事はないと言われ、一緒にお婆さんの家に行きました。すると隣の年賀状をその家に配達していました。量が多いと家は輪ゴムで止めるのですが、その時に2件分の年賀状を1件分として束ねてしまっていたのが誤配の原因でした。

この頃数ヵ月に1度くらいですが、日曜日に友達と家でトランプ(主にポーカー・セブンブリッジ・大富豪)をしていました。ただトランプをするのではなく、お酒を呑みながらするのですが、私は煙草を喫いませんが中学の時に基三郎伯父さんに陰で煙草喫っているだろうと言われ続けてので、それを証明する為にも、大人になっても煙草は喫わないようにしようと決めていましたが、お酒は小学生の時から父親に少量ですが吞まされていたので、飲酒に罪悪感がありませんでした。それどころか、呑み過ぎて酩酊してしまう父親を見て、なぜ、水みたいな物を飲んで酩酊状態になるのか不思議で自分は酒に呑まれんという事を証明しようとする自分がそこにはいました。それが楽しくて何度かやっている内に、朝まで友人が泊まり込みでトランプをしました。皆で酔っぱらいました。友人が帰ってから、頭は痛いし部屋の中の荒れた惨状を見て虚しさを感じました。後片づけをしていると母が手伝ってくれて、何か申し訳なくなって「もうやらないから」と母に言いましたが、母は「またしたらええやない」と言うのです。母がどう思ってそう言ったかはわかりませんが、それから徹夜で友人泊まり込みでのトランプをする事はなくなりました。

(続く)