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#18 「高校2年時代(宇和島南高校)5」

2021.11.5 更新

児島有一郎

部活動でなく同好会活動だったので、全国大会出場に学校長の許可がいると言われ大丈夫かなと思いました。この時の校長先生は宝来久道校長と言い、縁起の良い珍しい苗字の先生でした。当時は、宝来校長の奥様と私が中学時代にお世話になっていた純子伯母さんと、着付け教室の友人だったという事もあり、伯母に校長の奥様に連絡して頂いた事を覚えています。宝来先生とはその後も色々と御縁がありました。2006年から続いている松山市文化・スポーツ財団と日本将棋連盟松山坊っちゃん支部共催の将棋大会の担当課長に宝来さんという方がおられました。偶然、その宝来課長と私の行きつけの居酒屋呑舟で一緒になり、私の高校時代の校長先生が宝来先生と言う名前だったと話すと、その息子さんだという事がわかりました。その後もこれも偶々なのですが、宝来校長の奥様が80才を過ぎてから、将棋教室の体験に来て頂き、今は宝来校長の曽孫さんが教室に通ってくれています。珍しい苗字なので気が付くと言う事はありますが、これもコミュニケーションを取るからわかる事なのです。

伯母から宝来校長の奥様に連絡を入れてもらってから、数日後に、学校から電話がありました。全国大会に出場する事は、可能だが、旅費は学校からは出せないので自己負担である事、顧問の先生も自己負担になる為に、引率してはいけないので替わりの引率の先生が必要になる等の連絡がありました。母が旅費は何とかするので参加させてやりたいと言う事を電話で話してくれた事は今でも鮮明に覚えています。引率に付いては学校から提案があり、団体戦で全国大会に出場する八幡浜高校の先生にお願いしてみてはどうか提案してくれて、八幡浜高校に連絡をとってくれました。今ではありえないような応対だと思います。他校の先生に生徒の引率を頼むなど事故の事や、他の責任問題等もあり連れて行ってもらえるはずがない提案です。八幡浜高校の阿部朗道先生から1度会いたいからと言われ、日曜の午後に八幡浜高校に行きました。面識のない先生でしたが優しそうな感じの良い先生でした。会うといきなり毛利英樹さんを知っているかと聞かれました。毛利さんは南予の強豪でしたので宇和島・八幡浜の月例会で何度か対戦した事がありました。毛利さんは、確かに当時の私よりは強かったのですが、棋風が柔らかいバランスの取れた棋風で私には相性が良さそうな将棋でした勝った事もあり、敵わないほど強いと言う印象はありませんでしたが、南予では宇和島の村上昭三さんか、大洲の毛利英樹さんかと言われるほどでした。私は高校3年間で村上さんには大会で1度も勝てなかったので、毛利さんには失礼ですが毛利さんが南予最強と言われる程強いとは思っていませんでした。しかし、強豪の中では評価は高かったです。月例会での優勝は多かったですが、県大会でのタイトル獲得はなかったと思います。南予では無冠の帝王と呼ばれていました。八幡浜高校に着いて、和室の部屋に行くと毛利さんが居ました。私は少し驚きましたが八幡浜高校の学校事務をされていると言われ、阿部先生が見ている中で3局将棋を指し1勝2敗でした。終わると夕方でしたが特に全国大会の引率の話をされる事もなく、連れて行ってもらえる事になっていました。

昭和59年8月16日~18日東京都中央区にあるホテル浦島で開催された全国大会には、JR(当時は国鉄)八幡浜駅で合流して松山観光港から大阪まで関西汽船で行きました。そこから新幹線で東京へ向かいました。船の中で八幡浜高校の同学年になる牟田口正虎さんと2局将棋指しました。牟田口さんの事は八幡浜の月例会で見かけた事はありましたが、クラスが違ったので対局した事はありませんでした。1局目は私の悪癖なのですが、相手を侮り日頃は指さない相横歩取り(私が後手)を指して、生涯忘れる事のない棋譜で17手での私の投了となりました。2局目は何とか勝つ事が出来ましたが牟田口さんも強いなと思いました。牟田口さんは私が将棋教室を始めてから、子どもさん2人が教室に入門してくれて長男の群英君は奨励会を受験、長女の環美さんも県代表・県女流棋王等活躍され長くお付き合いが続きます。ホテルは2人部屋で八幡浜高校の内宮さんと同部屋になりました。ここで私はミスをします。組み合わせ抽選をする時に、部屋に電話連絡するので、それまで待機してくださいと言われていたにも関わらず、隣の牟田口さんの部屋に行っており、抽選に行けませんでした。夕食に行くと抽選に来なかったので残りクジになりましたと言われ仕方ないなと思いましたが、こういう行動自体が、地に足が着いてない感じです。気持ちが浮かれています。

大会の当日の朝、私は変な事を考えました。人には運命があるはずだが、それはどう決まるのだろうかと、言う事を考えてしまいました。日頃はしない行動なのに、朝風呂に入ろうか止めようかで迷いました。それはその行動によってその日の運命が変わるかもしれないと言うような事を考えてしまったのです。その時はそれくらい自分の将棋に自信がなかったのだと思います。しかし、そんな決論の出ない事は考えても仕方がない事です。私がその時にベットの上で考えた事は、悩んでも決論の出ない事は悩まない。迷ったときは良い事をするという事でした。例えばくだらない事ですが、歯を磨くか磨かないかでその日の運命が変わるとすれば(そんな事はないと思いますが)磨いた方が身体に良いのだから磨くと言う風に決めるという事でした。迷った時は良い事をする。この時の考えで今まで生きてきましたが、高校生がこんな事を考えるなんて、今考えても変だと思います。当時の私は運命について考える事が良くありました、新聞を読んでいると毎日のように事故で沢山の人が全国では亡くなっています。私も家から宇和島の学校まで自転車で通い国道をかなりの速度で走っていましたが、私の横を大型トラックやダンプカーが追い越して行きます。少しでも自分や車を運転している方が不注意をすれば、死んでしまうと思った事は何度もあります。人の人生なんて何時どうなるかわからないから、生きている事が奇跡的な事ではないかという事でした。当時は母親に中学時代は、自分はやりたいようにさせてもらって生きて来たのだから、何時どんな事があっても自分の人生に悔いはないと言うような事を話していました。母は「親より先に亡くなる事ほどの親不孝はない」と言われていましたが、今思うとその通りだと思っています。後悔のない人生を送る為に1日1日を懸命に生きなければならないと思いますが、親より1日でも長生きする事は、親に対しての親孝行だと思っています。

そんな事を考えるようになった一つの理由に、高校2年の時に友人のT君が亡くなった事があったと思います。T君の家は通りが2本違う近所で小学4年~6年まで同じクラスでした。目立たない大人しい人でした。小学4年の運動会の練習中に2人でふざけていて、私がT君に押されて、転倒し左肩を脱臼してその骨が骨折という全治2ヶ月の大怪我をしました。T君がお母さんと家に誤りに来た時に、T君のお母さんの実家と、母の実家の中村家が縁戚になる事がわかりました。そんな事もあり、T君とは仲良くなりました。T君は大人しい性格で、無駄な発言は一切しないクラスでは目立たない存在でしたが、当時のクラスで私だけが知っている事がありました。T君は凄く勉強が出来たのです。しかし、自分のテストの点を人に言う事もなく、私もT君に負けた事を悔しくて言わなかったので、誰もT君が勉強を出来る事は知りませんでした。私が80点台を取っても、90点以上なのです。私が90点台を取って今回は勝ったと思うと100点を取る位でした。T君の勉強が出来る事がクラスの人にわかるのは6年の2学期の模試からです。平均点が40点台のテストで80点以上取ってクラスでダントツの1位だった事を先生が発表してからでした。2学期は私が学級委員長でしたが、3学期はT君が学級委員長になりました。先日の呑み会での話でも、島津君が中学の時にT君と同じクラスになった時に、1教科もテストで勝つ事が出来なかったと言っていました。T君は宇和島東高校でしたが、葬儀の時に島津君と一緒に行った事を覚えています。もう一つこれは母から聞いていたのですが、ST君は一人っ子でお父さんは亡くなっていました。銀行員だったお父さんが仕事中にバイクで得意先回りをしていた時、トラックの横をすり抜けようとして、その積み荷が崩れて亡くなったと言う話を聞かされていました。T君が亡くなった時に残されたT君のお母さんはどんな気持ちだったのだろうかと考えてしまいました。T君が亡くなった理由も良くわかりませんが、宇和島東高の同級生に聞くと学校の成績の順位が50番位でそれを悩んでいたようにも思うと言われましたが本当の所は分かりません。

話がだいぶ、逸れましたが全国大会は、残りクジに福が無く、初戦でその大会で優勝する、広島代表の深海智純さんに完敗して高校2年の全国大会は終わりました。

(続く)