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#20 「高校3年時代(宇和島南高校)7」

2022.1.22 更新

児島有一郎

高校3年になり将棋同好会は、私が2年時の高校選手権愛媛県個人戦優勝の実績で部に昇格しました。大会に向けても長岡洋光君(剣道部)と西村昭生君(テニス部)が、高校総体が終われば入部して高校選手権の団体戦に出てくれる事になっていたので、心配はしていませんでしたが、私は個人戦に出場したい気持ちもありました。それまでの高校愛媛県大会で2連覇をした人は藤田博将さん(全国高校選手権優勝者)と鶴田勇人さん(元奨励会1級)しかいなかったのでそこを目指したい気持ちがありました。しかし、自分で作った将棋部が団体戦で全国に行かなければ学校としての知名度が上がらないので、団体戦に出るべきだろうとも考え悩んでいました。そうした頃、昨年の大会前に退部した大塚研吾君が将棋部に復帰して大会に出ても良いと言ってきました。私は大塚君、長岡君、西村君の3人で団体戦に出てもらって私が個人戦に出場する選択肢もあると考えました。3人の中では西村君が一番強く二段位で2人は初段位だったのですが、優勝する力は十分あると思いましたが、やはり3人とも大会にあまり出場していないので実戦不足で、ここ一番での勝負勘がない気がして私が出るべきだと考えました。昨年も団体戦を目指して出場したのに、人数不足で不戦敗扱いとなり結果が個人戦で優勝出来ただけなので、やはり1年の時の目標だった団体戦優勝を目指す事に決めました。長岡君、西村君も1年時から部活の合間をぬって将棋部に来てくれていたので、やはり3人で出場するべきだと考えました。この時期は、県大会優勝を目指してその事だけに集中していました。学校の事、進路の事はあまり考えないようにしていました。家庭の状況を考えると大学進学する事は難しいので勉強にも力が入りませんでしたし、進路について相談できる人がいなかったという事もありました。宇和島南高校は一応進学校で、基本は大学進学か専門学校に進む人が多く就職は、公務員試験を目指している人がいるくらいでした。学校からの就職斡旋はありませんでした。私も全く考えていなかった訳ではありませんでしたが、友人の話を聞いて漠然と警察官か無理なら自衛隊に行けば良いかくらいに思っていましたが、詳しく調べていた訳ではありませんでした。この時期に色々と調べておけばもう少し違う進路の選択があったと思います。

高校選手権の少し前の昭和60年4月21日(日)に愛媛新聞社で第10回アマ棋王戦が開催されました。この大会では2年続けて棋王の部に出場して予選落ちでした。他の大会でも一番上のクラスに出場していましたが、予選抜ければ上出来と言う成績で、当時の私の実力はその程度だったのだと思います。市川君は五段戦で優勝して県内の大会を制していたので、私も気持ちは負けまいと一番上のクラスに出場していました。そんな時に市川君から、一番上のクラスに参加しているが二番目のクラスでも優勝していないし、出場しても出来ないのではないかと言われました。それでその時の棋王戦には1つ下のA級に出場する事にしました。当時のA級は初段~三段、棋王は三段以上の規定でしたが、今の道場四段位の実力の方がA級に出場に出場していた方が何人かいたので、1つ下のクラスでも優勝する事が容易な事ではありませんでした。市川君に言われ私も引くに引けなくなり出場しましたが、当日は出場した事を後悔していました。予選は抜けましたが決勝トーナメントの1回戦で必敗になりA級に出るのではなかったと思いましたがなぜか逆転勝ちする事が出来ました。その後は何とか勝ち進み決勝では2年連続決勝進出者の方と当たり、酷い序盤の将棋で必敗になりましたが相手のミスもあり逆転勝ちする事が出来て優勝する事が出来ました。A級で優勝出来るという事は、1つ上のクラスでも予選を抜ける力はあるという事なので自信にもなりました。しかし、当時の棋譜が残っているのですが大会で優勝するという事はやはり運も相当必要だと思います。一番嬉しかった事は、市川君に一番上のクラスに出る事を認めようと言われた事です。そんな事もあり高校大会に臨むことになりました。

昭和60年6月23日(日)に第21回全国高校選手権愛媛県大会が済美高校で開催されました。団体戦は16校29チーム、個人戦に37人が参加しました。昨年同様に団体戦で3回戦までに敗れると成績により個人戦に回れる制度です。宇和島南高校も団体に3チーム個人戦に5人が参加しました。1つ納得が行かなかった事は、昨年の大会の不戦敗の原因となった寺崎君が大会に出場していた事です。昨年は説得を続けても宇和島市を出て迄将棋は指さないと言っていたのに今回は大会に出場していました。それは良い事なのですが、今回出場の理由は部活になったので松山への交通費が部費から出た事が理由だったようです。そんな事なら1年前にも相談して欲しかったと思いました。何はともあれ2年前に同じクラスの3人で出場した事を考えると部活動の形を成したと思えます。参加名簿を見ての有力校は、昨年優勝の八幡浜高校ですが、昨年の優勝メンバーの1人の名前がありません。南宇和高校は練習試合もしており3人が初段位と穴のないチームです。有段者のいる高校は野村高校、松山工業、愛光学園、新居浜工専に私の知っている名前があります。初戦は今治西Cに3-0勝ちしました。2回戦は新居浜工専です。ここは私が雄新中学時の同級生で有段者がいてもう一人も上級者で強敵でした。西村君が負けましたが2勝1敗で何とか勝ちました。3回戦はノーマークの松山北でしたが、有段者(ポイントゲッター)がいる野村高校と松山工業Bを倒して来ているので強いチームだと思いました。この時の松山北のメンバー堀川君が翌年愛媛大学の将棋部に入部していて、当時の話を聞くと堀川君が3級位で後の2人は初・二段はあったそうです。私が堀川君に勝ち長岡君が敗れました。1勝1敗になり西村君の勝敗にチームの勝利も掛かりましたが、私が見た時、西村君は必敗でした。私は個人成績がここまでは3連勝だったのでチームが敗戦しても個人戦のベスト8に回れるので気持ちは個人戦に切り替わる程でしたが、西村君がタダの所に金を打ち相手がその金を龍で取ったので、王手龍取が決まり逆転勝ちになりました。私が終局後あんな金打ちはないだろうと言うと西村君は逆転するにはあれしかなかった取ると思ったと平然と言うのです。取り敢えずピンチを凌ぎ準決勝で八幡浜工業と当たりましたが3勝で勝利。決勝は1回戦で大洲高校に3勝、2回戦で宇和島南Bに3勝、3回戦で昨年優勝の八幡浜高校を2勝1敗で破り準決勝では、私が中学時代に松山将棋教室で対局していた大塚正輝君のいる愛光学園を2勝1敗で破り決勝に進んできた南宇和高校でした。南宇和高校は強敵でした。大会の少し前に南宇和高校から対抗戦の申し入れがあり、私は雑な将棋を指してしまい私自身が1勝2敗と負け越していたので、相手も自信を持っているだろうし3人の実力がある事わかっていたので、チームとしても危ない事は分かっていました。私が必ず勝って後の2人で1勝と考えました。結果は3人とも勝ち3勝で優勝する事が出来ました。大会に出場してくれたのは1回だけですが、1年の時から練習に付き合ってくれていた2人には感謝しかありません。昨年の個人代表では、八幡浜高校に引率してもらいましたが、今回は友達と行ける嬉しさもありました。

全国大会は8月8~10日に神戸市の国民宿舎須磨荘で開催されました。この大会は向かう時からに勝ちに行こうとする感じではありませんでした。3人で旅行に行くような感じでした。将棋部顧問の射場慶二先生が引率して行ってくれたのですが、私の中に先生の記憶が一切なく3人で神戸に行った様な記憶になっています。改めて全国大会の要項を見ると引率者で射場先生の名前があるので一緒に行っている事は間違いないはずなのですが、3人での馬鹿な思いでしかありません。宇和島から松山に電車で向かいそこから関西汽船で大阪南港へ行ったのですが、乗車して直ぐに長岡君がカルピス持ってきたから、船に乗ったらみんなで飲もうと言うのです。私はカルピス位でそんなに楽しみにする事かなと思いましたが、乗車して10分程すると席の上の荷棚からネチネチの白い液体が落ちてきました。長岡君の鞄を調べるとカルピスの原液を瓶ごと鞄に入れて来ており、なぜか瓶が割れて原液がこぼれていました。鞄の中の着替えの服は全部カルピスまみれで、帰るまで着替えも出来ない状態でした。私は船の中でカップラーメンを食べようと思い3個用意してましたが、何故か船にお湯が無くて、宿舎に着いてから夜食に食べようとしたのですが、そこにもお湯がないので、何とか食べられないかと考えて思いついた事が、風呂場に行けばお湯が出る事に気づきカップラーメンを持って風呂場の蛇口のお湯をカップラーメンに入れて食べました。お湯が沸騰していないので、ラーメンがぬるくて不味かった事を覚えています。西村君は愛媛から出る事が初めてだったようで大阪に着き弁天町で電車に乗る時に自動改札が初めてだったようで、改札に入って少ししてから私が切符を持っている事に驚き何で切符を持っているのかと聞いて来ます。西村君は自動改札から出てきた切符を取っていなかったのです。その後目的の駅に着き改札を出ると西村君が居ません。私が後方を探すと駅員さんと話している西村君を見つけました。「どうしたの」と聞くと「いや」と言うのですが私はピンと来て切符が出てこないと言っていたのだろうと言うと「何で分かった」と言われました。楽しい珍道中で将棋大会に勝ちに行くと言うには程遠い雰囲気でした。

(続く)