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#21 「高校3年時代(宇和島南高校)8」

2022.3.8 更新

児島有一郎

全国大会の会場は、須磨国民宿舎で、前年東京大会はホテル浦島という修学旅行などを扱う大きなホテルで宿泊は2人部屋でしたが、今回は大部屋に50人程が雑魚寝するという環境で、前年の事を考えると私は違いに驚きました。この大会の団体戦は神奈川県代表の戸塚高校が優勝したのですが、前日の夕食時に戸塚高校のメンバーの1人が、私たちの対面に座っていて全く面識がない私たちのメンバー西村君の食事の中に、「これ食べられないから」と言って自分の嫌いなものをどんどん放り込んできた事です。私は「ムッ」としましたが、西村君は文句を言いながらも食べていました。西村君は我慢強い性格でした。翌日の大会は、1回戦シードで2回戦からでしたが岡山県代表の倉敷南高校と対戦しまし初戦敗退となりました。

高校3年時の夏休みの記憶はこれ以外に残っていません。大会が終わってからは、目標がなく何となく勉強していました。焦りが出始めたのは、2学期が始まり警察官を目指していた友人と、宇和島警察署に願書を取りに行った時です。警察官の志望動機も、身体が鍛えられそうだという事くらいで、特になりたいと言う訳ではありませんでしたが、就職しないといけないと思っていた事が理由でした。しかし、警察官の身体要件の欄に色覚異常は受験不可とあり、自分は受験する事が出来ないとわかりました。私は色弱だったのです。小学1年の時に初めて身体検査で色覚検査があり、自分が見えているように答えても間違いだと言われ不思議に思いました。毎年の検査で同じ事を言われるのですが、自分では見えた通り言っているだけで何がおかしいのか、検査の意味すら分かっていませんでした。4年生くらいの時に、友達に検査の時の見え方が他の人には違うように見えている事を知りました。中学1年の時に眼科に行き、将来職業を制限される事もあると言われたのは覚えているのですが、それほど重大な事だと言う認識は自分にはありませんでした。この時は本当に卒業したらどうしようかと考えました。学校で友達とそんな話をしていると、公務員試験を受ける人が愛媛大学の2部(定時制)に行ったらと教えてくれました同級生の2人が学校推薦で愛媛大学の2部を受ける事を知り進路指導の先生に聞いてみたらと言ってくれたので、定時制なら学費も安いと言われ、親に負担をかける事なくアルバイトしながらでも行けるかなと考えました。先生に相談に行くと推薦の内申点は越えているので推薦してもらえる事になりました。試験も小論文と面接だけでしたが、どういう勉強をすれば良いかがわかりませんでした。学部選びも経済・法学・文学とあり何所を受けたらいいかもわかりませんでした。同級生2人は経済学部を受けるというので、違う学部にしようと思い特に興味もなかったのですが、定員が一番少なかった文学部にしました。本当にこの頃は迷走状態で、行き当たりばったりで将来像など全く考えていませんでした。この時に、気が付いた事は小論文が中々大変である事と愛媛大学の2部を目指すのであれば、当時の共通一次試験を受ける方が入りやすかったのではないかという事でした。共通一次は1000点満点でしたが、愛大の2部は550点位で通ると言われました。その事に気が付いたのが11月位なので、そこから勉強する気にもなりませんでしたが、それからでも共通一次恵で受験していれば良かったと思います。本当にもっと前に色々な選択肢を調べていれば良かったと思いました。

高校3年時の思い出を少し書きます。週一回のクラブ活動では囲碁クラブに入っていました。囲碁の強い先生が居たので囲碁クラブはありましたが、将棋クラブはありませんでした。しかし、私は1年間のクラブの時間に囲碁を打った事は殆どありませんでした。何をしていたかというと囲碁クラブの先生(囲碁は三段、将棋は初段位)が将棋も好きだった為、クラブ活動の時間は、その先生の部屋(社会科の先生の部屋)で1年間将棋を指していました。今では考えられない事だと思います。将棋部の顧問の射場慶二先生も社会科の先生だったのでその教室にいましたが、囲碁クラブの先生の方が将棋は強かったようです。社会の話では3年時は将棋部の顧問の射場先生が社会科の担当でした。3年の時は日本史がありましたが私は日本史が一番得意でした。特に年号を覚える事が趣味の様になっていました。日本史の期末テストで高校時代のテストで最初で最後の100点を取ったのですが、私たちのクラスだけが他のクラスより平均点が10点以上低く(理由は他の先生がテスト問題を作り、試験の範囲を狭めて知らせていたらしいとの事)私たちのクラスの日本史の点は各自8点足される事になりました。私はそれだと108点になるはずなのですが、通知表の点数は(中間テストと期末テストを足して2で割る)108点では計算されていませんでしたが、私の中では100点満点で108点取ったと思っています。卒業時には将棋部で2回全国大会に行ったので、学校から優秀賞みたいなのを貰いましたが母親には学業優秀で貰ったと言いました。

高校1年から始めていた牛乳配達は3年時の11月末までやりました。冬休みの年賀状配達は3年間やり続けました。この頃は3年の時に数回ですが、同級生の土木会社に、平日の学校を休んでアルバイトに行きました。民家を解体する現場でした。1日で4000円もらったと思います、3日働くと牛乳配達の1ヶ月分になるので割の良い感覚でした。学校を休んでアルバイトに行く事に母は特に何も言いませんでした。その辺りは信用してくれていたのだと思いました。

2月の初めだったと思いますが、愛大の推薦試験がありました。小論文が全く書けませんでした。その他の学部のテーマも出ていたのですが、文学部のテーマについて殆んど書く事が出来ませんでした。経済学部は電柱と経済の結び付についての話だったので何か書けそうな気もしましたが、後悔しても仕方ない事でした。結果は当然不合格でした。後の2人は合格しており、私は試験後、合格発表まで松山の親戚の家に居たので私が結果を見に行って、同級生2人に連絡しました。2人とも合格していて自分自身が虚しく寂しい気持ちになった記憶があります。吉田町に帰りいよいよ進路に困りました。高校を卒業してどこか就職先を紹介してもらう当てもなく、自宅浪人して愛大の定時制を目指そうかとは考えましたが、自宅で1年間も勉強できるのかなとも思いました。そんな時に松山商科大学(現松山大学)にも定時制がある事を知り、試験も3月の初旬だという事を知りました。そんな頃に市川君から久しぶりに連絡があり、卒業したらどうするのかと言われたので松山商大の定時制を受けようと思うと話すと、市川君も一緒に受験す事になりました。

試験も終わり合格発表がありアパート探しとアルバイト探しに3月の末に松山に行きました。この時に一緒に探してくれたのが、雄新中学3年6組年の同級生で、今も仲の良い藤田賢治君でした。アパートは伯母の紹介の不動産屋さんで決めました。持田町のアパートで高級住宅街のイメージですが、松本零士の「男おいどん」に出て来るようなアパートでした。トイレと台所が共同で風呂無し6畳1間で月8000円でした。4畳半だと6000円でしたが、2000円だけ贅沢しました。石手に近い持田町だったので大学からは少し遠いのですが、学生街のアパートだと夜がうるさい事があるので、昼働いているとうるさくて寝られないといけないので、学生街から離れている方が良いと不動産屋さんに言われました。

アルバイトは藤田君が、当時松山で増えているというコンビニエンスストアの先駆けだったCVS・NO1(当時松山市内に12店舗あった)がいいのではないかと言ってくれ面接に行きバイトも決まりました。時給は当時の愛媛県の最低賃金で420円でした。

話は戻りますが、2月以降に進路の決まっている人は自動車免許を取りに行く人が多くいました。私も免許がある方が良い事は分かりましたが、教習所の費用が20万程掛かったので、取る事が出来ずそんな話を仲の良かった井上君と話しました。私が貯金は6万程しかないと話すと井上君が3万貸すから、一緒に自動二輪の免許を取りに行こうと言ってくれたので、何か免許があった方が良いかと思い3万借りてバイクの免許を取りに行く事にしました。今考えると本当に無駄な事でした。自動二輪の免許を取るなら、原付の免許で十分だったからです。バイクの免許を取った事で、松山に行ってから無駄な苦労する事になってしまします。

松山商科大学の学費は当時年間52万円でした。定時制なので半額の26万円で前期の学費13万と入学金を母親に出してもらい4月の生活費10万円を貰って松山に行く事になりました。5月以降はアルバイト代で生活するつもりでした。1ヶ月のバイト代が8万~8万5千円程で、学費で毎月2万円貯金しなければいけません、家賃と光熱費を引いて4万程残る計算なので、生活出来ると思っていました。母親の給料もそれより少し多いくらいで4人が生活してきたので1人なら生活出来るはずと思っていました。4月の初めに引っ越しをしましたが、引っ越しと言っても大した荷物もなかったので母親の勤めていた会社に出入りする長距離トラックの荷台に荷物も積んでもらい松山に向かいました。私は中学の時にも1度実家を離れているのでその時の事を思い出すと、その時ほどの悲しい気持ちにはなりませんでしたが、後になって思うと母親の心中はどうだったのかと考えてしまいました。未来に向って行く者は過去の事を振り返らないのですが、送り出す方は過去のいろいろな出来事を振り返ってしまうものです。今の年齢になるとそれが良くわかります。母親はどんな気持ちで送り出してくれたのかはわかりませんが、まだ弟が2人いたので私が今思う程の寂しさはなかったのかも知れません。

(続く)