コラム
#23 「松山商科大学(定時制)時代 2」
2022.5.12 更新
児島有一郎
春の中四国大会が終わり、ゴールデンウィーク明けに悩んだのは大学の事でした。4月に授業の半分位休んでしまったので、そこから1年間休まず授業に出席する自信がありませんでした。授業料の事も気になりました。当時の松山商科大学の授業料は年間52万円で定時制は半額の26万でした。前期分13万は母が払ってくれていましたが、後期分の13万からは自分で出すと言う事で進学していたので、単位が取れるかどうかもわからない状況で学費を払って、授業に出席していくのはもったいな気がして、5月中にその年度の休学を決めました。休学すると後期分の学費は払わなくても良いのでその間に貯金してその分の学費を、来年度分に回すほうが良いと考えました。そういう状況の中で5月からの生活が始まりましたが、自活していくという事は私が思っている以上に厳しいものでした。コンビニバイトの昼勤は、当時の愛媛県最低賃金で時給420円でした。休みは週休1日で日曜日にしてもらっていて9万前後のバイト代でした。それに月2万の母子家庭奨学金を2年間借りていたので、11万あれば楽に生活出来ると当初は考えていました。その理由は高校時代までは母の給料9万程で家族4人が生活していたのですから、1人だったら生活は出来るという事だけが根拠でした。母子家庭奨学金は、そのまま学費の貯金と考えていました。家賃は8千円(水道代込)と電気代は2千円にもいかなかったと思います。家では自炊していたのですが、共同台所でコンロが無かったので部屋の中でカセットコンロを使っていたので、そのガス代が掛かっていました。後はお風呂が無かったので銭湯代が月8千円位で家賃等含めて、当初の月の固定費は2万円位でした。これに食費が掛かっていましたが、学校を休学したので授業の時間は、将棋部に行く事が出来るようになりました。将棋部に行くと21時過ぎまで将棋を指してそれから部員5~6名で夕食に行きます。当時の商大将棋部の伝統は1回生の食事代は2回生が払うという事になっていました。これは中四国大会の遠征等も同じルールでした。私はいつも払ってくれる西原さんや浜本さんに悪いと思っていましたが、先輩達は1回生の時は払ってもらっているのだから気にするなと言ってくれました
5月か6月頃だったと思います。私が新立町のコンビニに勤務していた時の話です。ここはコンビニと言うより店舗が大きくスーパーと言う感じでした。常時3人体制で勤務していました。新人は新立店で研修も兼ねる様な感じでした。そこに来るお客さんで小学3年まで住んでいた。高浜時代の近所に住んでいた父の従弟が来店されました。その頃は新立町の近所に住んでいるようでそれからよく来られました。その方の息子は私と同じ年で高浜保育園、高浜小学1,2年と同じクラスだったのでお父さんとも顔馴染みでした。その方は私を見つけ声を掛けてくれました。その数日後です。そのお店に父が訪ねて来ました。父とは中学2年の2月に父親の家で起こった。部屋に乱入事件以来でした。私には嫌な思い出でしたが、久しぶりに父と会うと何となく話をしました。それから父は買い物を兼ねて時々訪ねて来るようになりました。仕事中なので大した話は出来ませんが、ある時私が中型バイクを買う話をしました。私は中型免許を取ったので250CCの中古バイクを買おうと考えていました。予算は全て込み20万位で買えないかと考えていました。その話を父にすると知り合いにバイク屋さんがいるから聞いとくと言ってくれました。その次に来た時にそのバイク屋さんが、中古を買うくらいなら新車を買った方が言っていると言うのです。私がそんなお金は無いと言うと父が少しずつ援助するから新車を買えと言うのです。当然、現金では買えないのでローンを組むのですが、父が保証人になり毎月少しは援助するからと言うのです。私は父の話に乗りそのバイク屋さんでバイクを買う事にしました。本当は中古のホンダCBX250が欲しかったのですが、そのバイク店はスズキの代理店なのでスズキのバイクしかありませんでした。私は値段も高いものは買えないと思っていたので一番安かったGSX250(通称カタナ)を買う事にしました。バイク本体の値段が36万でした。登録費とローンの金利、ヘルメット(3万位しました)等を含めると50万以上になったと思います。私には高すぎる買い物でした。しかもそれ程バイクが好きと言う訳でもなく免許があるから乗ってみたいと言うくらいの気持ちでした。後で考えれば原付で充分でした。バイクが納車された直後です。父の紹介という事もあったのでしょうが、ローンの審査よりバイクが先に納車されていたのも拙かったのです。父が訪ねて来て自分はローンの保証人に通らなかったと言うのです。この当時の父は多分相当に金銭的に困っていた状態だったと思います。私が中学時代に一緒に住んだ久万ノ台の家も手放さなければいけない状態でしたし、どのくらい借金払いしているのかは、想像もつかない状態でした。しかし、私も困りました。父は弟の健次郎叔父さんにも頼んでくれたらしいのですが、兄弟でも信用がなかった為に断られた様でした。仕方なく私は基三郎伯父さんに相談に行きました。当然ですが相当に怒られました。私達家族を、捨て養育費も払わず、自身は新築の家で新しい家庭で生活している父親、まして私自身にも嫌な目に合わせた父親を、なぜ信用したのか等言われました。ましてローンが大嫌いだった伯父は如何に高い金利を払わされているのか等と散々説教をされました。しかし、最後はバイク代36万を貸してくれる事になり毎月2万ずつを伯父に返済していく事になりました。返済の期日は必ず守る事、1日でも遅れる事なく支払う事でバイク代を貸してくれました。本当に基三郎伯父さんにはお世話になりっ放しでした。私に取っては実の父親以上に父親の様な存在でした。そういう事情で最初の生活費の固定費にバイク代の月2万円が上乗せされる事になりました。奨学金でバイクを買ったようなものでした。それに本当に何の知識もなかったので仕方ない事ですが、バイクの保険料も月1万以上でしたしガソリン代も掛かります。毎月バイク代を援助すると言っていた父は、それから顔も見せる事はなくなり1年後にアパートを尋ねて来て1万円置いて行ってくれた事だけは覚えています。
コンビニのバイトは、新立店の後は高砂店、道後店と1ヶ月毎に移動していきました。2店とも小さい店舗だったのでので、1人勤務でした。9時に入ると商品が入荷すると陳列や、売れると補充などが仕事で後は接客ですが、暇なお店だと本当に時間が経ちませんでした。1時間でお客様が来ない事もありました。7月になると2,3日毎に違う店に入ってくれないかと言われました。当初は自転車で移動していたので、アパートの近所の店舗を希望していたのですが、この頃はバイクで行っていたので、遠くても行けると思われた様です。私が覚えている限りで新立店、道後店、高砂店、二番町店、北土居店、空港通店、大手町店、本町店を日々回るような生活でした。道後店は家から近かった事と夜勤の林さんと言う方と親しくなりました。林さんは当時30代半ば位で、趣味で野球をしていたようで夜コンビニの隣の駐車場で素振りをしていました。後、バットがあれば強盗対策にもなると話をしていました。1度、中央通りの今もある金龍園という焼肉屋さんに連れて行ってもらいご馳走して頂きました。業者の方ではらくれん牛乳の配送をされていた木村俊一郎さんと言う方と将棋の話になり家に遊びに行った事もあります。木村さんは私より1回り年上の当時31才でした。高校将棋選手権で県大会3位に入ったと言われていました。その時に木村さんに勝った藤田博将さんは、その大会で全国優勝し後に県名人、県竜王を獲得した強豪です。木村さんも将棋が強くはブランクがあったはずなのに、私は1勝2敗で負け越した記憶が残っています。知らない人でも強い人はいるのだなと思いました。木村さんと話をしていると、木村さんと私は境遇が似ていると言われました、木村さんも母子家庭で、将棋をしている名前も一郎繋がりだと言われました。
この頃バイトをしていて思っていた事は、普通に大学に行って同級生が羨ましかった事です。これは入学して2年位は自分の気持ちの中に持ち続けていた事なのですが、同級生達は親の仕送りで大学に行けてなぜ自分は働かなくてはいけないのかという事でした。バイト先で知り合った、定時制に通っている人達も話していると、3~5万位は送ってもらっている人が多く、全額自分のバイト代で全て賄っている人には会いませんでした。私も2,3万でも送ってもらえれば楽なのにと思う事がありましたが、私と同じ位の収入しかなかった母にそんな事はとても言えませんでした。自分自身にこの経験が将来必ず役に立つと言い聞かせて、日々、頑張るしかありませんでした。
この原稿を書いている頃です。ネットニュースで困窮家庭の7割が大学受験は1校しか受験していないと言うニュースを見ましたが、私も大学時代同じ事を考えていました。友達は何校も受験したり同じ大学の違う学部を複数受験したりしていましたが、私は受験料をみて複数の受験は無理だと考えました。松山商科大学の受験料は確か1学部2万でした。複数受ける事は家の経済状況を考えると無理だと思っていました。当時の日本はバブル経済期の真っ盛りだったのでそんな家庭は少なかったのでしょうが、そのニュースを見て私が考えていた事と同じだと思いました。
8月頃でしょうか。友人から大学近くの学生相談所でアルバイトを紹介してもらえると言う話を聞きました。1日最低5000円がバイト代と言う話を聞き、20日働けば10万になると思いました。私は25日働いて9万前後なので、そういう働き方もあるのかと思いました。そう思っていた時でしたコンビニのバイトで事件に巻き込まれてしまいました。
(続く)