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#22 「松山商科大学(定時制)時代 1」

2022.4.14 更新

児島有一郎

松山商科大学(当時の略称は商大)の入学式の翌日に身体測定がありました。そこで私はM氏と再会しました。M氏は私の中学時代に通っていた松山将棋教室の先輩に当たりました。歳が私よりか上(実際は5才上ですが私が14才の時の19才だから相当年上の感じでした)だったのであまり接点はありませんでしたが、私がお腹空いたと言うと将棋教室の隣のホテルクラークでカレーをご馳走してくれた事がありました。私には気前の良い先輩と言う印象でした。M氏は身体測定が終わると、私を将棋部に連れて行ってくれました。数日後には市川君も行き2人で入部するのですが、大学の将棋部は私が今まで体験した事のない所でした。それは上下関係が厳しいという事でした。高校の運動部を体験していれば分かったのでしょうが、中学時代は上下関係のない将棋教室。高校時代は自分で作った将棋部だったので私は上下関係と言う事を体験した事がありませでした。まず先輩に買い物(ジュース・タバコ等)に行かされました。代金は先輩が出してくれるのですが嫌とは言えません。その他雑用は当然1年生の仕事です。その時の1年は私と市川君を入れて4人でしたが、後の2人は仕方なく将棋部に入ったメンバーでした。当時の大学は入学式の時に武道系の運動部に連れていかれて入部を強制される事がありました。2人とも武道系に入部させられたのを、将棋部の先輩が人間関係で話を付けて武道系の部活を退部させてその代わりに将棋部に入部させたと言う経緯でした。将棋がしたくて入っている訳ではありません。その時の部員構成は4年生14人、3年生7人、2年生2人でした。4年生は就活で殆ど部には来ませんでした。私が今でも名前を覚えているのはM氏以外では3人程です。入部して直ぐに道後公園で、花見及び新入生歓迎コンパがありました。当時は大学の花見で急性アルコール中毒で運ばれているニュースが良くありました。私達が道後公園に荷物を運んでいると倒れている大学生が数人いました。それを見て将棋部の部長だった3回生の木山さんがお前たちも数時間後には、同じようになっていると言うのです。花見には市川君以外は殆ど参加していました。最初から入部祝いで先輩から酒を注がれ2時間程経過して終わりかなと思っていると、用意した酒を全部、飲まないと終わらないと言うのです。そこから学年対抗一気呑み大会が始まりました。各学年が1人ずつ代表で出てジャンケンして負けた学年が一気呑みするのです。ビールはコップ1杯、日本酒はコップ半分です。4回生は14人、3回戦は7人いるから交代要員が多いので楽です。2回生は2人ですが共に酒豪でした。1回生は1人が全く酒を飲めずにコンパの出だしで1口が飲めなかった為に、桜の木の下で正座させられており、私達1回生も2人での戦いでした。私は何度も道後公園の池に鯉の餌やりに行きながら拷問のようなコンパを終えました。21時過ぎだったと思います。先輩たちが今から何すると話していましたが、私は少しでも酔いを醒ましたいので、道後温泉に行きたいと言うと、今温泉に入ると酔いが回るから止めとけと言われて家に帰りました。翌日は9時からコンビニのバイトでした。17時にバイトが終わりアパートに帰るとM氏が来ていました。前日飲み過ぎていたので心配で様子を見に来たと言ってくれました。優しい所もある先輩でした。

大学生活が始まると9時~17時までがバイトで、18時~21時までが授業でした。授業に間に合うかギリギリでした。部活には授業前は行く時間がありませんでした。平日の週1日バイトが休みの日に、部活に行くと部員の人達が授業の合間に部活に来ていました。大学の授業は私の時から、2度出欠を取るようになっていて15分~20分遅刻すると遅刻3回で1回欠席扱いになり、40分の遅刻で欠席になりました。授業数の3分の1以上休むと単位が取れません。4月の1ヶ月で将棋部の誘惑に負けて半分授業を休んでしまいました。18時からの授業がバイトの関係でギリギリになるので、遅刻になると出席する事が面倒になり授業を休んで将棋部に行く事が多くなりました。その時の商大の部室は門限が21時でした。守衛さんが見回りに来ていました。それから部員で食事に行き、その後は愛媛大学の将棋部部室に行っていました。当時の愛大の部室は24時間営業で誰でも出入り出来ていました。22時頃我々が行って将棋を指していると23時頃に愛大の将棋部員が、部室に来るパターンでした。愛大の部員は22時までパチンコを打ちその後食事してから部室に来る人が多くいました。それから麻雀が始まり手隙の人が将棋を指すと言う流れでした。私は麻雀をしませんが遅くまで将棋が出来るので当初は数日入り浸った事もありますが、翌日のバイトに堪えるので12時頃には帰るようになりました。もう一つ早く帰るようになった理由は、アパートに風呂がなかった為に、近所の銭湯か道後温泉の椿湯に行っていました。銭湯は22時、椿湯は22時30分迄に入らないと、翌朝、椿湯に行く事になるので、朝が忙しくなってしまう為に徐々に愛大将棋部に行く事が減って来ましたが、愛媛大と松商大の部員の垣根がない時代でした。愛大の部室は囲碁部とほぼ兼用されていましたが、囲碁部の人が商大生を愛大将棋部員と思っている人もかなりいたそうです。唯、私が行っていた夜には囲碁部の方はいなかったので、そこが囲碁と将棋の生活のリズムの違いだったのかも知れません。そう言う生活をしている内に5月の連休になり、大学の中四国大会が開催され広島に行く事になりました。先輩に私と市川君が1年生では初めての即レギュラーだと言われました。それまでは商大将棋部では1年生は、どれだけ強くても団体戦(7人制)のレギュラーにはしない事になっていると言われましたが、当時の商大の将棋部は、前年の秋の中四国大会で長年維持してきたA級からB級1組に降級しておりA級復帰には、私達1年生を使わなければ昇級は難しい状況でした。当時の中四国大会はA級五5校・B級1組6校・B級2組4校で上位1校下位1校が昇降級する制度でした。因みにC級もありここは、1軍で参加出来ないメンバーで5人チームのリーグ戦でした。私が初めて出た時は9チームが参加していました。今の中四国大会の様子を聞くと参加者も参加チームも多かったようです。商大のメンバーは4回生のM氏(後の愛媛県棋王・県知事杯優勝・支部対抗戦西地区3位等)、3回生は木山さん(今の将棋センターだと4段位)植條さん(2~3段位)高橋さん(2~3段位)、2回生浜本さん(初段位)西原さん(初段位)でした。M氏は松山将棋教室に通っている頃は二段だったので大学に入ってかなり強くなっている感じでしたが、私の中では昔の印象が強く、当時の実力が信じられない感じでしたが、中四国大会の団体戦広島工業大学戦で、在学中に全国アマ名人となった田尻隆司さんに勝ち強い所を見せつけられました。中四国大会では田尻さんが負ける事がありえないように言われている時代でした。当時の大学の中四国はレベルが高かったと思います。有名な人も多く田尻さんは引退前でしたが、広島修道大学には3回生で宮本浩二さん大学卒業後直ぐに全国アマ名人、2回生には白石雅彦さん全国アマ準王将、広島大学には広島県代表の柿本雅之さん、広島工業大学に後のアマ名人の開原孝治さん等その他にも強豪がひしめいていました。個人戦でベスト8まで行ければ、中四国の中では名前が覚えてもらえると先輩が言っていました。商大は全勝でB級1組を勝ちA級復帰を決めました。M氏と木山さんは全勝で私と市川君は1敗して4勝1敗でした。この時の事で覚えているのは、M氏がある大学との対局で愛大のK氏(次の秋の大会の中四国学生名人)が30手台で勝ったと言うとそれよりも早く勝とうして最後に詰みがあるのに詰まさず(詰ますと手数が伸びる)に必死を掛けたのに投了してくれなかったから、愛大のK氏より短手数で勝てなかったとふざけた事を言っていたのを覚えています。団体戦が終了してから個人戦になるのですが、個人戦は予選を通過して決勝トーナメントに進みましたが、広島修道大学の白石雅彦さんに敗れて春の中四国大会は終わりました。この時に先輩方が心配していたのは、この中四国大会の秋季大会を松山で商大が主管開催する事になっており、運営の心配をしていました。私は1年だったので何もわかっていませんでした。先輩のご苦労は大変だったと思います。当時は全参加者の宿泊の手配まで主管大学がしていたのでホテルとの料金交渉等も大変だったと思われます。因みに広島大会で宿泊していたホテルは広島市内の流川にあるホテル28で1泊2800円でした。2800円で泊まれるのでホテル28と付いたと当時は聞いていましたが、28才の時に出張で1ヶ月程滞在した時は1泊3600円になっており、名前はホテル28のままでした。初めての大学将棋に体験して将棋の面白さを新ためて感じるのですが、大会が終わり松山に帰ると入学2ヶ月で自分の置かれている立場と現実(生活していくという事)に向き合う事になります。

(続く)