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#27 「松山商科大学(定時制)時代 6」

2022.9.10 更新

児島有一郎

私は元々、身体は強い方ではありませんでした。子どもの頃から40度以上の発熱が度々ありましたし、インフルエンザにも10回は掛かっています。子ども教室を始めた20年前からでも3度掛かり、予防接種を毎年打ち始めてからも2度掛かりました。子どもの頃は平熱が35℃台だったので36.8℃位になると、身体が怠く学校を休む事もありました。(学校が嫌だったと言う事もあった)37℃になると動きたくありませんでした。しかし、花園で働きだして、他の方と話していると37℃位だったら仕事出来ると言われ、私も微熱で休むと申し訳ないと思うようになりました。そこで37℃を超えても仕事に出てみました。すると身体を動かしている内に熱も下がり、少々の熱だと仕事が出来るようになっていきました。身体が強くなった気がしました。

花園での仕事は花の販売や観葉植物のリースがメインの仕事でしたが、植木に関する事を全般しており、小さいものなら庭木の植え替え等もしていました。夏にスコップで植木の根を傷めないように、掘り起こす事は大変な重労働でした。植える場所には穴を掘らなければなりませんから、本当にビールを飲みながら仕事してもアルコールは直ぐ抜ける状態でした。重労働でしたが、身体を鍛える事が好きだったので私には一石二鳥の仕事にも思えていました。この頃は仕事が終わって学校の無い日や休日など合間をぬって、伊予鉄スポーツセンターのトレーニングジムに通うようになりました。吉田社長に仕事が終わってトレーニングジム通っていると話すと仕事が足りてないと言われました。この仕事は相当に疲れるはずなのに、まだジムに通える元気があるのかと驚かれました。この頃は将棋の練習はあまりしていなかったと思います。大学の大会以外は出た記憶がありません。大学1年の終わりに戻りますが、将棋ジャーナル誌の企画で中四国九州大学8校での指定局面トーナメントと言う企画があり、森貞さん木山さん市川君が商大の選手として出場し決勝まで勝ち残りました。しかし、決勝戦は森貞さんの都合が付かず、広島将棋センターで行われた九州大学との決勝戦に私が出場して1勝2敗(市川勝ち)で敗れ迷惑を掛けてしまいました。優勢な将棋を落としチームが勝つには私が勝つしかなかった(九州大学の大将は全国アマ名人の古賀一郎さんだった)のですが、この対局の為に、あらかじめ出されている指定局面の研究を大学の部室で何度か行いましたが、当日は研究とは全く違う手を試して皆の努力を無にした上に、優勢な将棋を勝ちきれないと言う醜態でした。

学業の方は自分なりには、頑張って通いましたが、勉強はしませんでしたが授業にはなるべく出ていましたが、バイトとの兼ね合いから(人手が足りない時は、バイトを優先していた)授業に出られない時もあり、3回生で満単を取っても、単位が足りず3年では卒業は出来ない状況になっていました。気持ちを切り替えて3回生で出来るだけ頑張り、4回生では少なめの授業で卒業出来るようにしようと考えました。この頃は相当バイトを頑張っていたので収入は安定して来ていました、多分、月15~18万位はあったと思います。そこで毎月2万円を母に送り始めました。理由は、育ての親の様な基三郎伯父は、高校出てから給料の4分の1は父親(私から見ると祖父)に仕送りをしていたと聞かされていた事もありました。仕送りのもう一つの理由は、1つ下の弟の剛が、1年前に久留米大学に入りましたが、学費は奨学金と母が出し、生活費は全額バイトで通っていると事がありました。学費の金額は知りませんでしたが、昼仕事して夜間大学に通う私でも大変なのに、深夜のコンビニ(ローソン)バイトが終わって昼間大学に通っている弟は、私より大変だと思いました。いつ寝ているのかとも思いました。私が母に仕送りする事により少しは、足しになるのではと言う気持ちがありました。仕送りは大学を卒業して日立化成に就職するまでの2年半続けました。

3年春の中四国大会は5月1~3日に広島で開催されました。この大会では木山さん、市川君、高橋さんとポイントゲッターが3人抜けて、しかも部員総数が8名で中四国大会に出場できるギリギリの状態でのA級リーグの戦いでした。私が覚えているメンバーは、5回生植條さん、4回生が浜本さん、3回生が私、2回生が前田君、田中君、吉田君、住友君と1回生中西君と、このようなメンバーだったと思います。私が入部した時のように1回生は強くても団体戦には出さないと言う事は、言っていられない状況でした。しかし、こんな状況の中でも大会で如何にA級残留出来るかを考えてオーダーを考えて大会に臨みました。私達が考えたオーダーは大将~3将までを当て馬にして4将~7将で4勝して勝ち点を狙うと言う大博打の作戦でした。例えば広島修道大はスーパーエース2名、エースが1名いるので実力順で並ぶと上位では1勝する事も大変と考えました。しかし、この作戦も、4~7将が1つ負けると敗戦という作戦でした。この時の商大の戦力は今の松山将棋センターで例えると私と前田君が四段位で植條さんが三段位、浜本さんと田中君が初・二段位、中西君が初段位で他は級位者と言う感じでした。この大会で商大は2勝2敗で残留するのですが、島根大と修道大に狙い通りの4勝3敗で勝利、広島大には3勝4敗、岡山大学には2勝5敗の成績でした。私と前田君が全勝でした。この頃は本当に将棋の勉強はしていなかったので気持ちで勝っていた感じでした。バイトもGWと母の日(花屋さんの掻き入れ時)が近く忙しいという事もあり団体戦だけ出場して、個人戦は出場せずに松山に戻りました。

この頃、バイト先の花園でも仕事に変化がありました。社長の弟さんが経営していた伊予鉄そごう店の花売り場を運営する事になったのです。会社も社長、専務(奥さん)、常務(首藤さん)勝則さん(首藤さんの弟)と伊予鉄そごう店の2人のスタッフとアルバイト2名と、岩崎町の本店の花屋さんのパートさん2~3名と人数が増えました。そこへ吉田社長は久米窪田の観葉植物を休ませておくビニールハウスで薔薇を育てる事を考えその準備にも入りました。花屋さんなので当然、花が売れますが仕入れの費用が掛かるので薔薇を自分の所で栽培する事を考えたのです。人手がいるので伊予農業高校や農業大学等に来年度の新規募集を、掛けたりして動き始めました。私が主にしていた観葉植物のリース業も勝則さんが大学4年で就職活動にも入るという事で、人手がいる事になり、私と同じ商大の夜間に通う1回生の相原準一君がバイトで来るようになりました。学校仕事と、どちらも私の後輩に当たるのですが、相原君には本当に助けてもらいました。特に授業の事は、私は仕事を優先して授業にはあまり出ていなかったので、同じ履修科目があると教えてもらっていました。相原君がいなければ卒業出来なかっかも知れません。仕事でもう一つの大きく変わった事は、伊予鉄そごうの売り場に入る事になった事です。そごう店は社員2人とパートさんで回していましたが、パートさんがいない時は社員さんを休まさなければいけません、当時のそごうは火曜が定休日でしたが、繁忙期に入ると1ヶ月以上定休日が無くなります。そんな時に社員さんを休ませるために、私が替わりにそごう店に入る事になりました。首藤さんは身体が大きい(180㎝)と言う事が、私がそごう店に入る事になった理由でした。花屋なのでお客様は女性が多いので、大男がいるとお客様が逃げてしまうというのです。しかし、私も接客業は経験もなく難しい仕事でした。コンビニのレジ打ちと違い、相手のニーズを探し売るものを薦めるという事は難しかったです。通常は接客は社員さんに任せて、中の仕事を主にしていました。リボン作りやアレンジメント作り等です。その為にフラワーアレンジメントの教室にも通わせてもらいました。そごう店の仕事は忙しいと時間はすぐ経つのですが、暇な時の方が多く作業もなくなり、1日中が立ち仕事なので時間の経過が遅い疲れる仕事でした。しかし、接客業という意味では勉強させられる事が多い仕事でした。

秋の中四国大会が近くなりましたが、将棋部の部室にはあまり行けなくなっていました。大会の1ヶ月前位に部室に寄ってみると2,3名が練習していましたが、部長の姿が見えません。そんな事が2,3度あり他の部員に部長の事を聞くとパチスロに嵌まっていると聞きました。大会前に部長が部室に来ないとはどういうことかとも思いましたが、私自身が部室にあまり行っていないので、私に人の事を言う資格があったかはわかりません。しかも、本来なら3回生が部長をするので、3回生は私しかいなかったので部長は私がしなければいけなかった事を、定時制という事もありとても部長が出来る状況ではなかったので、2回生が引き受けてくれていると言う事もありました。しかし、この時はそんな事より、A級残留という目標が第一に考えていました。その後、部室に行った時に部長に会った時、私は部長を問い詰めてしまいました。部長は黙ったまま何も言わないので、私は激昂してコンクリートの部室の壁を思い切り殴ってしましまいた。部長は微動だにしませんでしたし、私が言っても説得力はなかったかも知れません。当時から私は気持ちが大事だと思っていたので将棋が強い部長が引っ張らないとA級残留は難しいと思っていました。本当は私がしなければならない事だったのですが。

そんな中で10月の末に岡山で秋の中四国大会が始まりました。私は仕事も忙しかったのですが、私が行かないと7名にならない状況だったので団体戦だけ出場する為に岡山に向いました。商大は前回の7将だった2回生の田中君が大学を退学していました。作戦は前大会と同じく4将~7将で勝ちに行く作戦でしたが結果はチームは全敗でした。修道大学には対策を立てられ、頭2つに当て馬を置かれポイントをずらされ1勝6敗でした。広島大学には3勝4敗、岡山大学には1勝6敗、岡山理科大学には3勝4敗と残留決定戦で惜しくも敗れた感じですが、将棋の内容では残留出来ていました。残留決定戦の最終戦で前回全勝だった部長の対局が最後に残りました。将棋は必勝だったと思いますが、局面で1一竜、3一馬の所で3三竜と1一の竜が相手の桂馬を取り反則負けで降級が決まりました。この大会では部長は2局の反則負けをしました。私は特に何も言いませんでしたが(言う資格もないので)卒業するまでにはA級復帰しなければとは思いました。この大会での私の成績は3勝1敗でした。

(続く)