コラム
#28 「松山商科大学(定時制)時代 7」
2022.10.7 更新
児島有一郎
3回生になった頃、私は2年間住んだ家賃8000円、6畳一間風呂無台所トイレ共同の岡本アパートから引っ越しする事にしました。一番の理由はお風呂でした。仕事が終わり大学に行くと家に帰るのは午後10時前になります。食事をして帰ると遅くなる事もあり、近所の銭湯は午後10時が札止め、道後温泉の椿湯は午後10時30分が札止めでした。間に合わない事もありました。汗をかく仕事なので寝る前にお風呂に入れない事は苦痛でした。早起きして朝風呂に行く事もありましたが、朝になると仕事に行って直ぐに汗まみれになるのと思うと、朝風呂に行く事が馬鹿馬鹿しくも思えました。そこで風呂付のマンションに引っ越しを考えました。銭湯代も毎日行くと1万円以上掛るので、そろそろ風呂付でも良いかと思い紅葉町の土手沿いにあった河合水道工業所の事務所が1階にある4階建ての3階の1DK2万5千円の河合マンションに引っ越しました。自分の部屋に台所と風呂トイレがあるのは、有難い事でした。それから河合マンションに結婚するまでの13年間住む事になります。今、住んでいる所の次に長くなった住処です。
この頃、車も買い換えました。4本違うサイズの入っていたイスズジェミニから軽4(550CC)のスズキエブリィ(箱バン)に買い替えました。この時は、前回と同じ轍を踏まないように、個人タクシーをしていた父の弟さん健次郎叔父さんに車探しに付き合ってもらいました。今のようなオシャレな軽4ではなく貨物車でした。値段は45万でした。買い替えた理由は後部座席をフラットにすれば、車内で脚付き将棋盤置いて将棋が指せると考えたからでが、当然、走行中は道路交通法違反になるので指す事は出来ませんし、結局一度も将棋を指す事はありませんでした。親しい友達は一般的な若者が乗る車を乗っていたので笑われましたが、その時はそんな事はあまり気になりませんでした。不便に感じたのは宇和島への往復時の坂道で最高時速が50キロしか出ない事でした。
大学に入って、将棋以外の友人で仲の良かった人が3人いました。3人とも雄新中学3年時の同級生で、1人は藤田賢治君で藤田君は、私が1年時は浪人中で松山の予備校に通っていました。藤田君は私が松山に出てきた時に一緒にアパート探しを手伝ってくれたり、バイト先のアドバイスをくれたりしました。大学に通いだしてからは、藤田君が予備校生という事もあり、会う頻度減りましたが、私が藤田君の家に行き、藤田君が留守の時でも、お母さんがご飯を食べさせてくれ大変お世話になりました。私が大学2回生になった時には藤田君は、日本大学に合格して東京に行ってしまい。藤田君の家も、お父さんの転勤で広島に転居した為に、交流が途絶えました。藤田君と再び交流が始まるのは、それから約15年後からです。
もう一人1年時に仲の良かったのは、上田英治君です。上田君は中学時代にはそれ程仲が良かった訳ではありませんが、家に行ったりした事はありました。高校は松山西高校で、高校時代には1度も連絡を取る事はなかったのですが、松山大学に入った時の初日登校日に学校の事務局前で会いました。上田君も昼はガソリンスタンドで働きながら、学校に通っていました。時間がある時には、家に来て話をするような友人になりました。私が住んでいた岡本アパートは、昔ながらのアパートで長い廊下の左右に部屋があり、部屋は引き戸でした。部屋には鍵がなかったので南京錠を付けていました。上田君は私がいない時に来た時は、鍵は持っていないので入れないはずなのですが、入口の引き戸ごと外して中に入っていました。私は特に取られる物もなかったので、怒る事もしませんでした。そこまでして人の部屋に入る事に呆れてはいましたが、上田君は1年の終わりに松山大学を中退して、マスプロアンテナに就職しました。給料が良いと話していましたが、就職して半年程してから、私の家にスーツ姿で現れマスプロを辞めると言うのです。理由は周波数を計測する車の機械を、出したまま車を動かしてしまい、電線に機械を引っかけて壊して100万弁償するか、辞めるかのどちらかだと言われたと言うのです。今、聞くと会社側の言い分もおかしな事だと思いますが、上田君はそのまま辞めてしまい、それから1年程連絡が途絶えましたが、次に現れた時は郵便局員になっていました。マスプロを辞めてから、将来の事を考えて公務員試験の勉強をしたと言っていました。
もう一人の良く家に来ていたのは、渡部敏彦君です。渡部君は中学時代には一番仲が良く家にも遊びに行っていました。渡部君は広島経済大学だったので、松山には居ませんでしたが、帰ってくると家に来ていました。仲は良かったですが私には少し迷惑な一面も持っていました。渡部君は家が資産家のようで、お金の苦労はした事がないタイプでした。良い車に乗っていて私をドライブに誘ってくるのですが、私は疲れている時は、行きたくありませんでした。すると、ご飯を食べに行こうと言ってきます。ファミレスで食事して、家まで送ってくれるのですが、家の前までくると私を降ろさずに、そのまま大洲辺りまで走って行くのです、しかもスピードを出すので私は事故を起こすのではないかと、恐怖もありましたし、家に着くのが深夜の1時~2時位になり、翌朝から仕事の私には迷惑な友人でもありました。バイト等した事のない渡部君には翌日の事など考えた事もなかったようです。渡部君とは何となく友達付き合いを続けていました。一度は私も悪い事をしたと反省した事もありました。私がバイクを手放した後に、渡部君が自分の250CCのバイクを貸すから乗れと言うのです。私は貸して欲しいわけではありませんでしたが、1週間程貸しとくと言って置いて帰りました。私は一度しか乗らなかったのですが、私がバイクのライトを消し忘れていた為に、バッテリーが上がり渡部君は数キロ先の友人のバイク店まで押して行ったそうです。その話を後日聞いた時は悪い事をしたなと思いました。
3回生の頃は、仕事が休みの日中にはボウリングに行く事が多くなりました。休みと言っても月1,2回でしたが、そごうの花売り場の前にUCCのコーヒーショップがあり、そこのバイトの方とボウリングに行く事が切掛けでした。元々、中学時代に市川君や清水君と早朝ボウルに行っていました。当時、1ゲーム300円でしたが、早朝ボウルだと半額の150円だったので、下手でしたが中学時代は良く行っていました。平日の昼間だけしか休みがないと遊ぶ友達もいないので、1人でボウリングに行くようにもなり、当時はアベレージが150~160位に上達していました。ハイアベレージは248で200以上は30回程と言うのが、今はやらないボウリングの腕前でした。数年前に久しぶりに行くと120程しか出ずそれからは行っていません。
大学に入って1年目から正月頃には恒例の行事がありました。宇和島南高校時代の将棋部で一緒に全国大会に出場した。西村昭生君と1局1000円で10番勝負(必ず10局指す)をする事でした。西村君は下関市立大学に行っており歩冬休みには帰省していました。実家は宇和島市から宇和町(現西予市)に転居していました。西村君は下関市立大学なので将棋部で大会に出場していれば中四国大会で会えましたが、部活は日本拳法部(強制加入させられた模様)に所属しており、中四国大会には出ていませんでしたが、将棋は山口県の強豪の家で指したりして続けているようでした。西村君の将棋は序盤巧者で終盤がひ弱い感じで、私とは真逆の将棋でしたが、当時は私もそれ程詰将棋を解いていた訳でもなく終盤の粘りで逆転勝ちする根性将棋という感じでした。対戦成績の順序は覚えていませんが、私から見て10勝が2回、8勝2敗が2回、7勝3敗が2回、6勝4敗が2回、5勝5敗が2回と10年間で負け越した事は一度もありませんでした。西村君も卒業後に愛媛に戻って来た時には県大会でベスト8に入る程の実力だったので弱くはなかったのですが、勝負師向きではない感じでした。2年目か3年目の時です、私が出だし3連敗して4局目も必敗で終盤を迎えました。その時は私の得意な穴熊を、当時出始めの藤井システムや、単桂での端攻め等での穴熊戦法、他には空飛ぶアヒル戦法等、私が初めて見る作戦を使われ、苦しい戦いが続いていました。4局目も諦めかけていたのですが、その時に西村君は鼻歌を歌いだしたのです。私はナニクソと思い気合が入りました。薄れていた闘志が燃え上がり粘りに粘って逆転勝ちして、その日は5勝5敗のタイで終える事が出来ました。そういう事がもう1度ありました。私は苦しいスコアになっても結構頑張るタイプです。しかし、西村君は出だしで連敗すると、やる気がなくなるタイプでした。それで私の10連勝が2回あるのです。実力的にはそこまで離れている訳ではありませんでした。今と違い昔は強くなってくると練習相手がいなくなります。将棋道場に行っても県代表クラスが、いつも居るとは限りません。ですから同じ相手と何局も指す事は当たり前の事でした。将棋道場の開店から閉店まで同じ相手と10数局指す事も良くありました、私は7,8連敗する事はあってもその後は結構持ち直す事が多かったです。逆に1日全局を全て勝つ事は何度かありました。当時は当然の様に真剣で指していました。真剣とはお金を掛けて指す事を言うのですが、私は1局100円~1000円迄と決めていました。中には5000円~10000円掛ける人もいましたが、高額になるとやはり懐に余裕のある人が有利になるので、私は最初から1000円迄と決めていました。それ以上の金額は何度、誘われても受けた事はありません。当時は強くなりたかったらお金を掛けろとかよく言われていましたが、強くなるにはどれだけ真剣に指すかという事が大事で、お金を掛けるという事は、本来は必要のない事ですが、掛けないと真剣に指せないと言う意味で掛けていたのだと思われます。
(続く)