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#36 「四国日立化成住機時代 5」

2023.5.24 更新

児島有一郎

四国日立化成住機時代に、3回社員旅行に参加しました。先輩の方々に伺うと給料は安いけど、社員旅行は2年に1回贅沢な旅行をしていると言われました。社長(代表取締役)が旅行好きだったようです。毎月千円か二千円ですが、給料から旅行積立の天引きをされていて、旅行に不参加でも返してもらえない制度だったとも思います。丁度、私が入社する2か月前に北海道旅行が終わった所で、先輩達は北海道旅行の話しを良くしてくれました。主にK君が朝のバスの出発時間になっても乗っていなくて、部屋に行くと寝ていたという話でしたが何十回と聞かされました。北海道の2年前は沖縄だったそうです。2年に1回で入社した年に開催しているので2年後まではありませんでしたが、翌春には本社を置く高松市屋島のホテルで全社員参加の1泊の宿泊研修がありました。部屋は同程度の役職の方数人が同部屋になっていて私の部屋は6人部屋で修学旅行の様でした。その部屋に宴会が終わり寝る時間になると高松本社の総務部長が入って来て、寝かしてくれと言うのです。部長は社長と同部屋だったのが嫌で私達の部屋に来たようですが、寝ると直ぐに喋り出して(寝言)社長の悪口が延々と続くのです。総務部長の年齢は社長より年上の定年前だったのでストレスが物凄く溜まっていたようです。寝言は良く聞きますが寝言のレベルではなく寝喋りです。片言ではなく辻褄が合う悪口になっているのです。多分、家でも同じ事を言っていて、本人もわかっているので私達の部屋に来たのだと思います。今ならスマホで直ぐ録音出来るのですが、そういう時代ではありません。喋りがうるさくて数人は寝る事が出来ず、1人は他の部屋に行き1人は押し入れで寝ました。私も押し入れに入りましたがそれでも煩くて寝られません。その後ロビーに行くと1人がロビーの椅子で寝ていました。私は椅子では寝られなかったので部屋に戻ると残っていた1人の先輩は寝ていましたが、喋りは収まっていません。喋りの始まる前に飲み過ぎて寝た人は被害に合わなかったようですが、私は殆ど寝る事が出来ずに朝を迎えました。中間管理職は大変だと思いました。前号で出た日立化成本社の部長だった栗原利幸さんが、社長の事を「本社に戻れば課長か課長代理位で偉くはないけれど、四国いればトップだから年に数回だけ東京・大阪の会議で猫のように大人しくして頭を下げて置けば、四国に戻れば偉そうに出来るのだ」と話していました。

入社して2年目の初めての社員旅行は東北1周弾丸ツアーでした。私は団体旅行が好きでなく、修学旅行も行きたくないくらいでした。旅行で好きなのは将棋仲間と行く将棋の旅くらいです。花園時代も社員旅行はありましたが、5~8人位の参加だったので家族旅行的な感じでした。この東北旅行は元々の企画に無理がありバスに乗っているだけの旅行でした。覚えている事は、まず宮城県の松島に行きました。ここで私は若さ故の所業ですが、木に登っている所を写真に撮ってもらいました。今の時代にSNSで拡散すれば炎上でしょう。次に覚えているのは青森に泊った事です。ここから北海道の友人に、近くにいるので飲み行こうと電話を掛けました。次はこの旅行で唯一の楽しみでした。社長が「寄らなくても良いけど児島君がいるからと15分だけ」と天童の土産物屋に寄ってくれました。事前に聞いていたのでここで駒を購入しようと5万円を用意していました。天童は中学3年の中学選抜大会以来でした。立ち寄ったのは、今は閉店した武内王将堂で滝の湯ホテルの隣にありました。当時の私は駒に詳しい訳でもなく、15分で武内王将堂ブランドの鷹山作島黄楊赤系柾目水無瀬書彫駒を購入しました。駒を買うのも中学1年以来でした。時間がないので迷っていると、5000円負けてくれたので4万5000円でした。そのバスツアーは強硬過ぎて、ホテル到着が20時を過ぎそこから宴会が始まり、朝は7時前に出発と毎日で疲れるばかりの旅でした。最後に兼六園と東尋坊に行った事くらいしか覚えていませんが、本当に30年以上前にこれだけの移動できたのか不思議です。

2回目の社員旅行は翌年でした。会社の業績が良かったからと言って行く事になったようです。名古屋から東京に行きました。東京まではバスに乗っていたくらいしか記憶にありません。東京ではパレスホテルと言うホテルに宿泊して、夕食は屋形船で宴会でした。宴会が終わって部屋に帰ると私は直ぐに、新宿歌舞伎町に向かいました。普通は怪しい遊びに行ったと思われそうですが、私は歌舞伎町に在った新宿将棋センターに行きました。初めて行ったのですが着いた時は、22時は過ぎていたと思います。土曜だった事もあり、人が多く将棋センターの中にあった食堂で食事を取っている人も大勢いました。四段で申告して1局対局すると、16名参加の深夜トーナメントがあると言うので出場しました。特にルール説明もなく始まり1時間が経過しました。私は始発の電車が5時過ぎなのでそこまでは負けられないと思っていました。対局開始後1時間経過したところで時計を置かれそこから30分切れ負けとなります。5時過ぎまで残れる事が分かった時点で負けても電車があると安心しました。結果は約7時間で4連勝して優勝して賞金5000円をもらって7時前にホテルに帰りました。日頃から徹夜で将棋を指しているので疲れてはいませんでしたが、その日は東京ディズニーランドだったので徹夜でアトラクション、並ぶのは疲れるのでバスで寝かしてもらえないか聞きましたがダメでした。バスに残っていたら熱中症で死んだかも知れませんしそんな知識もなかったころです。一先ず入園してから遊園地(梅津寺パークのような感じで思っていました)なので、隅っこのベンチで寝て置けばいいかと思い入園しましたが、横になる事は許されないと先輩に言われ、先輩達とアトラクションに並びました。大体が60~90分待ちで、1日数本のアトラクションにしか乗れず乗っても一瞬から数分で終わり、待ち時間の長さ等に異常さを感じましたが、一般の人からすればディズニーランドに来て寝場所を探す方が異常なのでしょう。今考えると将棋にのめり込み過ぎている人はやはり普通ではないのでしょう。

3回目の社員旅行は会社を辞める半年程前だったと思います。北九州の方に行きました。ここの記憶は殆どなく、福岡から佐賀に行き吉野ケ里遺跡に行った事は覚えています。その後、長崎の中華街で昼間に宴会して夜は自由時間と言う事だったので、電話帳で長崎市内の将棋道場を探して電話しました。平日の17時頃だったと思いますが、愛媛県から来ているので指しに行きたいと伝えましたが、棋力を聞かれ四段と答えると、相手がいないし19時には閉めるから、今回は遠慮してくださいと言われがっかりしてしまいました。そんな事もあり最後の社員旅行には思い出がありません。

団体旅行は嫌いでしたが、気の合う将棋仲間と出掛けるのは楽しかったです。平成3年だったと思いますが、将棋横丁の末期頃に田村勇人さんから徳島の池田町で、香川・愛媛・高知の1県8名参加の対抗戦に声を掛けてもらい出場しました。本当は田村さんが出場するところを替わりに私を推薦してくれたようでした。メンバーは武田裕司君、郷田昌志君がいた以外はっきりと覚えてないのですが、私と郷田君以外は県代表経験者でした。武田君は全勝で私と郷田君は全敗でした。帰りの車の中で運転しながら私は自分の将棋の弱さを嘆いていました。その翌週は将棋横丁で県代表クラスに混ぜてもらい6名でリーグ戦をしましたが4連敗後に最終局での1勝の結果に私が落ち込んでいると一緒に参加していた石丸哲さん(松山将棋教室時代の先輩で、松山商科大学将棋のOBで県五段戦優勝者)に将棋の内容は良いから、自信を持てと励まされた事を覚えています。この頃は練習しても結果が伴わず本当に自信のない日々でした。それから数か月の平成4年の7月26日に、徳島の蔵本将棋センターに対抗戦に行きました。私と武田裕司君と一色厚志さんとO氏の4人でした。私の車で行ったのですが、徳島チームは沢野勇さん、大松啓治さん、築地堅一郎さん、中飯和志さんの4人でした。初戦は築地さんでした。築地さんは徳島県代表10回以上の強豪でしたが、相矢倉で勝利しました。その後は築地さんとは大会で数回当たりましたが、少し負け越しています。次は中飯さんでこの将棋も相矢倉から入玉されましたが、入玉後の詰みを読み切っていての勝利。中飯さんとは、その後大阪に将棋を指しに行っていた時に関西将棋会館で何度か会い同年代と言う事もあり、大阪で知り合った大阪の強豪の山本伸一郎さんと3人で数十局対戦して、呑みにも行った事も何度かあります。三戦目は大松啓治さんでした。元全国学生名人で徳島県代表多数の強豪でしたが、この日はツキもあり、大松さんの三間飛車に私の居飛車穴熊の出だしから負け将棋でしたが、最後は大松さんが頓死して勝ちを拾いました。3連勝でも上出来でしたが、最後は沢野勇さん(全国大会3位)に敗れましたが、この日の松山チームでは唯一の3勝者となり、私の1勝分で松山チームの勝ちになり賞金を得る事が出来ました。その賞金は私が車を出して運転したい事もあり、私のみが勝ち越しという事もあって全額もらう事が出来ました。自信を付ける事の出来る1日になりました。

この当時はお盆の時期に大阪で開催されていた平成最強戦に市川君、武田君、森川聖一さんを中心とするメンバーで参加するのが楽しみでした。気の合う棋友との将棋旅行は楽しかったのですが、当時の最強戦は参加者が約250名で内50名が全国優勝経験者で県代表経験者は200名近くというハイレベルな大会でした。私はこの時代には1度も予選を通過出来ませんでした。この頃の私達の最高成績は森川さんと武田君がベスト32まで進出しました。最強戦以外でも大阪の将棋道場京橋クラブの年末大会等にも旅行を兼ねて参加する事が当時の楽しみになっていました。

(続く)