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#35 「四国日立化成住機時代 4」

2023.4.22 更新

児島有一郎

南西航空杯で優勝した2週間後には、第22回全国支部対抗戦愛媛県大会に松山支部の選手として出場しました。この大会は3人1チームの団体戦で、日本将棋連盟四段免状修得者は出場出来ないルールです。松山支部のメンバーは流田義夫君が大将、1回り年上の西尾さんが副将で私が三将でした。実は私はこの大会に出場する時は会場に行って説明を受けるまで、どの様な大会かも知らずに出場を了承していました。松山支部の支部長から団体戦があるので出場してと言われて当日、会場だった伊予市の商工会議所の会議室に行きました。説明を受けて初めて優勝すると西日本大会に出場出来ると知りました。大会は7チームの参加で総当たりだったと思います。私も記憶が定かではないのですが、当時の支部は東から宇摩支部・新居浜支部・今治支部・今治中央支部・伊予支部・松山支部・三津浜支部・平成支部(八幡浜支部)・宇和島支部の9支部で、数年後に石鎚支部・南予支部・松山坊っちゃん支部が発足します。団体戦には三津浜支部と今治中央支部が参加してなかったと思います。

松山支部の初戦は平成支部でした。私の相手は大隅正司さんで中学生の頃から、八幡浜の月例会で30局以上は指していました。居飛車の急戦調で早指し将棋で、私は少し苦手な相手でした。対戦成績は負け越していました。(中学時代からなので私が弱かった事もありますが)初戦、私は大隅さんに敗れましたが、2人が勝ちチームは勝ちました。2戦目以降の相手は覚えてないのですが、流田君と西尾さんが負けてチームとして1敗は喫しましたが、最終戦を勝てば優勝と言う状況になり、宇摩支部と当たりました。流田義夫君は愛媛大学の3回生で広島県出身でした。大学に入学して直ぐに県棋王位を取り、その大会に出場していなかった私は、新聞で結果を見て「この人誰?」と思った程でした。それから武田裕司君を通じて仲良くなり「月の輪会」でかなり指しましたが、私の流田君との対戦成績は勝率1~2割位だったと思います。流田君は受け将棋なのですが、詰め将棋作家(将棋世界・近代将棋等の入選回数回)の一面もあり終盤が強く私の攻めが見切られて敗れる展開が多かったです。その流田君が宇摩支部との1戦までに1敗していました。この頃は分かりませんでしたが、私が得意とする受け将棋の人に相性の悪い所があったので、攻めるのが苦手だったのかも知れません。また、西尾さんも2敗していました。西尾さんも、この当時は私が不思議と苦手としている人でした。西尾さんは対居飛車には四間飛車美濃囲いで戦型としては、私に居飛車穴熊に組ませてくれるので私が最も得意として型になるのですが、最終盤で勝てそうで勝てず当初は大会で5連敗した記憶があります。練習将棋で私が気楽に他の戦法(例えばツノ銀中飛車・右玉等普段指さない戦法)を指すと5分以上に指せるのですが、私が得意に組むと勝てないのです。相手も対居飛車穴熊が得意形だったと言う事なのですが、当時は気づいていませんでした。また、振り飛車党なのに相手が振ると居飛車を指していたので、将棋の感覚的な部分は私と同じだったのかも知れません。私は当時の作戦は対振り飛車には居飛車穴熊、対居飛車には矢倉が多かったのですが、この数年後に相居飛車を止めて相手が居飛車なら振り飛車穴熊と変えてから勝率が格段に上がりました。西尾さんも県大会優勝の県代表こそありませんが、県準〇〇は10回程ある実力者です。支部戦の最終戦は宇摩支部で、大将・篠原正幸(県支部名人・県赤旗名人数回)さんと副将・宮崎信雄さん、三将・林誠治さんのオーダーで宮崎さんと林さんも当時は東予地区を代表する実力者でした。3人とも松山支部の月例会王座戦には毎月のように来られておりよく当たっていました。林さんは1月のグランド王座戦でも当たっています。結果は私と西尾さん勝ちで西日本大会に出場する事が出来ました。県予選は流田君4勝2敗、西尾さん4勝2敗、私が5勝1敗と私は初戦敗れてからは、勢いに乗る事が出来ましたが流田君が2敗した事には驚きました。

西地区大会は平成5年4月18日(日)に神戸市リバーサイドホテルにて開催されました。前日の土曜の夕方から前夜祭の2日制ですが、大会は1日制(今は大会が2日制)なので、予選は4チーム(又は3チーム)総当たりで1チームしか予選通過出来ません。団体の場合はポイント制(勝点・勝数・大将3点副将2点三将1点の勝利ポイント)なので、まだ納得できますが、個人戦は2勝1敗が3人並ぶと抽選になります。1敗すると運任せと言うことです。予選抽選は1ブロックの1と幸先良い番号でした。初戦の相手は福岡県代表の北九州中央支部でしたが3戦全勝で勝ち勢いに乗る事が出来ました。2回戦の相手は愛知県代表の名古屋支部でした。ここは前評判が高く優勝候補とも言われていました。大将のマツダさん?と言う方が、東海地区のアマタイトル保持者で本来なら五段免状保持者なのですが、何故か免状を修得しておらずこの大会に出場しているという話を前日の抽選会後に前夜祭会場で耳にしました。東海チャンピオンなら強いはずですが、流田君も愛媛県棋王なので何とかしてくれるだろうとは思いました。私の相手は川村さんと言う方で高校生か大学生くらいに見えました。戦型は私の居飛車穴熊に四間飛車穴熊の得意とする相穴熊戦となり完勝でした。西尾さんが敗れ1勝1敗で大将戦の決着となりましたが、2回戦の最後まで残る大熱戦となり流田君が勝ちチームの勝ちが決まりました。予選最終局は奈良の西大和支部です。負けると予選通過はポイント制になります。私と西尾さんが勝ちチームの勝ちは決まりましたが、流田君は前局の熱戦からの疲れからか敗れました。しかし、終局後、私に「児島さんを信じてました」と言ってくれるのです。練習であれだけボコボコにされている私にそう言ってくれて嬉しかったのと、やはり団体戦はチームプレーだと思いました。そしてもう一言「もう負けません」と流田君は身長こそ185センチほどありますが、70キロもなさそうなヒョロヒョロな感じで押せば倒れそうな体型なのですが、気持ちの強さを感じました。昼食後、決勝トーナメントが始まりました。1回戦は佐賀県の佐賀将棋センター支部予選の成績は3戦全勝勝点7と松山支部と同成績でしたが、3人が勝ち準決勝進出し次戦は金沢百万石支部です。実は私が松山坊っちゃん支部を起ち上げた時の命名理由は金沢百万石支部に大きな影響を受けています。知名度歴史等を推し量れる支部名だと感じ、私が支部を作る時も参考にしたいと思い、松山坊っちゃん支部と命名しました。金沢百万石支部の予選成績は3戦全勝勝点8予選通過チーム最高でした。私と流田君が勝ち決勝進出を決めました。この日の私は調子が良かったです。決勝の相手は広島将棋同好会支部で前年も準優勝しています。前年のメンバーは山崎隆之プロ(当時小6)と片上大輔プロ(当時小5)がいて山崎プロ勝ちの1勝でチームは敗戦していました。この時は大学生2人と片上大輔プロ(小6)のメンバーで片上さんはここまで予選から全勝で私とは全勝対決でした。大将の大学生は流田君が広島県出身と言う事もあり、広島将棋センター時代は流田君の後輩が相手と言う事もあったのか「任せてください」と言ってはいましたが、中四国学生名人か準名人の実力者だったと思います。副将の方は中四国学生ベスト8だったと聞いていました。私は相手が小学生と言う事と全勝対決と言う事で気合が入りました。今となっては片上大輔プロにと思うか方もいるかも知れませんが、当時は将棋の強い小学生です。将棋は戦型が矢倉模様で片上さんの強引な攻めを私が受ける展開となりました。角銀交換の駒得ながら自陣角を打つ展開で既に苦手なパターンでした。(この頃の私の将棋の勝敗は局面の有利不利よりも如何に自分の得意パタンーンになるかと言う事が重要でした)相手の攻めがツボに入り粘る事も出来なくなり早々と持ち時間を残して投了となりました。団体戦の負け方としては一番拙い敗戦です。私は、松山坊っちゃん支部を立ち上げてから、この大会や文部科学大臣杯、子ども将棋団体戦等と団体戦に力を入れてきましたが、この時に得た教訓を常に子ども達に言っているだけなのです。受けが苦手なのでしょうがないのですが、終局後広島の強豪柿本雅之さんが、もう一手攻めずに辛抱していれば指せましたと言って頂きましたが、それを聞いた片上さんは「それにはそれで何か捻り出しますから」と郷里の先輩の感想戦にも全くの強気の返答で感想戦はそこで終了しました。片上さんとはその後も交流があり、この時の将棋は将棋連盟の会報支部ニュースの79、80号に次の一手検定問題で出題して頂いてビックリしました。決勝戦はその後、西尾さん流田君と勝ちチームは優勝しましたが、決勝戦を負けての優勝で気持ち的には申し訳ないと思う所も大きかったですが、県予選の初戦敗退会から西地区大会の決勝戦で敗れるまで10連勝だったので総合成績10勝2敗には満足出来るものでした。大将の流田君は9勝3敗、副将西尾さんは8勝4敗とチームとして穴がなかったのではと思いましたが、その事を直ぐに武田裕司君に連絡すると、児島さんの出来次第では優勝が可能なのではと皆で話していたと言われました。私が一番好不調の波が激しいと言われました。帰りのフェリーターミナルで支部長含め4人でお好み焼きを食べその時にトイレの鏡に映っている自分の顔を見た時に、こんな嬉しそうな顔は見た事がないと思いました。個人の県代表ではありませんが、優勝チームは四段免状なので県代表と同等価値と言うことが嬉しかったです。また、愛媛県代表の優勝は3チーム目でしたが、初優勝の愛媛支部(南谷誠一郎・松田耕治・森岡正幸)2チーム目の優勝の宇和島支部(斧寛志・山口正彦・渡辺教光)メンバーの殆どはその後、県タイトルを取る活躍をしています。森岡正幸さんはこの大会で優勝した時に20才大学生で、私も通っていた教室の松山将棋教室が愛媛支部だったのですが、M先生から、この子(森岡さん)はまだ弱いから二段に免状してほしいと言われ二段免状しか貰えず言い返す事も出来ない森岡さんは悔しかったそうですが、それに奮起して3か月後には愛媛県名人を獲得して四段免状を修得したそうです。

(続く)