コラム
#38 「四国日立化成住機時代 7」
2023.7.24 更新
児島有一郎
平成6年になり、1月に開催されたグランド王座戦で昨年に続き優勝しましたが、その他の大会では前年より成績が下降気味でした。理由は仕事の悩みが大きかったと思います。この時期から日立化成住機を辞めるか相当に悩み始めました。仕事は好きでしたが人間関係で悩みました。私がお世話になっていた近藤課長が辞めた事も大きかったです。近藤さんの後任で入社した40才代のK田さんとも気が合いませんでした。私が人間関係で悩んでいると話すと、相談に乗るからと言うので、自宅まで行きましたが相談した事が他の社員に筒抜けになっていて信用出来ない人だとしか思えなくなり、余計に孤立感が強くなりました。近藤さんの担当だった工務店を2才下のK君が担当したのですが、経費等で領収書に不自然な事があり、事務の女性社員が購入先に問い合わせると領収書が書き換えられている事が分かりました。その女性社員が所長に伝えた所、所長は人の荒探しをするなとその事務員さんが怒られる等、理不尽で我慢できない事が多々ありました。K君はその後、担当の工務店を外され新入社員(私より年上ですが)の串宮さんが担当する事になりますが、K君が業務の引継ぎを中々してくれない等のトラブルになり串宮さんと事務員の方も退職してしまいました。串宮さんも仲の良かった人なので、益々孤立感が高まりました。私は直接トラブルがあった訳ではないのですが、見て見ぬ振りをする上司や同僚と一緒に仕事をする事が嫌になって来ました。栗原さんに相談すると「仕事が嫌で辞めるならわかるが、人間関係で辞めるのは馬鹿馬鹿しい事だ」と言われました。人間関係は転勤等で変わるのだから我慢していればいいと言われました。私を日立化成住機に入れてくれた愛媛日立の社長の忽那さんも栗原さんと同じように、「我慢して頑張っていれば将来所長位にはなれるのだから頑張りなさい」と言われました。やはり紹介で入っていると辞め難さを感じましたが、結局は平成7年の9月で会社を退職するのですが辞める1年前からは耳鳴りがして夜が眠れない日が増えてきました。給与も決して良い方とは言えませんが、入社3年目で基本給に交通費・家賃補助を入れて総額が19万を少し超える位でした。ボーナスを入れて年収300万程だったので地元の企業と考えれば、普通だったのではないかとも思いました。将棋だけは満足出来る位の練習時間も取れ大会にも出場できていたので悩みは、転職して今までと同じように将棋に打ち込める時間が取れるのかという事を考えました。
私が担当していた家電店で住宅設備を販売すると言う仕事は、成績を上げるために本来は営業社員がしてはいけない事などもありました。例えば温水洗浄便座を販売すると当然取り付け工事が発生します。下請けの水道設備会社とか日立化成のサービス会社(別資本の関連会社)愛媛日化サービス等にお願いする事が普通でしたが、顧客に安く商品と工事を提供する為(販売店が儲ける為?)に私が取り付け工事をする事で購入してもらったりする事もありました。また、太陽熱温水器(ソーラー式湯沸し器)の取り付けも高所作業なので危険が伴うのですが、1人親方の設備業者の方に購入してもらうと屋根に上げるまでの作業を手伝ってくれれば購入する等と言われる事が多くその手伝いをしていました。他の営業社員の方もしていたのでその時は規則違反をしている気持ちは全くありませんでしたが、ある時会社から営業以外の仕事は業者に任せる事との通達がありました。全国的には事故があったのではないかと思います。
その日は、太陽熱温水器の調子が悪いので、壊れていれば購入すると言う顧客があり、販売店さんと現地に行きました。私に屋根に上がって状態を見て来てほしいと言われましたが、私がそれは出来なくなったのですと言いましたが、販売店さんに強く頼まれて断れなくなり、梯子を用意してもらう事になりましたが、販売店さんが用意してくれたのは脚立でした。脚立を梯子のようにして使うのは同じようでも危険が伴うので、私は何度も断りましたが、押さえとくから大丈夫と言われ、なぜかその時は嫌な予感がしましたが、屋根に上がり状態を見て屋根から降りようとした時に、身体が宙に浮きました。私は咄嗟に頭を落下の反動で打たないように首を丸め首に力を込めました。これは高校の時に少林寺拳法を習っていたから出来た事と脚立は滑るから思いながら上がっていた事が身を守れた要因だと思っています。受け身ではありませんが屋根から落ちると落ちた反動で頭を打つと聞いていたので首に力を入れていました。会社から禁止されていた作業で結果自分が引き受けた事とは言え一歩間違えれば大怪我だったので、怒りのやり場がありませんでした。販売店さんは降りるだけだから大丈夫と思い脚立から手を放していたと言うのです。
また、この時期に仕事中に交通事故を続けて起こして自暴自棄にもなりました。1度目は納品して昼前の帰社中に、どちらの道で帰ろうかと迷いながら下に降りる道を選ぶと、横断歩道を少し過ぎたところで小学生が飛び出してきて撥ねてしまいました。意識はありましたが救急車を呼び救急病院に行くと頭蓋骨骨折で2日以内に内出血があると命の保証は出来ないと言われました。子どものお父さんは出来た方で、私も若い時に交通事故を起こして相手に責められたので、あなたの気持ちはわかるからと言って慰めて頂きましたが、2日間は気が気ではありませんでした。事故をしたその日は運転をする気にもならないのですが、夕方に急ぎの納品の連絡があり、替わりに行ってくれる人もいなかったので、仕方なく自分で運転して、当時の北条市立岩にある中山設備さんに納品に行きました。奥さんが落ち込んでいる私を見て、事情を聞かれたので事故の件を話すと「落ち込む気持ちはわかるが一流の営業マンならそんな時も、顧客の前では普通に接しなければならない」と言われ私の中で金言の一つです。事故の翌日の夜9時過ぎに子どもお父さんから自宅に連絡を頂き「内出血はなかったのでもう大丈夫です」と言われた時は、身体の力が抜けて直ぐにグッタリとなり直ぐに寝てしまいました。相当に気が張っていたようでした。この後、検察に呼ばれた時も相手方が処罰を軽くとの申し出があったので、注意だけにしときますと言われて本当に深く反省をしましたが、それから3ヶ月後に2度目の事故を起こしてしまします。所長を乗せて大洲の国道を走っていると脇道から軽トラックがノーブレーキで突っ込んで来て左の後部座席辺りに激突して車は半回転しました。所長も私も無事でしたがもう少し前に当たっていると所長は大怪我をするところでした。過失は1か2で少ないのですが縦続きの事故で自分自身の気持ちが落ち込んで運転する事が怖くなってしまいました。
この当時は会社を辞めたい気持ちも大きかったのですが、基本土曜は隔週2日で出勤日の半ドンで日曜祝日は休みなので将棋は思う存分出来ました有休もあり、大会で優勝した日は夜、その日の対局の棋譜を付けたり興奮して眠れず翌日、有給を取り休むなど将棋を続けていく上では満足できる職場でした。その頃、私の担当だった愛媛日化サービスの専務から、転職しないかとの話を頂きました。愛媛日化サービスは日立化成と資本関係はないのですが、日立化成製品の修理を行うサービス会社となっていました。浄化槽の維持管理業と設備工事が主な仕事の会社でした。個人の家電店が多い私には大きな取引先でしたし、転職で誘ってもらえるという事は評価して頂いているという事なので嬉しかったのですが、日立化成と関係のある企業に転職する事は問題があるのではないかと思い。所長に相談しましたが、他県でも同じ事があり、就職は取り消しになったと聞かされました。その事を日化サービスの専務に話しましたが心配しなくても大丈夫だからと言われます。そんな時、子どもの時からの将棋仲間で松山大学の将棋部の後輩にもなる武田裕司君が大学を中退して仕事を探していました。私は武田君に愛媛日化サービスで働いてみないかと話をして気乗りしない様子でしたが、使用期間という事で勤め始めました。後でわかったのですが武田君は東京に出て行きたかったようなのですが、私は仕事をしていないのならと考えて専務に話をしました。武田君は使用期間の3ヶ月を働き就職するのかと思っていたら、辞めてしまいました。私は意外な感じでしたが、専務に聞くと楽しそうな感じではなかったが、3ヶ月はキチンと働いてくれたので真面目な人だったと言って頂きました。私は複雑な心境でした。武田君が私への義理で3ヶ月勤めてくれたのだとしたら申し訳ない事してしまったとも思えました。それから数か月後に武田君は東京に就職してしましました。愛媛にいる時にもアマ名人戦の全国大会でベスト8に入っている実力なので強い事は分かっているのですが、上京してからも2年以内に東京都代表に2度なりましたが、それから3年程、武田君の名前を聞く事がなく上京して7年ほどしてから私が上京した時に連絡を取り会ったのが最後になっています。その時は2年程で将棋を止めてしまい競馬に嵌まってしまったと、将棋一途だった武田君の話とは思えない話題にビックリしました。しかし、半年前に病気をして足を切断する可能性もあったと傷跡を見せてもらい、「もう一度将棋をやろうと思います」と話をして別れたのが武田裕司君と会った最後です。その後は将棋大会で名前も聞かないので、やはり将棋への情熱が覚めてしまったのかとも思っています。将棋を続けていれば必ずどこかですれ違えるはずなのですが、東京で将棋関係者に聞いてみても武田君の事は分かりません。あの再会が最後だと寂しい気持ちになります。
(続く)