コラム
#39 「四国日立化成住機時代 8」
2023.9.15 更新
児島有一郎
今回は少し緩いエピソードをいくつか紹介していきます。私が1人暮らしを始めてからの話等を書いて行きます。
大学に入り松山に出て来た時の夏の暑い日でした。実家から持ってきた冷蔵庫の前で扉を開けて涼んでいました。そのまま冷蔵庫を開けたまま寝てしまい、朝起きた時には冷蔵庫が壊れてしまい、近所の電気屋(愛興電機で店主は米子さんと言う方で、身体に障害のある方でしたが、偶然にも趣味が将棋で、それから十数年後に私が松山将棋センターを始めてから、亡くなられるまで通って頂きました。私が米子さんから冷蔵庫を買った事は当然覚えてはいませんでした)さんに中古の冷蔵庫を買いに行く事になってしまい痛い出費(15000円)となりました。その冷蔵庫を結婚してからも少し使ったので15年程使いましたが、冷蔵庫は新しい程、電気代が安いので早く買い替えれば良かったと今になれば思います。しかも日立に居たので家電も社員価格で買えたので、目先のお金をケチった為に相当損をした事になります。
当時は、親戚から2等米(小さかったりひび割れているお米で、捨てるかニワトリの餌とか肥料として使う)を貰って食べていました。大学1年時は部の先輩にご馳走してもらう事が多く、外食が続き数ヵ月米櫃を開けずにいると、久しぶりに開けた米櫃の中から蛾の様なものが羽ばたいて来て恐ろしくなり直ぐに閉めてしまいました。また数ヵ月米櫃を開けられなくなってしまいましたが、その後どうしても食べるものが無くなり、その米櫃を開けました。しかし、その時は何事もなかったので、よく洗ってからその米を食べました。あの時の蛾の様な生物は何所に行ってしまったのか謎です。
2等米をいつも食べていたので、お米が美味しいと言う事を忘れていました。棋友の一色厚志さんが結婚したばかりの頃、新婚さんのお宅に遊びに行き泊めてもらいました。一色さんの実家は農家だったので、朝ご飯に出て来た炊き立ての新米を食べて、美味しい事にビックリした事を覚えています。
2年間住んだ持田町の岡本アパートから、紅葉町の河合マンションに変わった頃ですが、私は食費を節約する為に自炊をしていました。ゴミ出しする事が面倒くさかったので期間は忘れましたが少しの間、ゴミを捨てずに台所の隅のゴミ箱に溜め置きしていました。朝の5時頃ですが虫の飛ぶ音がうるさくて目が覚めて、ベランダの戸を開けてもう一度寝ましたが、それでもうるさいので眼鏡を掛けて部屋の中を見ると数十匹の蝿が飛んでいました。溜め置きしていたゴミに蝿が沸き大量発生しました。朝から私は慌てて朝から掃除をしました。それ以降はゴミが少なくてもゴミの日には出す習慣が付きました。
河合マンションでは台所にガス湯沸かし器が付いていて、排気を煙突で外にする様になっていました。不思議な事に湯沸かし器の中から、藁の様なものが時々出て来るのです。発見する度に藁を取り除いていましたが、当初は風に飛ばされてきたものが、排気口から入っているのかと思っていました。ある時藁を取り出すと次々と出てきます。その藁は排気口の外部までびっしりとあり、鳥(何の鳥かはわかりませんが?)の巣になっていたのです。危うく一酸化中毒になるところで鳥に暗殺されるところでした。その後も鳥は巣作りをしてきましたが、それからはマメに除去していきました。鳥からすると湯沸かし器の排気口なので暖かくて丁度良かったようです。
次の話は自分に起こった事では一番の怪奇現象です。ある時部屋の電話を掛けようとすると掛からないのです。プッシュ式の電話機だったのですが、反応する番号と反応しない番号があります。偶々、友人の番号が反応する番号のみだったので掛けてみると掛かりましたが、反応しない番号があると掛ける事が出来ないので電話が掛けられない状態になりました。なぜか受信する事は出来ました。その時は大した用事でもなかったので放置していましたが、一週間程してどうしても掛けないといけない用事があり、何度か掛けようと試みましたが掛かりません。一週間前と同じ状態です。私は何か腹立たしくなり電話機を持ち上げて振ってみました。すると電話機の中から大量の水が出て来るのです。私は呆気に取られました。電話機は部屋の真ん中辺りに置いていて窓を開けていて雨が吹き込む事もない場所です。私はなぜ電話機の中から水が出て来たのかわかりませんでした。怪奇現象かとも思いましたが気にしない事にしました。1週間程して寝ている時にフッと思い出しました。そういえば洗濯し忘れたタオル2枚を、お風呂で手洗いして電話機の上で室内干しした事を思い出しました。手で良く絞ったつもりでしたが、その水滴が電話機に落ちて電話機が壊れた事が推測出来ました。
給料日前でお金がない時は1週間の食費を1000円とか2週間で2000円と決めて何とか生活をしていました。主なメニューは一番安い豚の細切れを冷凍にして置き何回かに分けてもやしと炒める野菜炒め、安い鰯(200円以内)を何度かに分けて煮つけにする。タイのお頭(100円程)も安いので2食に分けて煮つけにするなどしていました。そんな食生活になれていた為に、結婚した時に食費1ヶ月3万でとお願いすると、そんなのは無理と言われましたが自分が1週間1000円生活だったのでなぜ出来ないのか不思議でした。私としては1ヶ月3万は相当贅沢な食生活が出来ると思っていました。
コラム28で書いた宇和島南高校の同級生のN君と、私の実家で将棋を指した後に宇和島に行きました。ボーリング場の看板を見るとN君が突然ボーリングをしようと言いだしました。私は花園時代に、休みが平日の時は、遊び相手がいなかったので朝から1人ボーリングに行ったりしていて、マイボール・マイシューズを持って行っているくらい嵌まっていた時期がありました。球技は苦手でしたが、ボーリングは多少自信がありました。N君が私に「アベレージはどれ位」と聞いて来るので「150~160位」と答えました。するとN君が1ピン100円掛けようと言うのです。私はビックリしてN君は、そんなにボーリングが上手いのかと思い少し悩みましたが、200出されても5000円位の負けと考え3ゲーム勝負という事で受けました。それまでの私のハイスコアは248でした。その日は凄く調子が良くて1ゲーム目に自身2番目のスコア236を出しました。N君のスコアは100に届くかどうかでした。私は悪いと思いながらお金を貰いました。そしてN君に、このスコアは出来過ぎだけどアベレージ150~160と言っているのに、勝負を挑むのは無謀ではないかと言いました。すると私がハッタリを言っていると思ったと言うのです。いつも強気なN君ですが珍しく泣きを入れて来て、2ゲーム以降は1ピン50円にしてと言うので50円にしましたが、その日はその後も調子が良く残りの2ゲームも180超えで、N君は100前後だったので、この日は将棋でもボーリングでも勝ちと気の毒な気持ちになりました。N君は他にもパチスロを趣味にしていて、お金の出入りは激しく借金をする事もあったようですが、私にはお金の価値は、その時の懐の状況によって変わるので無い時は借りたら良いのだと持論を話していました。同じ1万円でも、お金がない時は価値が高いが、お金がある時は価値が低いと言うのです。私にとって1万円は常に大金だったので、N君の金銭感覚には驚いた記憶があります。
私が日立化成に入社して1年目の頃、京都の従弟の結婚式に行きました。京都の伯父(母の兄)とはそれまで、会った記憶がなく私が3才位の時に1度会っただけのようでしたが、児島家を代表して結婚式に出席する事になりました。結婚式場で私がエレベーターから降りると、降りたところに純子伯母さんがいて、「惣二さん(伯父)久しぶり」と声を掛けました。そのエレベーターには惣二伯父さんと従弟の健一さんが乗っていたのですが、私は面識がない為に同じエレベーターに乗っていても親戚かどうかも分からないのだと思いました。
結婚式が終わってからは、京都精華大学のマンガ学科に通っていた高校の友人の橋本君の家に泊めてもらう事になっていて、京都市立美術館で午後2時に待ち合わせしていましたが、2時間待っても橋本君は来ず、アパートに連絡しても留守で困り果て、京都の伯父が泊れと言っていたので連絡してみましたが、ここも留守で行くところがなくなり2月の寒い京都で途方に暮れてしまいました。そこで、もう1人吉田小・中、宇和島南高の同級生の山本君がいる事を思い出し連絡すると迎えには来てくれて家で休ませてもらいましたが、早く帰ってくれと言う雰囲気でした。夜の9時過ぎにやっと橋本君に連絡が取れて、車で迎えに来てくれました。橋本君は5時過ぎに美術館に行ったそうで、もう1時間待っていれば良かったと言われました。橋本君とは今でも時々、宇和島で呑みますが、時間の感覚が500年前の人のようです。
(続く)