コラム
#50 「AIU保険会社IS社員時代 10」
松山坊っちゃん支部時代 3
2024.10.7 更新
児島有一郎
平成10年がモチベーションを保って将棋大会に出場した最後の年になりました。出場しなくなった理由は、対局中でも審判として声を掛けられるようになったからです。この当時、愛媛県支部連合会の普及局長という立場で、全国大会の県予選を運営していました。大会運営は基本、運営者3名で事務局長の今治支部門田昇さんと、事業局長の今治中央支部の河野栄次郎さんと私で大会の設営・受付進行・審判をしていました。私は35才までは、県大会に出場しても良いと言われて普及局長を引き受けていましたが、自分の対局中も参加者から、ルール・クレームの事を聞かれたりしました。対局が中盤辺りならまだ我慢出来ましたが、切れ負け戦の残り数分でも声を掛けられる事もあり将棋に集中出来なくなりました。参加者から声を掛けられるのは、まだしもですが対局中に他の審判からクレームの対処を頼まれたりしました。この年の竜王戦の時、準々決勝で私が、村上昭三さんと対局していると、私の持ち時間が残り5分を切っている状態で、審判のKさんが他の対局でトラブルがあり、仲裁してくれと言ってきました。私は断りましたが、その直後に二歩をして反則負けになり、この環境下で将棋大会に出る事が嫌になりました。7月の県名人戦は準決勝で森岡さんに敗れ3位でしたが、この大会を最後に、全国大会の県予選に出場する事はなくなりました(実際は松山将棋センターでレーティング選手権の四国大会を開催するようになってから、2回四国大会に出場して3位と4位)。私が運営に係わらない、他支部の大会、坊っちゃん支部の大会(審判・運営兼)、県外での大会には出場していますが審判を兼ねる全国大会県予選の大会には平成10年7月が最後の出場になりました。大会運営の事で、他の運営者との溝を作ったのが大会中の私語です。対局中特に準決勝・決勝でも審判が対局者の横で平気で世間話をします。一時期は大阪最強戦の準決勝以降を見習って対局者の近くには入れないように机で囲ったりもしましたが、近くで見られないと他の運営者から言われ、この試みも数回で終わりました。この時の愛媛県内の運営者は、全国大会に出場した事のない人ばかりで、全国大会の雰囲気等が解からなかったようです。
少し話は戻って平成8年の初めごろの事です。月の輪熊会は解散して毎週末に徹夜で将棋をする事はなくなっていましたが、月1回くらいで、土曜の夕方に佐伯石材さんに呼ばれて将棋を指す事がありました。夕方から指し始めてお兄さんの壽之さん(社長)と次男の照治郎さん(工場長)と三男の?さんと、壽之さんの長男哲寿さんの4人が交代で私と対局するというものでした。4人の棋力は一番強かったのが照治郎さんで二段、壽之さんが初段、三男の方が猛烈な攻め将棋の2級位、哲寿さん(通称テッチャン)が1級位でしたが、テッチャンは初めて一色厚志さんを連れて行った時に、初戦で一色さんに勝ちました。テッチャンは2度と一色さんとは指さない。対一色戦は勝率10割を自慢にすると言って本当にその後は一色さんとは対戦しませんでした。佐伯一家との対局は、私は1人が通しで対局しますが相手は交代なので途中で仮眠する事も可能です。途中で指したい人が居ても、席を立たない(和室で六寸盤を使って対局)と他の人は私と対局出来ません、すると誰かがもう遅い(深夜2時頃)のでそろそろ終わりにしようと言って皆が一度立ち上がります。そして私の前が空くと別の人が座り駒を並べ始めるのです。その流れで次局が始まり朝まで続くというお笑いのような一晩が続きました。佐伯さん達は将棋の魔力に魅入られて疲れも忘れてひたすらに指す感じでしたが、朝になり対局が終わるとそこで寝始める人もいました。私はこの数年前まで毎週1回徹夜で指して、寝ずにその日も指す生活を3年程指していたので、その位では苦になる事ではありませんでしたが、徹夜将棋を続けていると、日頃の仕事の疲れもあり、私も意識が朦朧として二歩をしてしまった事がありました。すると壽之さんが、「県代表にもなる人が二歩を打つのは恥だ」今度二歩をしたら右手の中指を照治郎(通称ショウちゃん)に差し出せと言うのです。私は変な事を言う人だと思いましたが、そんなに二歩をする事もないだろうと思い了承しました。しかし、それから3ヶ月経った頃の深夜、私は照治郎さんとの対局で二歩をしてしまったのです。照ちゃんは「お前の中指はワシの物だと」言い始め、「対局する時は親指と人差し指で指せ」と言うのです。私が癖でいつものように指すと、「ワシの中指を許可なく使うな」と言ってきます。それから1週間程して私が照ちゃんの工場に行くと、照ちゃんが嬉しそうな顔をして、「嫁がお前にプレゼントとを用意している」と言いながら、工場の裏にある照ちゃんの家に向いました。私は内心「この人たち良い人だったのだ」と思いながらついて行くと、お見舞いと書かれた熨斗がついた箱を渡されました。開けてみるとナイフとフォークとスプーンのセットでした。私はなぜと思いました。照ちゃん曰く「お前の右手中指はワシの物だから勝手には使えん、箸が使えないから、食事はこれを使え」というのです。私は何となく悔しい気持ちになり仕返し出来ないかと考え、照ちゃんに対局でこちらが10連勝したら、照ちゃんの右手小指をくれないかと申し出ました。右手小指が私の物になったら、この指輪を嵌めてと、大街道の路端の店で買った500円の十字の指輪を照ちゃんに見せました。照ちゃんは「ええよ10連敗はしない」と言いました。そのやり取りが金曜日の出来事でしたが、私が週明けの月曜日にAIUに出社すると事務の人が私に速達が届いていると言うのです。親展と書かれた手紙を開けると印鑑証明と一緒に、手紙が入っていました。綺麗な文字で書かれた手紙で内容をそのまま紹介します。
血判状
私・佐伯照治郎は、最愛の我弟子 児島裕一郎に
万が壱にも 拾連敗の屈辱を
期した場合は すみやかに 右手 小指を児島裕一郎に
進呈することを 誓い
仕事中以外は 十字の指輪を右手小指に差し込み
以後 児島裕一郎を神とあがめ
朝夕 天に向かって十字を切り
対局前には 十字を切った後
児島裕一郎に向い 両手を組み合わせ
必ず アーメンと 唱えること ここに 約束する。
平成八年三月二十二日 (国連 水の日)
児島裕一郎殿
佐伯照治郎
立会人 佐伯壽之
と書かれていました。それから一週間程して照ちゃんの右手には十字の指輪が輝く事になりました。
この2,3年は、佐伯家で将棋を指す事が心地よい楽しみでした。その後は色々ありましたが、その話は後記します。
今でも、湯渡橋と末広橋を歩いて渡ると橋の袂に、佐伯石材彫刻社の仕事が見られます。照治郎さんの仕事で歩く度に懐かしさが思い出されます。
平成10年の将棋大会の成績は、10月県王将戦(今治支部主催)で優勝、11月の今治文化芸術祭将棋大会(今治市文化協会主催)で優勝と東予地区での相性の良さが出ました。今治文化芸術祭将棋大会は、愛媛県民文化祭の一環で今治市文化協会が主催の将棋大会でした。県民文化祭のメイン大会は今も続く県知事杯ですが、当時は、県支部連合会の会長が今治中央支部の川下静男さん、事業局長が河野栄次郎さん、事務局長が今治支部の門田昇さんと主要メンバーを今治が占めており今治市の将棋熱の高さが分かります。県王将戦は今治支部が主催の大会で、優勝すると四段免状(未取得者のみ)がもらえる大会でした。当時の四段免状は、県名人戦・県竜王戦の代表と支部対抗戦・支部名人戦の西地区大会上位進出者のみだったので、県王将戦は人気の大会でした。私は今治市の大会は特に相性が良かったと思います。南予地区での大会は出場回数も少なかったかも知れませんが、成績は今一つでした。優勝した事がありませんし入賞の記憶も少ないです。南予地区の大会は、宇和島・八幡浜・大洲が月例会で宇和町(現西予市)が年1回開催でしたが、どの大会も1日時間内だと何局でも指せるルールで、勝ち星が多い人が優勝で同星だと対局数(負け数)の多い人が優先されるルールでした。早指しの人が有利な事もありましたが、この大会ルールに慣れた方は、相性の良い人が抜け番だと、苦しい将棋を投了して次局を指す人等、南予特有の大会に慣れた人が有利でした。しかも、昔は対局時計もなかった頃は、長考派の人と当たると早めに投了して次局を指す人もいました。南予大会で強い方はその地区では良く勝っていましたが、松山で開催されていた、全国大会予選に来るとあまり勝てませんでした。
平成10年は30勝19敗、勝率0.619・優勝3回の結果でした。
(続く)