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#49 「AIU保険会社IS社員時代 9」
松山坊っちゃん支部時代 2

2024.9.23 更新

児島有一郎

損害保険の営業は、紹介等でノルマに届くようになり、飛び込みTELアポ等する事は少なくなりました。5年で3000万の扱い保険料にするには、単純に年間600万を5年続ければ達成出来ますが、自動車保険料は無事故だと保険料は安くなって行き、その他の保険も契約落ちがあるので、年間650万は売り上げないと5年で3000万は難しい数字でした。1年目は550万と1年目にしてはまずまずの成績でした。2年目は650万で1年目と合わせて1200万になり5年で3000万の独立出来るペースに乗って来ました。実質は契約落ちがあるので1200万は少し切っていました。この頃心掛けていたのは顧客を増やす事でした。契約金額の大小でなく少額の保険でも良いから顧客数を増やす事を考えていました。私が勧めていた保険は当時あった個人賠償保険です。今は自動車・火災保険の特約でしかつかない保険ですが、当時は年間保険料が2100円で事故があった場合は最高5000万まで支払える保険だったと思います。保険料が安いので売りやすい事と、未加入の方が多かったので勧めると殆どの方が契約してくれました。その他の保険も含めて、私は1ヶ月毎日契約が取れた月がありました。他の方は売っても、あまり契約金額が上がらないので個人賠償保険を販売する人はいませんでした。私は何でも契約すれば顧客なので、その他の保険も勧める事が出来るし、その方が現在他社で契約している保険を切り替える時の選択肢にも入れてもらえると考えて、少額保険料の個人賠償を販売しました。もう1つAIUでは独立するまでに大同生命保険の死亡保険金10億の契約というハードルがありました。この当時、生命保険会社はバブル期に販売していた貯蓄年金型の保険が銀行金利の引き下げにより、保険会社の支払い能力が悪化して経営破綻する生命保険会社が数社でました。大同生命は大手に比べれば規模は小さな会社でしたが、資産内容は健全な会社でした。しかし、私は保険契約をする時に、世の中の流れから、数年後には会社がどうなるかわからないので、保険は掛け捨てが良いと顧客に説明して安価な生命保険を販売しました。掛け捨てはもったいないと最初は顧客から反論されましたが、貯蓄型は掛け捨て部分に貯蓄部分を上乗せしたものを保険会社が運用しているだけなので、貯蓄は専門の銀行にした方が良いと説明して生命保険を販売しました。因みに20代の人なら保険期間は70才までですが、死亡保険300万・入院5000円通院2000円で掛け金は月3000円前後位でした。それで70才までは保険料は変わらないので、結婚等で死亡保険が必要な時は、その時期だけ死亡保険金を上乗せすれば良いと話して保険契約をしていました。20代の方でも10000円程の保険料を払っている方も多くいたので、掛け金が安いと言われて紹介が紹介を呼んで100件以上その契約を販売しました。死亡保険300万の保険でも100件になれば3憶になります。当然、死亡保険金がもう少し多い方が良い方もいるので、死亡保険金10億は苦にする事無く到達したように思います。契約高もありましたが、3ヶ月に1本は生命保険契約取らないといけない決まりもあり取れない場合は、自己契約をする人も多くいました。それを私達は自爆と言っていましたが、私は5年間で自爆と呼ばれる契約した事は一度もありませんでした。

将棋の話に戻ります。平成9年は58勝26敗優勝5回でした。平成10年の2月に初めて県支部名人になりました。県大会決勝では前年度の西日本支部名人の森岡正幸さんに勝ち、西日本大会に出場しました。西日本大会の当時のルールは4人ブロックでの総当たりで2人が予選通過するというものでした。森岡さんから1昨年の西支部名人の広島の田村幸一さんに勝たないと予選通過は出来ないと言われましたが、田村さんに負け、2回戦で富山代表の桶屋郁夫さんに勝ち、3回戦は岐阜県代表のこの年の支部名人になる神辺忠宏さんに敗れ全国大会は終わりました。その後、将棋大会への参加は減って来ましたが、大会での勝率は上がって来ました。仕事が忙しくなって、将棋の勉強はあまり出来なくなっていましたが、日立化成時代の貯金が生きて勝ち始めた感じでした。勉強していない分、気楽に指せた事もありました。平成10年の夏は数年参加していなかった平成最強戦に森岡さんに誘われて愛媛からは2人で参戦しました。この大会は参加者が250名、全国優勝経験者が50名、県代表経験者は200名近くという大会で、これまで3回出場して1度も予選通過していませんでしたが、この時は初めて予選を通過して本戦で2勝してベスト32で、元奨励会二段でアマ名人経験者の長岡俊勝に敗れました。将棋の内容は最終盤まで良い勝負で最後に引き離されて負けた内容でしたが、大会の成績にも将棋の内容にも自信が持てた大会でした。

平成10年の小学生名人戦に初めて、教え子を出場させる為に、当時の開催地だった新居浜市に小学生を3人連れて行きました。まず驚いたのは、大会の参加者数です60名くらいはいたと思います。私は新居浜の将棋熱に驚きました。私が子どもの時は小学生名人戦、中学選抜選手権等50名近くの人数を松山市で開催していたのですが、私が20才頃に愛媛新聞社で開催していた小学生名人戦は参加者が5,6名しかおらず、子ども教室に力を入れていた日本将棋連盟新居浜支部が、新居浜で小学生名人戦を開催し始めたという経緯がありました。私が愛媛県支部連合会に所属して新居浜支部の鵜川さんに話を聞くと将棋教室には約50名生徒がいると話され、私は人口が3倍いる松山だと150人を越えないと新居浜を抜いた事にならないと思い。将棋教室150人を目標にした事を覚えています。それ以降、新居浜支部の教室の生徒数も減ったようですが、私見ですがそれは指導者のモチベーションにあると私は考えました。当時の新居浜支部の教室の指導者は無報酬でしていたと聞きました。生徒からは月謝を取っていましたが、その収入は支部の収入にしていたそうですが、わたしはボランティアでは続かないと思い、私の指導の手伝いをしてくれる方には薄謝でも金銭を払う事にしました。話が逸れましたがこの時の大会に参加した子で一番強い子は、渡部良祐君という子でレベル的には今の松山将棋センターの7,8級位でした。将棋教室に来ても居眠りをしたりして真面目に将棋とは向き合っていなかったのですが、大会では美濃囲いに囲ってベスト8まで勝ち上がりました。私は、なぜ突然囲えるようになったのかと思いましたが、お父さんに聞くと大会に出ると言うので前夜、本を読んで勉強していたと言うのです。私は無理やり教えるよりも、自主的にやれるようにする事が大事だと分かりました。もう1つわかったのは、渡部君が将棋を始めたのは、幼稚園の時に徹夜でTVゲームに熱中するのを見て、お父さんが何か興味を持つ事をさせないといけないと思って将棋教室に連れて来たと言われました。渡部君はその大会以降は自主的に勉強するようになり、高校では高校県代表になり全国大会にも出場して、高校卒業するまで将棋教室に通ってくれました。

この頃、私は初めてテレビの取材を受けました。NHKだったと思うのですが、ローカルニュースで駒の話での取材でした。当時の松山市内で駒作りをしていた川内史郎さん(雅号:史龍作・史浪作・史朗等)の取材で川内さんの駒について語って欲しいという事でした。川内さんからの推薦で私が出演する事になりました。推薦してもらった理由は、この当時、愛媛新聞社主催の県アマ棋王戦で優勝すると川内さんの彫駒がもらえました。駒の裏に棋王と彫られているので棋王駒と呼ばれていました。前年の棋王戦は私が優勝したので、棋王駒は持っていましたが、それは川内さんの駒ではなく、川内さんに推薦された松本光泰さんの駒(光泰作)でした。ある時にその駒の字が漆で滲んでいると川内さんに話すと、川内さんが愛媛新聞社に推薦したのに申し訳ないと、手直ししてくれました。私は申し訳ないと思い川内さんの駒を一組購入しました。当時の私は川内さんの駒を5組程と、天童の彫駒2組を持っているくらいで駒の事は何もわかってはいないレベルでしたが、2時間程知っている事を一生懸命に話しました。ニュースが放送されて驚いたのは、2時間話して私の所の放送は10秒くらいでした。テレビの世界は大変だと思いました。今では当時より知識も、所有している駒も増えましたが、どんな世界でも突き詰めていくと天井がない事が、最近やっと分かって来ました。

(続く)