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#51 「AIU保険会社IS社員時代 11」
松山坊っちゃん支部時代 4 愛媛県支部連合会の話

2026.3.12 更新

児島有一郎

愛媛県支部連合会の普及局長になり、増えた仕事は県大会の受付、県大会の日程調整、各支部が主催する大会の開会式への出席、1年に1回の連合会役員会議でした。開会式の出席が私には苦痛でした。各大会は基本的には10時迄が受付でそれから開会式が始まりますが、この当時は10時過ぎに来られる方が多く開会式が10時15分位から始まります。そこから主催者挨拶、来賓挨拶、県連会会長、地元議員の方、各支部代表者紹介、ルール説明で試合開始は11時頃になっていました。選手時代は開会式を聞く事が苦痛で会場外にいる事が多かったのですが、役員になるとそういう訳には行きません。大会参加者は将棋を指しに来ていて挨拶を聞きに来ている訳ではないので、私は出来るだけ開会式を短くしたいと考えていました。私の関連している大会では今は短い開会式(15分以内)を実践しています。

連合会役員会議は、川下静男連合会会長の独壇場でした。連合会としての新たな試み等、会長の考えを延々(2時間程)と聞く会議でした。確かに連合会長の実績は素晴らしいものがありました。今治国際ホテルの役員をされていた事もあり、新築された今治国際ホテルの離れに当時としては最新の囲碁・将棋のタイトル戦用に、天上にカメラが備え付けられた部屋を作り、竜王戦を2度招致しました。今治市で将棋の日も開催しました。素晴らしい功績だと思います。しかし、年1回の定例会議では、実現しないイベントの話を毎年同じように聞かされ、最初は、新イベント大会の事を信じて聞いていましたが、毎年開催しない事を繰り返すので、会議への出席が嫌になって来ました。ある年の役員会議から私が事前に提案して、各支部から連合会や大会での議題を事前に出してもらい、役員会で検討し議事録を取るように提案して会議を進行するようにしました。当時の私が提案した1つは、県知事杯争奪将棋大会の件でした。当時の県知事杯は参加者が100~150名と県内では大きな大会でした。100名を切った大会は開催地が今治市の時でした。第1回大会は松前町の当時の厚生年金会館でしたが、参加者200名の記録が残っています。知事杯の参加者が多い理由は参加費が無料だったからです。大会運営者には愛媛県から審判8名に各1万円ずつが日当として支払われ昼食、夕食のお弁当まで付いていました。試合方法は他の大会と違い予選無しでトーナメントでした。参加者からは予選リーグをしてほしいと言う意見が、私が選手時代から出ていました。東予や南予の遠方から参加して1回戦負けで終わりだと寂しい等と参加者から言われていました。私が連合会会議で、他の大会と同様に予選を開催しようと提案しても、参加費が無料なのだから予選無しのトーナメントで良いと言われ、私の意見は中々受け入れてもらえませんでした。審判が8名いても忙しい時間帯は、朝の受付と組み合わせの時だけなのに、県から1万円の日当を貰っていては税金の無駄使いと同じで申し訳ないので、手空きの審判で指導対局をしたらどうかと提案をしていましたが、貰える物は貰って置けば良いと言うだけで私の意見は採用してもらえませんでした。数年言い続けてやっと予選リーグをする事を採用してもらいました。その少し後に県知事杯の状況が一変しました。県知事が白石春樹知事、伊賀貞雪知事から加戸守行知事へと変わった時でした。夕張市の行政破綻等、全国的に県市町村の行政赤字が取りざたされるようになり、愛媛県庁で県民に対して無駄な事業のアンケート調査を行い出た結果が、愛媛県文化協会の会議で発表されました。19項目の内、文化事業の重要性は18番目という結果でした。しかし、加戸知事が文科省出身だったので文化活動には理解があり予算削減の順位は上から4番目にすると言う事が発表されました。それでも県民文化祭の予算はそれまでより大幅に削減される事になり、将棋・囲碁を含め、世話役の日当は全廃される事になりました。文化協会の会議ではその後の県民文化祭への対応などが各協力団体と個別に話し合いが行われました。県民文化祭に参加しないという団体も出てきました。囲碁大会は、世話役1人で開催する事となり、設営等は県職員の方が手伝い、大会運営は大会敗退者が手伝って行うと決めた様でした。私はこれまで審判(世話人)に1万円支払っていたのに謝金0円にする事は出来ないと考え大会参加費を徴収する提案をしました。当時の参加者を考えると世話役は、大会が始まれば3人いれば充分でした。手空きの人で指導対局も始める事にしました。当時の将棋大会の参加費は一般1500円が通常でしたが、一般1000円として、中・高生500円、小学生以下を無料にしました。参加費を徴収し始めた初年度の参加者は、前年と殆ど変わらない参加者がいましたが2年目に激減しました。150名が100名位の減り方でした。原因は参加費の徴収ではありませんでした。県民文化祭全体の予算削減の為に、県民文化会館の隣にあった土地を参加者の駐車場として県が文化祭の期間中、借り上げていましたが、その無料駐車場の借り上げを止めた為に、参加者の方は有料駐車場に入れないといけなくなってしまいました。大会に勝ち残り決勝まで残ると、駐車料金が2~3千円掛かると文句を言う参加者がいました。翌年の知事杯の参加者は激減しました。そこから参加者を元の人数に戻す事に数年を要する事になります。

平成9年頃から県連合会の会議に提案して、愛媛新聞社にお願いした事は、女性への将棋普及でした。将棋人口を増やすには女性の将棋人口を増やさないといけないと提言して、愛媛新聞社主催の春の愛媛将棋祭りアマ棋王戦の中で、女性の部を新設してもらい女流アマ棋王戦として開催してもらえるようにお願いしました。新聞社の担当の方は、女性の部の新設にはあまり乗り気ではなく、実現までに2年掛かりました。新聞社としては1部門新設すると、賞品等の経費が増えるという事と、女性の将棋人口が大会を開催するほどいますか?と言われ、参加者が10名はいないと打ち切るという事で第1回大会を開催する事になりました。当時の県内の女性将棋事情は、私が永井兼幸さんから引き継いだ愛媛社会保険センターのカルチャースクールに2名と東予・南予に3名程大会に出場するレベルの方がいるくらいでした。新聞社の担当者から10名以上と言われ、私は将棋のルールを知っている女性の方に、片っ端から声を掛けて大会参加を呼びかけました。ルールを知っている方は意外と多くいました。将棋教室に通っているお母さん方にルールを知っている方が多くいて、平成11年の第1回大会は参加者が16名集まりました。これには新聞社の担当の方も驚いてくれて、女流棋王戦の継続を了承してくれました。しかし、数年後には参加者集めに苦労する事になって行きます。当時、県内の女性で最強だったのは八幡浜市から参加されていた新野順子さんで、10年間で4連覇を含め7回優勝されました。新野さんは地元では、自宅に地元の強豪の方を招いて指導を受けたりされるくらい熱心だったと聞きました。第3回大会では、私の教室の曽我美春江さんが優勝して曽我美さんが道場2級だったので、新野さんは1級~初段位だったと思われます。曽我美さんは90才までの40年近く永井兼幸さん時代から私の教室・道場に通って頂きました。新野さんに勝って優勝されたのは1回だけですが、殆どの大会で準優勝、3位と入賞されました。年数を重ねる内に、女流棋王位の部のレベルが上がって来て、対局時計を置くようになり、高齢の曽我美さんは時計の押し忘れ等で負ける事が増えて来ました。90才の頃には松山将棋センターでの棋力は6級になっていましたが、これは殆どが、時計の押し忘れによる、時間切れ負けで実力的には3.4級の地力を維持されていました。女流棋王戦の参加者集めに苦労するようになった理由は、女性のレベルが上がった事にあります。初年度は、ルールを知っている方でも参加してくれていましたが、開回数を重ねる毎に、実力差があることが判って来て、ルールのみの方は参加してくれなくなりました。第1回大会は30級から初段位のレベルだったと思います。しかし、初めて5年後位からは松山西高校や新居浜西高校の将棋部員の方が参加し始めてくれました。将棋教室の生徒達も参加してくれるようになりましたが、第1回大会の16名の参加者を集める事は出来ませんでした。愛媛新聞社の最初の担当者の方が言われていた10名を目標に、参加者集めを行って行きました。私の教室内の女性の人数は増えて来るのですが、大会の参加者となると嫌がる方が多くて中々増えませんでした。また、無理にお願いして参加してもらうと、教室を辞めてしまう方もいて、無理強いは駄目だという事も分かりました。これは子ども教室に通う子ども達にも言える事で、ある程度の実力が付かないと大会の出場は難しいと思いました。無理強いして出場してもらう事は、こちらだけの都合でしかないからです。




*2年近くコラムを中断していました。それまでは1ヶ月に1回書いていたのですが、理由は前回アップした後に、パソコンが壊れて、数ヵ月書けなかったからです。その後復旧しましたが、今まで書いた事を忘れてしまい読み返す時間がなく、書いていませんでしたが、多くの方にコラムの続きをお願いしますと言われ、同じ話が重複するかも知れませんが、読者の方も覚えていないはずと思い再開する事にしました。拙い文章ですが、また、お付き合いください。

(続く)