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#3 「子ども時代(高浜)」

2020.8.16 更新

児島有一郎

私の記憶がはっきりしてくるのは、1年保育に入園する少し前辺りからです。家の前の路地を歩いて直ぐの所に住んで居たミツル君と遊んでいました。ミツル君は1つ年下でしたのヤンチャな子どもでしたが、気が合いましたし何か頼れる感じがしました。私はどちらかと言えば大人しい子どもだったと思いますが、周りの子ども達に引っ張られるように、今では考えられない事をして遊んでいました。私が住んで居たのは5丁目で松山観光港が目の前でした。当時の高浜は漁師町で気の荒そうな人が多かったイメージです。道端にはトロ箱が積み重ねてある家があり、蠅も多かったです。二十歳過ぎた頃に高浜を歩いてトロ箱を置いてある家が無くなっているので、高浜も変わったなと思いました。

高浜と言えば海で、夏は海水浴です。今では考えられないですが、当時の夏休みの海水浴場は観光港横の漁船を置いている漁港の中でした。決められた時間に町内の監視員の方がいて、泳ぐ子は自分の名前を書いた蒲鉾板を持って行き、置いて海に入るのです。帰る時に名札を持って帰らないと、海の中にいる事になってしまうので監視員や町内の方に迷惑を掛ける事になります。私もその海で泳いだのは、数年ですが海水浴場に行くより楽しかったです。漁港なので、数メートルの深さがあり、潜って底の物を取りに行ったり漁港内の対面側迄泳いで行ったり、泊めてある漁船の上から飛び込んだりと遊びが一杯でした。その分危険も多かったのですが、泳いでいる時に漁船が出入りする事もあります。漁船の下を潜るような遊びもしていました。それでそこでは泳がなくなったのだと思いますが、子どもながらに海の怖さは感じていました、漁港外には絶対に出ないという事です。内港と比べて外港の流れの速さは見ても分るほどでした。絶対に泳げないなと思いました。2010年2011年と、私は殆ど練習もせずに愛媛マラソンに出て完走しました。2回目の時などは、本当に何もせずに出場しましたが、完走出来ました。それは10代20代で身体を鍛えていた貯金かなと思っています。自転車も高校生の時は多い日は1日50キロ以上乗っていました。トライアスロンも出来るのではないかと言われましたが、私は高浜時代の経験から海で泳ぐのは恐ろしかったです。

高浜時代の年長~小学3年頃までにしていた遊びです。私は元々大人しかったのですが、友達に引っ張られるように遊んでいました。大体は3才上から1才下のミツル君までが遊び友達でした。今でもある5丁目の公園で野球や道端で遊ぶのが主でしたが、公園の横の山の中でもよく遊びました。ある時、友達が妹を連れてきていました多分4.5才だったと思います。茂みの中にある農業用の溜池に落ちました。高学年の人がいたので助け出してくれましたが、私達だけの年齢の子どもだったらと、今考えてもゾッとします。でもそんな遊びをしていました。高浜5丁目から大山寺に登るルートがあります。細い山道なのですが、大山寺までは遊び場でした。行く途中にも比較的大きな池があり、池の岸でも遊びました。1度、途中の農家の山小屋に忍び込むと芋が沢山あったので、それを岸で焼いて食べました。高学年の人がいるとは言え山の中で火遊びですから危険です。今はマンションが建っている所が長い間工事現場でした。立ち入り禁止にはなっているのですが、巨大な砂場の様な感じでよく遊びに行きました。小学校に入学してからは、危険場所で学校の先生がよく見廻りに来ていましたが、捕まった事は一度や二度ではありません。完全に先生からはマークされていたと思います。一番反省している事は、小学1年の時、同じクラスの友達と、裏山の畑からミカンの木に向かって打ち上げ花火を連射した事です。危ないなと思いながら流されて遊んだのですが、それを同じクラスの女子に見られていて、翌日の学校で先生の言われて相当に怒られました。観光港の桟橋でもよく遊びました。今は完全に立ち入り禁止ですが、当時は緩く入って遊んでも怒られませんでした。タラップとかにジャンケンでしながら昇って行く遊びは、前出の事に比べれば可愛い遊びでした。タラップから落ちると大けがしますが、干潮の時はフェリー乗り場の下に降りて遊ぶ事もありました。楽しかったのは、ハッポースチロールを岸壁で舟の形に削って、海に流していました。舟を流すくらいなら大したことはないのでしょうが、制作過程で発生する。ハッポースチロールが雪のように海に流れていきます。その時は知らない大人の方に怒られました。岸壁で遊んでいた事よりも、海を汚した事を怒られた記憶です。小学2年にしては思い切った小旅行もしました。小学生ですから、保護者なしの校区外へ出かける事は禁止でした。ミツル君と小5の名前は忘れましたがN君にしておきましょう。3人で大山寺に登り高浜とは反対側に降りて、三津浜に歩いて行きました。三津浜も港町で高浜と同じように気性の荒そうな感じでした。小学生3人で三津浜を歩いていると、三津浜の小学生3人に絡まれました。こちらより、学年が一つずつ上の小6・小3・小2でした。ミツル君と私は困った事になったと思いましたが、N君が相手の小6に先制攻撃を仕掛けてその隙に走って逃げました。この時は親には分からなかったのですが、次の小旅行は当時の私にとっては大冒険でした。この3人で高浜から三越まで自転車で行きました。N君が先導してくれてついて行ったのですが、非常に疲れました。三越に着いてそれから、週末に行っている喜与町の伯父の家に行きました。私とミツル君はバス代を貰いバスで帰りましたが、N君は自転車で帰ると言って一人で帰りました。当然、親には相当怒られましたが、堪えられなかったのはそれから自転車の無い生活が続いた事です。そんな事ばかりしていましたから、勉強は全く出来ませんでした。夏休みの宿題等も、最初は頑張ってやって早めに終わらせようとするのですが、本当に三日坊主で、最後の二日間でなぜか夏休みの最後には家にいる父親に頭を殴られながら泣きながら宿題をこなしていました。そういう事があるので父親は怖い存在でした。

この当時無実の罪で怒られた事があります。やはりクラスの女の子に担任の先生に、私と花火をしていた友達と上級生で、他のクラスの子を虐めていたと言うものでした。私には全く身に覚えがありませんでした。上級生の一人が私の事をこんな奴いたか?と言ってくれましたが、いつの間にか私が最初に虐めをした事になっていました。私は当初軽く考えていました。虐めをしたと言う日は、私は一人で家に帰っておりその場所にはいなかったはずなのに、いつの間にか主犯が私になっているのです。誰かが真実を言ってくれると思っていましたが誰もが私に罪を被せてきました。私がここで学んだ事は、そういう友達と遊んでいるとこんなことに巻き込まれてしまう事もあるのだという事でした。

そうしているうちに3年生の夏休みになり、前に書いた母の実家である現宇和島市吉田町に引っ越す時が近づいて来ました。前話の最後に書きましたが、母はタイピストと言う職業を活かせる松山で生活するか、他の職に就かなければなりませんが、実母のいる吉田町に戻るかの選択で吉田町に戻る事を選択しましたが、母親に後で言われた事は、あのまま松山で生活していると、あなたがどんな成長をして行くのかが怖かったので、吉田町に戻ったとも言われました。松山でも住んだ場所によるでしょうが、母の選択は正しかったと思います。但し、私は高浜が好きでしたし、高浜の友達が好きだったので、夏休みなどの長期の休みになると高浜の祖父母の家に行って小学生の間は過ごす事が多かったです。

私たちの高浜での生活は5年程でしたが、母には高浜での良い思い出がなく、将来松山に住むことがあっても高浜には戻りたくないと語っていました。松山市卸売市場に勤めていた頃も、家に帰るのが嫌だったようですが、子ども三人の顔を見ると辛抱しなければと思ったそうです。

(続く)