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#4 「子ども時代(将棋と吉田町)」

2020.9.7 更新

児島有一郎

当時の吉田小学校は1学年3クラスで、高浜小学校と同じ規模でした。転校して吉田町の子どもは金持ちが多いなと思ったのは、公園で遊んだ後、みんながケーキ食べに行こうと言うのです。何てオシャレで金持ち何だと思ってついていくと駄菓子屋さんでアイスキャンデーを買うのです。吉田町の子ども達はアイスキャンデーの事をケーキと呼んでいた事に衝撃を受けました。友達は南予気質のおとなしい真面目な子どもが多かったです。

ここで少し学校の勉強の話をします。高浜小学校時代は勉強という事をした記憶がない程でした。やってない事が出来るはずもなく成績は悪かったです。転校した当初、九九を間違えて女子に馬鹿にされた記憶があります。私の成績が上がったのは、小学4年の時に社会科の授業で歴史が始まってからです。小学校に上がる頃から私は歴史が好きで戦国時代の本を何度の繰り返し読んでいたので、歴史には興味がありました。興味があると自然と勉強するので成績が上がります。社会科全般が出来るようになり、自然と他教科の成績も上がっていきました。5年生の頃、九九が出来なくて私を馬鹿にした女子に、松山にいた頃は成績が悪かったと話すと、私の成績で悪い小学校ってどれだけ優秀な学校なのと言われ、私が九九を出来なかった事は忘れられていました。6年の時には生涯で1回のみですが学級委員長もしました。

ここからは将棋の話に戻ります。4年生になった頃私が住んで居た吉田町裡町1区の公民館で将棋指す事になり、吉田町内の人が集まって週に何度か将棋を指すようになりました。それを決める集会で、祖母(中村豊子)が孫は将棋が出来ると言って帰って来た為に私は学校から帰ると、家から歩いて1分ほどの公民館に将棋を指しに行くようになりました。大人の人には全く歯が立ちませんでしたが、私は毎日の様に公民館に通いました。私の相手をしてくれたのは、大人の中では一番弱かった武内さんと言うお爺さんでした。武内さんに勝てるようになるにも2年程掛かりました。この頃はとにかく武内さんと指すだけでした。詰将棋などの存在も知りませんでした。後年、将棋の指導をするようになって指しているだけでは強くならないとしているのは、この頃の経験が大きいです。小学4年の1月頃だったと思います。学校で町内将棋大会が開催されると聞きました。出場するレベルではないだろうが、見に行ってみたらと先生に言われたのですが私は参加しました。全敗でしたが子どもの参加に大人の方も喜んでくれて、お菓子やジュースを貰ったりしました。また、昼食が出前のカツ丼だったのですが、私は生まれて初めて食べるカツ丼の美味しさに衝撃を受けました。それまで丼物と言えば親子丼しか食べた事はありませんでした。今でも将棋センターで出前を取る時は、カツ丼が多いです。そうこうしている内に、小学校でも将棋ブームが始まっていました。同級生ではあまり負ける事はなかったですが、宮本君という子と良い勝負でした。1学年上に中井さんと言う方がおり、中井さんの家にも将棋を指しに行きましたが、私より強かったです。中井さんは当時から勉強が出来ると評判でした。宇和島東から東大に進まれたので本当に頭が良かったのだと思います。町内の大会に参加して1年が経ちまた大会に参加しましたが、またしても全敗でした。そういう意味では私は将棋の才能はないのでしょう。丁度その頃、私の将棋好きに半ば呆れていた、母がこの子の将棋レベルはどのくらいなのかと思ったようで、将棋教室を調べてくれて、春休みに将棋教室に連れて行ってもらえる事になりました。6年生になる春休みに松山市の花園町にあった、元奨励会三段の松田幹雄さんが経営していた松山将棋教室に行きました。数局指して6級と言う認定でした。当時の私は6級でがっかりしていましたが、今考えると、松山将棋教室と松山将棋センターの道場棋力は同じ位の認定なので、初めて将棋教室にきて6級だとかなり強いレベルだったと思いますが、比較するものがないので仕方なかったのでしょう。次に松山将棋教室に行くのはそれから1年後になります。6年生になった頃、公民館ではやっと武内さんに勝てるようになりました。松山将棋教室で言われたのは、将棋世界(将棋雑誌)を読みなさいという事と、詰将棋を解きなさいと言われましたが、今考えると6級レベルに将棋世界は難しすぎます。詰将棋も私が推奨している浦野先生のハンドブックの様な本はなく、加藤一二三の詰将棋を購入しましたが最初の数問しか解けませんでした。あとはNHK杯を見るようになりましたが、序盤で何故あれほど考えるかが理解できませんでした。松山将棋教室に行ってから1年後の春休みに再度、将棋教室に行きました。この時は私と同じ位の子どもがいてその子達と指したのですが、一人はその年の小学生の県大会で準優勝したという私と同い年の大野君という子でしたが、何とか私が勝つことが出来ました。次の相手は、現在まで交友関係の続いている市川栄樹君との対局でしたが、二枚落ち指してと言われて私が飛車角を落とすと、逆だと言われて二枚落ちで負けました。市川君は私より1学年上ですがその時に初段で指していました。市川君はその時から私の大きな壁であり目標でした。差数年前から年に一度は市川君飲みに行って昔の話をするのですが、私が忘れていた発見等が多く楽しい飲み会です。話していて分かった事は、初めて将棋教室に行ったのは私の方が早かったようです。初めて会ったときは市川君は入門して数か月ですが初段でした。その時の私の棋力認定は5級でした。1年で1級しか上達してない事になります。しかも1日で正確な棋力も分るはずがないので、昨年6級だから1級上げておこうという配慮だったと思われます。しかし、この時は小学生の県大会準優勝に勝ったという事でそれなりの自信にはなりました。また、その時に宇和島市の将棋道場を紹介されました。中学に入ってから和霊神社の公園の横にあった大高信次さんが経営していた将棋道場(大高商店内)に一人で行きました。松山の将棋教室に連れて行ってくれた母は、煙草の煙で視界がぼやける程で、薄暗い場所で待っているのも嫌だったと言ってましたが、将棋教室は私にはそう思えませんでした。しかし、宇和島の大高道場は、その私が暗い雰囲気だと思う程でした。席主の大高さんは宇和島市を代表する指し手(県大会ベスト4進出くらいの実力)でした。一局指してもらい、次はお客さんと対局しましたが、対局前に大高さんが相手の方に、「賭けは、なしだよ」と言ってから対局が始まりました。中学生相手にそんな前置きをするので何か凄い所に来てしまった気分でした。大高道場は2、3回しか行かなかったと思います。中学生になり最初のゴールデンウィークに松山将棋教室に行きました。一番驚いた事は市川君の名札が三段になっていた事です。私の対局相手は、市川君と共に中学時代の将棋仲間となる清水君(清水一郎)と髙岡君(髙岡哲也)との出会いでした。二人とも市川君の城東中学の同級生でした。この時は清水君とは互角位でしたが、成績よりも同世代の人と将棋が指せる事が楽しかったです。級も3級を認定してもらい1年で1級しか上がらなかったのに、1ケ月程で2級昇級した事になりました。多分年齢的に局面の読解力が上がったのだと思います。それから1ケ月後にまた、松山将棋教室に行くのですがそれは、第1回中学選抜選手権の愛媛県大会に出場する為でした。同世代の大会には初めての出場だったので緊張していました。4人リーグ後に決勝トーナメントでした。予選1回戦は市川君で負けましたが、その後2連勝で予選を通過し決勝トーナメントで1回勝ちベスト8でまた市川君と当たりました。そこで負けましたがベスト8は5位という事で入賞になりました。清水君はトーナメントの1回戦で市川君と当たり敗れました。その大会は市川君の優勝でした。やはり市川君が頭一つ二つ抜けている感じでした。私は県大会で入賞した事で、自信にもなりましたが、強くなるには将棋教室に通わなければならないと思うようになってきました。しかし、次号で書きますが、父親と別居して実家の吉田町で母の収入だけの暮らしは、松山に将棋指しに来る事すら大変な家庭環境だったのです。しかし、私の将棋に対する情熱も並ではなかったと思っています。但しその事が将棋の棋力と必ずしも合致はしないという事も事実でした。今考えると勉強法等教えてくれる人もなく練習と言えば将棋を指すという事しかなかったのです。しかし、この頃には、弱かったので言えませんでしたが、密かに将棋のプロを目指したいという気持ちは間違いなくあったと思います。全校部活制の吉田中学校で、1年の時から部活に入部しなかったのは私くらいではなかったでしょうか。部活するよりは帰って将棋をしなければと思っていました。

(続く)