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#5 「子ども時代(吉田町)」

2020.11.9 更新

児島有一郎

小学3年の2学期から、吉田町(現宇和島市吉田町)に引っ越してからの我が家の生活(母の苦労)大変なものだったと思います。母は、年子の兄弟3人を連れて吉田に帰りましたが、父親からの慰謝料養育費は一切なし、実際は子どもが成人するまでは離婚しないつもりで帰っていたので籍は入っていましたが、生活は子どもの私が感じる程困窮していたと思います。子どもが成人するまでは、離婚しない予定でしたが、私が中学1年の時に離婚する事になります。原因は子ども3人を母親が養育しているのに、当時の3人目から支給される月5000円の児童手当を、離婚していない為に父親が受け取り、母には1度も渡された事がなかったと言うのです。今と違い3人の子どもがいて月5000円、今で言えば1万円程度だと思いますが、母にはそれも大切なお金でした。私からみれば本当に酷い父親だったと思います。(今から十数年前に父の妹さんにその話をすると父は、新築の家に住んで生活は派手でしたが、私達以上にお金に困っていたのだと聞きました。自業自得なのですが。)母親の前向きな考え方と親戚の援助、特に基三郎伯父さんの援助がなければ、高校も行けてなかったと思います。最近はコロナで開催出来ていませんが、私が将棋センター移転後に数か月に1度、子ども大人食堂(カレーを無料食べて帰ってもらう)を開催している理由はこういう所にもあります。

小学4年の時に衝撃的な事実が分かります。今でも小学4年の生徒を見ると、私もこの子ども達の年齢にこんな事があったのかと思い返してしまいます。4年の夏休みに私は、元々住んで居た高浜5丁目の祖父母の家に遊びに行っていました。高浜での友達は仲が良く高浜は吉田に帰ってからも私は好きな場所(母は二度と戻りたくないところだと言ってます)でした。祖父母の家に父が夜、突然やって来て家に来いと言ってついて行くと、そこは新築の家で見た事があるような女の人と、父親の事をお父さんと呼ぶ3才位の子どもが居ました。私は状況を受け入れる事が出来ずにその日はそこに泊まりました。吉田に帰ってから、母にその事を話し落ち着いて考えるとおかしな事に色々と気づきました。吉田で我慢していれば迎えに行くと言う父親の言葉は嘘だったのだという事です。年を取ってから考えれば、父親としてはそういうしかなかったのかと理解する事も出来ましたが、長い間、父が守る気のない言葉を口にした事を責めていました。学校が夏休み等になると、私は必ず高浜に行っていました。すると父が迎えに来て家に来いと言うのです。私は父親の家に行くことが嫌でした。5年生の時の夏休みも嫌々ついて行きましたが、6年の時に初めて行くのが嫌だと断り、付いて行きませんでした。その事を母に言うと母の反応は私の想像と全く違うものでした。私が父の家に行く事が嫌な理由は、私たちの家庭を壊した女がいる所に行く事が嫌だったという事なのですが、普通は母親もそう考えそうなものだと思います。私が父の家に行かなくて母が安堵するかと思いましたが、母は、日頃何もしてないのだから、会った時くらいは父親から小遣いでも貰ってきなさいと言うのです。今、思うとその気丈さがあるから、女で一つ子ども3人を育てる事が出来たのだと思います。

吉田町に帰った当初、母は給食センターに勤めていました。しかし、数ヵ月で辞めました。理由は子ども3人が、よく病気をした事にあります。特に私は熱が良く出ました。小学校に上がる前後には39℃以上の熱を出した事が何度もありますし熱に弱く(平熱が低い)37℃近くになると学校に行くのがしんどかったです。高浜に住んで居た頃は夜中に熱が出るとタクシーで10キロ以上は離れている道後の柳井小児科に行っていた記憶があります。私の記憶では柳井先生は野口英世の様な風貌だった記憶です。なぜ、高浜からそんな遠い病院に行くのかもよくわかっていませんでしたが、前に書いた3才まで道後公園の中に住んでいたのでその頃に通っていた病院に高浜から通っていたようです。吉田町に帰ってからも高熱を出す事が良くありましたが、病院に行った記憶はあまりありません。高浜にいた頃は、夜中にタクシーで行っていたという事があって覚えているのでしょう。兄弟3人いると1人が熱を出すと順番に移って行きます。家には祖母がいましたが高熱出ると、母が仕事を休む事になり給食センターは家からも遠かったという事もあり辞めたのだと思います。それから母が勤めたのは、家の数軒隣の三瀬商店という、卵の卸等をしている会社でした。家から近いので子どもに何かあった時に、様子を見に帰れるという事が良かったようですが、給料は日給月給で安かったようです。私が高校3年の時(1985年頃)で月給は9万円前後だったと思います。私が大学1年の時(1986年)にアルバイトしていた、松山のコンビニ(地元のコンビニで松山市に12店舗程あったCVS・NO1)の時給が400円で当時の最低賃金でした。今の愛媛県の最低賃金が800円程ですから、今の18万円程で家族4人が生活していたことになります。家賃はいらなかったとはいえ大変だったと思います、当時は今ほど社会保障も手厚くなく母子家庭でも医療費は掛かっていました。学費も無料ではありません。高校の学費は1人が月1万円でした。私が高校3年の時は3人が高校ですから母の給料の3分の1が学費で消える事になります。その他の費用も掛かる訳ですから母の給料では足りるはずがありません。私が本当によく生活できたなと実感したのは大学に入って自分で生活するようになってからです。私のアルバイト代が月8万円程でした。そこから学費を払っていましたが1人で生活するのも大変でした。それよりも少し多いくらいの収入で4人が生活してきたのです。私が小学生の頃はもっと少なかったはずです。母はいつもお金の心配をしていた記憶があります。祖母に借りたり、近所の小学生の時からの幼馴染の友人(山本さん)に借りに行ったりしていました。そんな姿を見ていました。それでも母は元々が明るい性格で弱音を吐くタイプではなかったのですが、一度だけ近所のスーパーから帰って来てから泣きながらスーパーに電話をしていました。どうも買い物して少しお金が足りなかった事で、店員の方に嫌味を言われた様な話でした。

小学5.6年の頃の母の仕事についての記憶です。その日はいつものように近所の公民館で将棋を指していましたが、その時は同級生が数人来ていました。そこに三瀬商店へ飼料か何かを持ってきた大型トラックが公民館の前に停まりました。運転手の人が私たちに声を掛けてきて、荷物を下ろすのを手伝ってくれたら一人に100円(近所に駄菓子屋さんでソフトクリーム100円、お好み焼きの素焼きが200円でした)づつくれると言うので、みんなで手伝いました。かなりハードな仕事で1時間近く掛かった様に思いますが、私は母がこういう仕事もしているのかなと思いました。それから私は、母にお金の事を言う事が出来なくなってしまったのです。

6年の時です。休み時間に教室で同級生と遊んでいて、私が机を動かした際に縦笛が落ちて折れてしまいました。みんなが私に弁償しないといけないなと言ってきました。今であればそれは遊んでいたみんなの責任だとかいろんな事が言えなくもないのですが、当時は机を動かしたのは私ですから私の責任かと思いました。縦笛の値段は600円でしたが、私は家に帰ってからも母に学校での事も、600円の事も話す事が出来ませんでした。翌朝、学校に行く時間になっても私は話すことが出来ませんでしたが、私が余程落ち込んだ様子だったのかも知れませんが、家を出る直前になって母が私に何か困った事があるのかと聞いてくれました。私が前日の事を話すと600円出してくれました。私はこの日の事を忘れる事はないと思います。また、この事を通して思うことは、子どもがしている事や子どもの気持ちを理解していない事で起こっている事件や事故等についても、なぜそう言う事が起こるのかと考えさせられますし、将棋教室に通ってくれている子ども達にも、日頃と違う様子等は注意深く気にしていかなければと思って接するようには心がけています。私が松山将棋センターで将棋教室を開設した際、月謝を週1回が小学生~高校生が3000円(現3500円)、毎日コース(月~土)で5000円(現6000円)で始めた時に安いのではとか、値上げしたらとか友人や保護者の方からも言われましたがこの単価で続けている理由は、私も家庭の事情から習い事を殆どした事がなかったので、少しでも学び易い環境でと思って決めている価格なのです。

(続く)