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#6 「中学生の頃(吉田町から松山へ)」

2020.11.30 更新

児島有一郎

中学1年の夏休みになり、私の将棋熱は過熱して行きました。夏休み中は松山の親戚の家を転々としながら松山将棋教室に通いました。やはり同世代の将棋友達がいる事が楽しかったのです。私が中学2年頃の棋友の年齢と棋力です。棋力は少し誤差があると思いますが紹介します。前に書いた市川栄樹君(三段)は同世代では、頭一つ抜けた存在で目標した。市川君の同級生の清水一郎君(初段)は、棋力は私と同じ位でライバル的な存在でした。将棋は天才肌で筋悪将棋の私とは違っていました。中学2年の夏休みが終わって(清水君は中3)急に強くなって勝てなくなりました。清水君は夏休みに将棋年鑑1冊(約500局)の棋譜並べをしたと教えてくれました。もう一人仲の良かったのが市川君の同級生で、私の中学生活において大変お世話になった髙岡哲哉君(2級)で4人が将棋を指す事が多かったです。2つ上ですが将棋も強く性格が明るく運動神経抜群だった山口公文さん(二段)、当時の愛称はヤマコウで年下の私たちがそう呼んでいましたが、山口さんは同級生の間では山さんと呼ばれる存在でした。年下の私がヤマコウでは失礼だとわかり途中から山口さんになりました。山口さんも高校2年(松山北)の時、県の高校選手権で優勝しています。ゴンちゃんと呼んでいた近藤君(初段)も2つ上で、当時は私が身近にいた存在の中で一番頭が良いと思う存在でした。明日までに元素記号の周期表を全部覚えてくると言って翌日全て暗記していた事に私は驚きました。中3の時には勉強を教えてもらい報酬に将棋の本を渡していました。同い年だった明比君(初段位)、1学年下の大塚正輝君と小野岳久君も初・二段位でした。大塚君と明比君は良く勉強の話をしていました。どちらも勉強は得意そうでしたが、1学年下の大塚君が明比君以上に出来るのに内心驚いて1ました。大塚君は高校から愛光に行って大学は東大に行くとその頃から言っていましたが、その通りの進路になりました。明比君も松山東高から東京外国語大学だったと思います。他にも年下で大阪に引っ越した飯尾君がいて初段位でしたが将棋の評価が高かったです。吉田町でお爺さんと達と指してばかりいたので新鮮さを感じました。

私の棋力も小5の終わりが6級で中1になる頃が5級で1級昇級に1年も掛ったのですが、中学1年の夏休みの終わりには2級になっていました。これは物事の読解力が増した事が大きな要因だったとは思います。その頃から私は吉田町にいては、プロ棋士にはなれないと思うようになり母親に松山に行きたいと言うようになりました。松山に行くと言う意味は、再婚して別の家庭を持っている父親の所に行くという事で、私も喜んで行きたい訳ではありませんが、松山将棋教室に通うには仕方のない選択でした。当然、母は反対します。母は、基三郎伯父相談しました。伯父は伯母と相談して私を引き取る事も考えてくれたようですが、伯母の負担がやはり大きいと言う事で1ケ月に吉田・松山の交通費として2万円渡すから月2回松山に通うという事にしなさいと言われました。母子家庭だった母には、それも無理だったので本当にありがたい申し出で伯父には感謝しきれない事なのですが。当時の吉田・松山間のJR(当時はまだ国鉄でした)は、特急は宇和島・松山間は止まらなかったので急行で通う事になりました。急行は吉田松山間が2時間で料金は4200円位でした。普通列車だと料金は半額ですが5時間程掛かっていました。今は特急で1時間10分、料金は3400円なので、JR列車の運賃は安くなっているという事ですね。土曜日の午後学校が終わってから急行に乗り、16時頃松山に着きJR松山駅近くの、松山将棋教室に行き伯父の家に泊めてもらい日曜日に1日将棋を指して帰る生活になりました。帰りの列車は16時半、17時半、19時過ぎで、遅くまで将棋は指したいのですが、19時で帰ると翌日の学校が堪えました。

そんな生活が数か月続きました。棋力の方は中学1年の2月に初段になりました。松山将棋教室の昇級昇段の基準は、昇段級リーグと言うものがあり成績が壁に張り出されています。そこで一定の成績を上げると元奨励会三段の松田幹雄先生と対局して手合い戦で三連勝か連勝すると昇段級するという規定だったと思います。かなり厳しいものだと思います。初段は二枚落ちでした。今考えると当時の私の棋力で良く二枚落ちを勝てたなと思いますが、対局の前に将棋大観を読んで定跡の勉強をした記憶があるので、ある程度定跡を覚えると緩めてくれていたのかもしれません。多分昇段した日だと思いますが、その日に私は初めて棋譜ノートを買いました。買った記念に市川君が対局して棋譜を付けようと言ってくれて清水君が記録係で棋譜を取ってくれました。市川君は三段でしたがそれまで一度も平手で勝った事がなかったのですが、その対局で初めて市川君に勝ちました。その棋譜が残っているので初段になった日が分るのです。内容は何度見ても酷い将棋で、私が無理攻めを通すのですが、当時から私は筋の悪い将棋と言われていました。私はどうして筋悪なのかがわかっていませんでしたが、(例えば駒がぶつかると必ず取るとか、自分の駒の前に駒を打ち込む等です)これは田舎でお爺ちゃん達と指し捲っていた弊害だと思います。しかし、目標にしていた市川君に初めて勝てたのは本当に嬉しかったです。

中学2年となり、5月のGWに市川君、清水君の3人で大阪で開かれる第6回デイリースポーツ杯争奪青少年将棋大会に参加する事になりました。私にとって初めての対外試合の様なものです。子ども3人が5月1日の22時発の高浜観光港から関西汽船に乗り大阪に向かいました。瀬戸大橋のない当時は、大阪への移動手段は船しかないのでGWは物凄い混雑していて、寝る場所もない程でした。貸し毛布を借りて通路に敷き詰めて寝る場所を確保しました。将棋を指せる場所を見つけて対局しました。大阪には朝5時か6時位に着きます。そこからJR環状線の弁天町までは連絡バスで移動でしたが、乗る人が多くてバスに乗り切れず結構な距離を弁天町の駅まで歩いた記憶があります。多分1時間近くだったと思います。今のようにニュートラムない時代でした。その日は初めて関西将棋会館に行き将棋を指しました。私は夕方将棋会館に、大阪の放出に住む咲子伯母さん(母の姉)に迎えに来てもらい伯母の家に泊めてもらいました。市川君と清水君はホテルに泊まったと思います。3日の大会は森ノ宮にあった府立青少年会館で開催されました。残っている新聞記事を見ると小・中・高生で103人の参加になっています。中学の優勝は6戦全勝になっているので50人程参加していたと思われます。私はこの時の記憶があまり残ってないのですが、市川君が準優勝しました。やはり市川君は強かったのです。市川君の将棋は渋い受け将棋でした。と金や成駒を自陣に引き付けてくるような独特な手厚さのある将棋で勝つ時は圧勝でした。この大会で私も3勝をしてベスト8で入賞しているのですが、市川君の準優勝もあり、喜んだ記憶はありません。ただ自分の将棋がある程度大阪でも通用するのだと思った事は覚えています。この大会以降、私の将棋熱はより一層に高まって行きます。

6月に第2回全国中学選抜選手権愛媛県大会が開催されました。優勝候補は市川君でした。もう一人松山将棋教室に通っている人ではなかったのですが青野君と言う中学3年生がいました。別の大会で市川君を倒した事があるので強かったと思います。私の予選リーグは、清水君と髙岡君が一緒でした。私はその頃、清水君が苦手でした。練習でも相当負けていました。市川君より勝てていなかったと思います。清水君は市川君に殆ど勝てなかったと思います。私の将棋は筋の悪い攻め将棋でした。受けに難点があったので、清水君の鋭い攻めに合うと潰されていました。市川君は受け将棋なので私が攻める事が出来るのですが、私の筋悪い攻めが市川君に合わなかったようです。逆に鋭い攻め筋の清水君は市川君に読み易かったのでしょう。予選で私は清水君に負けて2勝1敗の通過でした。市川君も予選で敗れました確か青野君だったと思います。決勝トーナメントは不思議な抽選で、2連勝同士の山と、2勝1敗の山で分けるトーナメントでした。準決勝で私と市川君が当たり、中飛車を得意としていた市川君に私も得意の居飛車穴熊で勝ちました。優勝候補を倒したので勢いに乗って決勝も勝ちたいと思いましたが、決勝は苦手な清水君でした。清水君は市川君負けてラッキーと思ったそうです。決勝の棋譜は残しているのですが、清水君の四間飛車美濃囲いに、私が居飛車穴熊に組み優勢になりますが、清水君の攻めを受け間違えて逆転負けを喫してしまいます。この時ほど悔しかった事はありません。優勝以外は意味がないと感じました。この大会以降は私の決勝戦の勝率は自分の中では10割近くになりました。私は、この大会以降決勝戦で負けた記憶が1度しかなかったですが、10年ほど前に賞状の整理をしました。優勝の賞状は50枚以上ありましたが、準優勝の賞状が11枚出てきた事に驚きました。単に決勝で負けた記憶を消去していただけだったのです。

(続く)