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#7 「中学生の頃(吉田町から松山へ)2」

2020.12.27 更新

児島有一郎

準優勝でしたが全国中学選抜選手権大会愛媛県大会の準優勝は、私には自信になりました。その事が私に松山に出て行きたいと言う気持ちは強くさせました。しかし、父親の再婚先の家庭に入るという事にも大きな不安がありました。母とその事で口論になり、木曜日になると学校を休んで松山に行く事が5月末~7月迄の間に3回ありました。木曜に揉めていたので計画的犯行だったとは思います。木曜に松山将棋教室に行き伯父の家に行くと怒られるので、髙岡君の家に泊めてもらっていました。髙岡君のお母さんには学校が休みだとか言っていましたが、多分わかっていたと思います。髙岡君の家も母子家庭で、お母さんは今も三番町に看板があるクラブムーンに勤めていました。髙岡君はクラブムーンの前にあったアパートに住んでいました。今は駐車場かマンションになっている所ですが、飲みに行った時にその前を歩くと懐かしく思います。私が覚えているのは、朝ご飯に、髙岡君のお母さんからお金をもらって八坂通りにあったマンションの1Fの「草笛」と言う喫茶店でモーニング食べさせてもらいました。そのパンが黒パントーストで初めて食べる味で非常に美味しかった記憶があります。髙岡君の家に2泊させてもらい土曜の夜になると伯父の家に行きました。学校を休む時は罪悪感がありました。こんな事をしていて良いのだろうかと言う気持ちはありました。しかし、他に母を説得する方法と松山で将棋をしたいと言う気持ちが勝っていました。そんな事を3度繰り返すと母親が折れて自分の好きなようにしなさいと言ってくれました。しかし、自分の中には、本当に松山に行って大丈夫なのかと言う気持ちもありました。母が松山行きを承諾してくれてから松山に行く話をしなくなりました。そうしていると夏休みになり、昨年と同様に松山の親戚の家に行き松山将棋教室に通うようになりました。この夏休みの最大のイベントは8月のお盆の頃だったと思いますが、大阪の近鉄将棋祭りの中学生大会(現在の中学生王将戦)に参加する事でした。前回の大阪行きと同様に市川君、清水君、私の3人で松山観光港からフェリーで大阪へ行きました。この時は3人とも大混雑のフェリーの中では寝られないと思い乗船すると貸し毛布多めに借り甲板に敷き詰めて将棋を指しながらその場所に寝ました。大阪に着く関西将棋会館で将棋を指してその日は、私は放出の伯母の家に泊めてもらい翌朝、開店前の近鉄百貨店に連れて行ってもらい市川君達と合流しました。

近鉄将棋祭りの熱気は私が想像している以上の物でした。将棋大会の参加は先着100名位と書かれていたのですが、開店前に百貨店の入り口並んでいる人だけでそれ以上の人数がいました。10時の開店と同時に最上階で開催されていたので、エレベーターには乗らず階段を駆け上がって行きましたが、受付には長蛇の列でした。なぜと思いましたが、慣れている人は開店前に外エレベーターで屋上まで上がれることを知っていたようです。屋上から1階降りるだけですから早く着けます。参加できるか不安でしたが、並んでいる人は全員受付しますからと言われ安心した事を覚えています。参加者は400人以上いました。そんな将棋大会に出た事もないので、雰囲気に圧倒され周りにいる人、全員が自分より強く見えてしまいました。対戦方法は、受付の方が名前と番号を呼び同星同士で組み合わせて合わせて行く方式です。清水君が2回戦か3回戦で敗れました。一発トーナメントなので負けると終わりです。プロの席上対局やプロに挑戦などの企画も開催していましたが人数が多く参加や、観戦する状況ではありませんでした。私と市川君は勝ち進み市川君が5回戦ベスト16、私は6回戦ベスト8で(大阪の八剣君?)と言う人に負けました。優勝はプロになっている阿部隆さんでした。当時の私の棋力からは考えられない結果だったと思えます。どちらかと言うと本番に強いタイプだったのかもしれません。高校生の頃から心がけていた事は、ここ一番になると勝ちたいと思わず、良い内容の将棋を指そうと心がけていた事です。先輩達の決勝戦を見る度に、ギャラリーに囲まれて対局する姿は格好良いと思っていましたが、その時に不様な将棋だと恥ずかしいだろうなとも考えていました。勝つ事も大事ですが勝とうと思うと固くなって良い将棋が指せなくなると考えていました。自分らしい攻め将棋が指せる事を心掛けるように考えていました。

話は前後しますが、小学4年の時に初めて参加して全敗した吉田町の新春将棋大会ですが、5年生の時も全敗でした。6年生の時はいつも指しているお爺さんの武内さんに勝っての初勝利のみ、中学1年で松山に月2回練習に行くようになり、多分1級くらいで出場した大会で3位に入賞しました。この大会が将棋大会での入賞は初めてで、学校の行事を含めても賞状と盾をもらった事が初めてだったと思います。吉田町の大会はこれが最後の出場になりました。私は高校の時に吉田町に帰るのですがその時は、この大会はなくなっていました。理由は私が入賞した翌年から吉田町外から腕自慢の方が参加し始め賞品をすべて持って帰られるようになり開催中止になったと言われました。吉田町外の方は参加禁止等にして存続させることは出来なかったのかと残念に思います。

話は戻りますが、近鉄将棋祭りの大会が終わり8月20日過ぎだったと思います。夏休みも終わりに近づいたので松山から吉田町に帰りました。私は松山行きの事は正直自分の中で悩んでいました。数日してから母が松山どうするのと聞いてきたので、私は2学期から行くと答えました。自分で100%決めていた訳ではないのですが母と1学期中にあれ程揉めて、ここで行かないでは情けないのではと思い決めました。急に転校の手続きを始めました。この後私が松山に行った事に寄って色々な方にご迷惑を掛ける事になってしまいますが、母の心情はどうだったのかは測り知れません。私達の家庭を壊して、3人の子どもを育てる母に1円の仕送りもせず、松山で新築の家に住んで居る父の元に子どもを行かせる事をどう考えたのか、1人くらい見てもらっても良いと考えたかも知れませんが、母の性格を考えると悔しい気持ちの方が強かったのではないかと思います。私が松山に行く日に駅まで母と祖母が送ってくれましたが口数は少なかったです。何を話したかも覚えていませんが、電車に乗り私は4人掛けの窓側に座りましたが、涙がボロボロ出るのです。何か間違った選択をしてしまった様な気持ちでした。貧しいながらも母の愛情を感じながら育ててもらっている所から、そうでないところで生活しなければいけなくなるのです。将棋の為とは言え正しい選択ではなかったかも知れません。そんな気持ちで決断した松山行きでした。松山駅に着き当時父が住んで居た、現在の松山西高校の正門近く家に近づいてからは、私はこれからの生活を考えても仕方ないと思い小走りに父の家に行きました。最初の数日間は私も新しい鴨川中学に馴染めるか考える事があり、父の家でもお客さん状態だったので特に問題なく暮らしていました。父の家で初めて実家との違いを感じた事は、朝食がない日があった事です。母は食事とか生活についてはきちんとしていて、寝坊する等もほとんどありませんでした。朝ご飯を食べずに学校に行くという事は、小学入学以降私の記憶では一度もなかったのですが、父の家では、寝坊等で朝食を食べる時間が無く、1食位食べなくても大丈夫だと言われて学校に行く日もありました。当時、父も勤めていた松山市役所を44才で退職(事情があったようです)して健康食品の営業を始めていました。帰ってくるのは夜遅くなので、私は他人と過ごす時間が長くなります。腹違いの弟はいますが、その弟が原因で私達の家庭が壊れたかと考えると弟と思えるどころか腹立たしくなってきます。そんなことは承知で吉田町から出て来ているのに、父と一緒に暮らし始めてみると、どうしてもその部分が自分中で消化できないのです。私は家にいる時は、部屋に閉じこもって将棋の勉強や興味のあった筋トレ(腕立てと腹筋)をするようになっていきました。学校の友達関係は少し悪そうな友達と付き合うようになり、家に泊めたりするようになりました。父にはそんな友達と付き合うなと注意されたりもしましたが、私は故意にそんな事をしていたと思います。父にも私の交友関係を注意され家での居心地も悪くなり学校も休みがちになりました。そんな時も将棋教室に行けば良いと初めは思っていましたが、初めて行く平日の将棋教室は私が想像している場所とは違いました。まず、将棋教室が開くまでの午前中の時間を潰す場所が、中学生には難しかったのです。平日の町には子どもが殆どいません、何か浮いた存在なのを感じました。午後になって将棋教室に行くと休日の賑わいなどなく、常連さん2,3人が将棋を指しているだけで私が相手をしてもらう雰囲気でもないのです。夕方になると仕事を終えた方が指しに来ますが日曜の将棋教室に比べると退屈な1日でした。そんな生活ですから学校の勉強は授業について行く事は出来ず成績は急降下して行きました。特に苦手だった英語は授業にも出ないので酷い事になりました。そんな生活をしていて良くグレなかったなと言われますが、最後は将棋が私にブレーキを掛けていてくれたのだと思います。そんな生活なので、その後父が我慢の限界を超えて爆発して私にとっては大きな事件起こります。私は父の家に9月~2月10日まで住みますが、その間に鴨川中学を40日欠席しました。私が将棋教室を始めた当初、加藤寿己君(後述します)等不登校の子ども達を面倒見る事になるのも、この時の経験が大きいと思っています。

(続く)