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#8 「中学生の頃(松山の鴨川中学時代)3」

2021.1.17 更新

児島有一郎

父の家での生活は、自ら希望して来たのですが、自分の中で何をしているのだろうか?これで良かったのか?と考える日々でした。父の新しい奥さんに嫌がらせをされた訳でもなくどちらかと言うと気を遣ってもらっていたとは思うのですが、やはり自分の気持ちの中に父を許せないと言う気持ちが強かったのです。小学3年の時に母と兄弟3人が母の実家の吉田町に戻り、父は新築の家で新しい家庭を持ち、母には1円の仕送りもしなかったという事もありますが、学校帰りに一家団欒している友達の家族を見るとなぜ家には、お父さんがいないのかと考えました。今でこそ母子家庭は多いですが、当時はクラスに1人位の割合でした。母と父の間を裂いた女性とその家族と一緒に楽しく暮らして行くという事に、私には抵抗がありどうしても、その家庭に馴染めませんでした。溶け込んでいくと言う事が出来ませんでした。自ら飛び込んできたのに父からすると困った事だったと思います。食事だけ済ませると1人が部屋で過ごす事が多くなりました。この部屋で出会ったのが生涯のファンとなるビートルズでした。当時、金田一耕助映画の悪霊島のTV予告をしており、ビートルズのLET IT BEが主題歌でしたそれからビートルズにのめり込んで行きました。学校での友人関係は少し悪い友達と付き合うようになり、自分には合ってない交友関係だとはわかっていたものの、父親を困らせると言うか関心を引こうとしてそういう事をしていました。2,3度その友達を家に泊めたのですが、父に交友関係が悪いと怒られました。私に取っての父親は元々怖い存在でした。小さい頃はよく怒られ手も出ていました。しかし、この時の父親はそこまで強く怒りません多分、自分に負い目があったからです。私に対して罪悪感があったのだと思います。それがあるので私に強く怒る事が出来ないのです。私と父の家庭の溝は深くなるばかりでした。鴨川中の時も父と衝突すると、学校を数日休む事が続きました。また、父親も色々な事が大変な時期だったのだと思います。私は自分自身が大変なので父の事など考えてもないですが、年が明けた1月の中頃だったと思います。父に話があると言われ、今の家に住めなくなった。引っ越すけどどうすると言われました。私は心に閉まっていた言葉を絞り出すように「お父さんと一緒ならどこにでも行くけど他の人も一緒は嫌だ」と言いました。父は「そんな事が出来る分けがないだろう!お前は何しにここに来たのだ。うちの家庭を壊しに来たのか」と怒られました。私にすれば先に家庭を壊したのはそちらだろうと思いましたが、それ以上反論する事は出来ませんでした。それを承知で来ているので私が悪いのですが、頭で理解できても身体が理解できないのです。

その頃の出来事です。お正月だったと思います。何かの悪ふざけで父に相撲か柔道を挑んだ事があります。私(多分153㎝で50㌔足らず)は腕力には少し自信があったのですが、持ち上げられてソファーに叩きつけられました。父は身長158㎝で65㌔位でしたが、高校では松山商業の柔道部だったので敵いませんでした。その頃から私は腕立て伏せをよくするようになりました。

父の事ですが、子どもの時は酒を呑むと酒癖が悪く暴れる事がありました。この頃も昨夜どうやって帰って来たか覚えていないと話している事がありました。私には酒で記憶がなくなると言う事が理解できませんでした。

そんな状況の中、私が生涯忘れる事が出来ない事件が起こります。私は自分の部屋に中から手作りの鍵を取り付け、その家の家族との交流をあまりしないようにしていました。父にはそんな事も許せなかったのだと思いますが、私に面と向かって怒る事も出来なかったのです。仕事も松山市役所を辞めて健康食品のセールスをしていましたが上手くいってなかったのだと思います。そんな事もあり住んで居る家を出ないといけなくなったのだと思います。1月末の夜でした。12時近かったと思いますが、部屋の鍵を開けろと父の怒鳴り声が響きました。私が鍵を開けると酔っぱらって右手に模造刀ですが鉄の日本刀を持った父が立っていました。私はゾッとしました。父は、お前は何が気に入らないのだと怒鳴りながら、刀で私の部屋の中のコップ類、窓ガラス、本箱、ハンガーラック等を叩き壊していきました。私は叩かれたら死ぬなと思い涙が出ましたが泣き叫ぶような事はなかったと思います。父の奥さんも止めに入ってくれましたが収まりません。私は殺されることも覚悟しましたが、少しすると父は私を前に座らせて泣きながら私に、「お前は俺が憎いのだろう。この刀で俺を刺し殺せ」と言うのです。私は恐怖と何が何だか分からない気持ちで泣いていましたが、この父を殺して自分の人生が台無しになる事は嫌だと冷静に分析している自分もいました。今思えば父もどうして良いのかわからなくなっていたのだと思います。そうしていると父と仲の良かった三津浜に住んで居た父の従弟の息子さんが駆けつけてくれて父も落ち着きを取り戻しました。翌朝、私は学校に行かず父方の祖父(高浜)の家に行きました。前夜の事を祖父母、叔母に話しました。同情はしてくれましたがそれだけでした。その後、数日間どこで過ごしたかも記憶にないのですが、比較的仲のよかった学校の友人に連絡すると、先生が学校に来いと言っていた。家でも良いから話に来いと言っていると言われ、先生と連絡を取り、夜の8時頃先生の自宅を訪ねました。担任の先生は吉村先生と言う体育教師の25才過ぎで映画好きでさっぱりした方だったと記憶しています。先生の家は県病院近くの室町の「えのき食堂」の2階でした。今もえのき食堂の看板はあり、よく前を通るのでその時の事はよく思い出します。何を言われたかは殆ど記憶にはなく、到底私を説得とか納得させる事ではありませんでした。今考えると、私もこの仕事を始めて不登校の子ども達や、親子の問題のある子ども達と色々話をしてきましたが、やはり当時の経験は生きていると思っています。吉村先生は、とにかく明日の朝学校に来いと言う話でした。制服がないからいけないと言うと私服で良いから来いと言われました。渋々行くと言ったものの流石に、私服で行く事は出来ず、翌日の昼頃家に帰り、偶々、誰もいなかったので制服に着替えて学校に行きました。その日は父の家に帰りました。吉村先生から特に何かを言われたと言う記憶は残ってないのですが、夜に家まで呼んでくれて話を聞いてくれた事はありがたかったです。

問題の夜の話は、母方の親戚にも相談しました。母の兄の基三郎伯父さんは引き取ってやりたいのだが、子育ても終わりやっと一息ついたところなので純子伯母さんの事を考えると引き取ることはできないとの事でした。母の弟の勝秋叔父さんが、俺が面倒みるから家に来いと言ってくれました。私としては大変うれしい話でした。でも今考えると勝秋叔父さんは、当時35才で5才と1才の子どもがいました。そこに中学生の子どもを見る事は大きな負担です。よく引き受けてくれたと感謝しかありません。私が35才の時に私が同じ立場で、子どもを引き取ることが出来るだろうか考えました。この事に関して母は殆ど発言をしていた記憶がありません。何所に行っても私は居候なので、肩身の狭い思いをする事はわかっていたと思います。仕送りできるわけでもなく本当に居候なのです。母の友人の中央卸売市場に勤めていた栗田さん(これが最後でこの後会う事がなくなったのですが)には、確信を突いて諭されました。今回、松山(父親)に出てきたのは自分で決めて自分が納得してきた事だ。嫌だと思うけどお父さんの所に帰りなさいと言われました。私は正論過ぎて黙っている他ありませんでした。結局、私は勝秋叔父さんが引き取ってくれる事になり、中学2年の2月14日から雄新中学に通う事になりました。雄新中に初めて行って一番驚いた事は規模の大きさです。吉田中学は1学年6クラスでした。鴨川中学は松山だから悪い学校だと聞いていましたがそれ程でもありませんでした。雄新中学は私達の学年が12クラス、白い革靴を履いている人、パーマを当てている人、女子の制服はブレザーなのにセーラ服を着ている人など初日に驚く事ばかりでした。鴨川中にもそんな服装違反をしている人はいませんでした。先生がとても厳しかったそうですが、吉田中学は不良と呼べる人すらいなかったと思います。吉田中の1年の時に私達のグループで少し悪ふざけが過ぎて担任に怒られたと言うより呆れられた事があります。その頃馬乗り(飛び)が流行っていました音楽室で馬跳びをして、先頭の人が重さに耐えきれず背中でガラス窓を割ってしまいました。音楽室でそんな事をした事に怒られましたが、その数日後に靴箱の所で遊んでいて靴箱が倒れ、靴箱が将棋倒しの様に倒れて行きました。間に人が入れば大けがになったと思いますが怪我をしたのは靴箱だけでした。先生に靴箱を壊したのは君たちが初めてだと言われ相当怒られると思っていましたが自分たちで修理しなさいと言われ建材屋さんで木と釘を買ってきて靴箱を直しました。不細工な靴箱に靴箱になりその後使う人には申し訳なかったです。

雄新中に転校して一番驚いたのは、吉田小中学校の時の同級生で二従弟に当たる澤田一動君が雄新中に転校してきていた事でした。一動君とは私の母と一動君のお父さんが従弟で同級生の関係でよくお父さんが家に遊びに来ていました。ただ一動君とは同じクラスになった事がなく一動君は将来プロ野球選手を目指していると言うスポーツマンで、中学1年の時にゲームセンターのスピードガンで130㌔を出して、友達の間で話題になっていました。身体も大きくどちらかと言うと悪いグループに所属していました。しかし、先生達が本当は親戚を同じクラスにはしないのだけど、3学期も後1ヶ月程なので知っている人がいる方がいいだろうと言われ一動君と同じクラスになりました。しかし、3年のクラス分けではまた、一動君と同じクラスになっていました。偶々だと思います。先生たちも親戚という事も忘れてしまっていたのではないかと思います。

(続く)