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#9 「中学生の頃(松山の鴨川中~雄新中学時代)4」

2021.3.2 更新

児島有一郎

前回までの鴨川中学校での話では、将棋の事に触れてなかったので鴨中時代の将棋の出来事を少し書きます。鴨川中学の時は、家庭内の記憶ばかりで将棋教室での記憶があまりないのですが、中学の文化祭でクラスの出し物として教室に脚付きの六寸将棋盤と座布団を持って行き、私に挑戦と言うコーナーを作って将棋を指しました。そこで挑戦された方が、私より1学年上の森大司さんでした。私の棋力は二段だったのですが、相矢倉から私が穴熊に組み替える所を猛攻されて負けましたと思っていましたが、後年森さんとお会いした時に、私が勝ったと言われていたので本当の勝敗はわかりません。森さんの棋力も初段近くはあったと思われます。私が二段になるまでにかなり将棋の勉強をしていると思うのですが、将棋教室に通われる事もなく独学で強くなっている方に時々に出会う事に驚かされます。この将棋を覚えているのは、当時、矢倉から穴熊に組む戦法はありませんでした。これから10年後くらいに相矢倉で先手が穴熊に組み替える将棋が定跡化され流行しましたが、研究もせずに思い付きで矢倉穴熊を指して、ボロボロになりましたが後年その指し方が定跡化されたという事で森さんとの将棋が強く印象に残っています。

もう一つ記憶に残っている事は、昭和57年1月2日に三越の将棋祭りで小林健二六段(当時)に指導を受けた時の事です。なぜ、日時まで正確に覚えているかと言うと、小林先生に扇子に揮毫をして頂いたからです。私が松山将棋センターを開設した頃、小林先生にお越し頂いた時、道場に飾っていたその扇子をみてその話になりました。私が飛車落ちで指して勝ったと話すと強かったんですねと言って頂きましたが、当時の先生はその将棋を褒める事はなかったですよと話すと驚かれました。指導対局は5面指しだったと思いますが私の2つ隣で、市川栄樹君が香落ちで指導を受けて好勝負になり市川君の事をベタ褒めしていました。奨励会を受験しないの等のやり取りを小林先生が市川君としていたので、私の事は記憶にないはずですと話しました。この日は市川君の強さが改めて分かった日でした。鴨川中学時代の将棋の思い出はこの位しかありません。雄新中学に転校して間もない頃の話ですが、将棋教室での出来事があります。当時の松山将棋教室の昇段規定は、今の松山将棋センターの手合い割り戦の様な形で、一定の成績を上げると松田幹雄(当時指導棋士四段・元奨励会三段)先生にと駒落ち対局して2連勝すると昇段できるシステムでした。私は二枚落ちで勝って初段になった記憶はあるのですが、飛車香落ちは覚えていません、指しているのですが記憶にないのです。他の駒落ちで松田先生がそれなりに緩めてくれていた記憶はあります。そうでなければ元奨励会三段に二枚落ちで勝つのは大変な事です。しかし、そんな事は当時わかりませんでしたが、何落ちだったのかは覚えていませんが、少しヒントをもらって「まあいいでしょう」と言う感じで昇段昇級した記憶もあります。三段昇段の出来事は反対の記憶です。二段から三段への規定の成績を私が取った時です。規定の成績を取ったのに松田先生は私が三段になるのはまだ早いとと言うのです。私が三段になると弱い三段が出来てしまうと言うのです。今となると先生の言う意味も分かりますし、現在の私の生徒でもそう思う生徒は沢山います。しかし、子どもは少し早いくらいで昇段昇級させる方が、後から力が追い付いて来ます。私の場合は将棋の内容の評価が低かった事もあります。しかし、そのやり取りをする中で、松田先生が私は弱いから飛車落ちでは勝てないから1回でも勝てば三段にすると言ったのです。その経緯をへて飛車落ち戦を行いました。そして、私が強引な攻めを決めて勝ったのですが、終局後に松田先生が本当は2連勝だから、もう1勝しないと駄目だと言うのです。私は文句を言いましたが結局納得して、1週間後に昇段試験をする約束をして、私は1週間駒落ち定跡も含めて飛車落ちの勉強(勉強をした部屋が叔父の家だった記憶があります)をしました。今考えるとそういう気合に入った将棋指すという事が良い事だったと思います。そして、その対局も勝ったのですが、松田先生はどうしても私の三段を認めようとしないのです。私を三段にすると弱い三段が出来ると言うのです。もう1局指さないと駄目だと言うのですが、そこは私も納得できませんでした。そこへ一部始終のやり取りを知っている常連の、高橋さん(毎日将棋教室に来ておりベレー帽をかぶった少し小太りのオシャレな三段の方)が約束通り連勝したのだから上げないと駄目ですよと言って頂き、松田先生も渋々認めた感じでした。しかし、道場の名札を掛け替えてくれないので自分で二段から三段に掛け替えた事も覚えています。それくらい私の評価は低かったのです。玉を固めて(穴熊)大駒を切って張り付いて行く将棋は、プロの世界で修業した松田先生の中では当時は受け入れ難かったのかも知れませんが、当時は田中寅彦四段がデビュー間もない頃で居飛車穴熊で勝ちまくり始めた頃でした。居飛車穴熊が流行の兆しを見せ始めた時代だったのです。市川君は、松田先生には本当に可愛がられていました。将棋も相当教えてもらったと話していますが、私は昇段の時に対局するくらいでした。元々宇和島から月2回通っていた私と、基礎から教えた市川君とでは先生の見方が違っていたのは仕方ない事だと思います。

叔父の家に引きとってもらい私の生活も一変しました。やはり父親の家では、複雑な家庭環境ではありましたが、親子で父親に負い目があった事もあり、私が我儘を通していた事もありました。しかし、叔父の家では本当に居候なので肩身の狭さも感じました。母親が仕送りをしてくれる分けでもなく、食費、生活費、学校費等すべて叔父に面倒を見てもらっていました。やはり、父親の元で暮らすのとは違います。叔父夫婦は子どもが出来るのが遅かったので、私が小さい頃は本当に可愛がってもらいましたが、当時は4才と1才の子どもがいました。叔父は仕事に真面目な方で私が住んで居た数ヵ月間で帰宅時間は殆ど0時位でした。21時に帰って来た事が数回しかありませんでした。その分いつも一緒にいる叔母に負担が掛かることになりました。叔父の家に替わってから直ぐだったと思います。市川君から新聞配達をしないかと誘われました。市川君は小学校の低学年の頃から新聞配達をしていて、毎日新聞の配達から愛媛新聞に替わるので、代わりに毎日新聞の配達をしないかと言われました。私は叔父に小遣いを貰いにくかったので、自分の小遣い位は稼ごうと思い新聞配達をする事にしました。当時の毎日新聞の販売所は新玉小学校の前にありました。配達の区域は松山市駅の南側周辺で永代町、末広町、小栗、室町、真砂町、藤原町等、テレビ愛媛や県病院も配達していました。1時間で50件配り1ヶ月のバイト代は15000円でした。市川君は愛媛新聞に替わり1時間で150件配れると話していました。それだけ毎日新聞より愛媛新聞の方が、購読者が多いので短時間で多く配れて効率が良いのです。市川君は2時間かけて2人分の2区画300件配達したそうです。私は勝秋叔父さんの所でお世話になった4ヶ月程新聞配達をしましたが、寝坊して配達に遅れ学校にも遅れそうになることもありましたし、体調が悪くても、新聞を待っている方に迷惑かけられないと思うと学校は休んでも配達には行く事もありました。中学生ながら何となくお金を頂くという事と責任感が身に着いた感じです。当然大雨の日も有り新聞配達は本当に大変な仕事だと思いました。一番大変だった事は休みがない事です。今は少し増えたようですが、当時の新聞休刊日は年8回でした。休刊日は月曜なので新聞休刊日には学校があるので、朝寝する事が出来ませんでした。私は高校生の時は牛乳配達をしていたのですが、新聞より牛乳配達の方が楽だと思ったのは1週間1度休みがあるという事です。牛乳配達は日曜日に重たいですが2日分配るので月曜が休みでした。学校があるとはいえ週1回休めるのはありがたかったです。牛乳配達の方が重くて大変だろうとよく言われましたが、私は週1回休める牛乳配達の方が気持ちとして楽でした。あと、冬場は朝配達するのではなく、前日の夜配れました。学校から帰ってからで良いので朝早起きしなくていい事が楽でした。しかし、小学生の低学年時から新聞配達続けている市川君は、将棋が強いという事以外でも尊敬できる友達でした。今でも年に1回は2人で呑みに行くのですが私以上に松山将棋教室での事を覚えていて楽しい呑み会です。私が毎日新聞の配達に行って一番驚いた事は、父親がその販売所に勤めていた事です。最初あった時は驚きました、なぜここで働いているのと思いましたが、聞く事も出来ませんでした。その1ヶ月の間に父にも大変な事があったのだと思いますが、私とも色々あった直後なのでお互いが朝会っても挨拶をする程度でどのような経緯で父がそこに勤める事になったかもわかりませんでした。その後父は35年程毎日新聞の仕事を続けました。

雄新中学3年になり、将棋も勝負の年でしたが学校生活でも小・中・高校の中で一番思い出に残っているクラスとなりました。その時の同級生とは今でも呑みに行く友人が何人もいますし、私が生きてきた上で親友と呼べる友人との出会えたクラスでもありました。

(続く)