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#10 「中学生の頃(松山の雄新中学時代)5」

2021.3.16 更新

児島有一郎

中学3年になりその頃の目標は、中学選抜選手権で愛媛県代表になり全国大会に出場する事でした。当時の奨励会試験は10月でした。まず、全国大会に行って自分の力がどのくらい通用するかを知りたかったのです。当時の松山将棋教室出身者で2人の奨励会員が出ていました。鶴田勇人さんと近田香太郎さんです、2人とも高校生の時に高校選手権愛媛県代表になってから4級受験で合格していました。鶴田さんは私が教室に通いだした頃には既に退会されていて面識はありませんでしたが後年、鶴田さんのお兄さんと親しくさせて頂きました。近田さんはすでに大阪に出ておられて2級でした。松山に帰省された時に一度将棋を指導頂きましたが、全く歯が立ちませんでした。2月に叔父の家に住みだしてから、徐々奨励会を目指す気持ちは薄れて行っていました。将棋教室に通う事は楽しかったし全国大会を目指す気持ちは強かったのですが、生活面を含めて疲れてきていました。松山での生活が大変なのに、ここから大阪に通う事など出来るのだろうかと思っていましたが、5月23日の中学選抜県大会の優勝は目指していました。昨年が準優勝で市川君と清水君が高校生になったので優勝候補ではあったと思いますが、ライバルは同学年の明比幸生君(初段)と1学年下の小野岳久君(初段)と大塚正輝君(初段)でした。特に小野君には練習将棋で良く負けるようになっていました。負けパターンは私が居飛車穴熊に組む所を攻めてこられて玉が堅くならないうちに攻め潰されていました。私自身の将棋の本質は今も変わっていなのですが、攻め将棋で、受けに回ると弱かったです。受けが下手なので穴熊に頼っていました。

県大会の日が来ました。当日の事で覚えているのは予選で大塚君と同じリーグだった事と決勝戦が小野君だった事です。一番嫌な相手でした。相手の四間飛車に居飛車穴熊を目指しました。これで負けたら仕方ないと思い9八香と上がり穴熊を目指しました。いつもなら攻め掛かってくる小野君がこの時は大人しく自らも囲いを優先しました。結果、私が攻め切って勝ったのですが、日頃、私達の将棋を見ている友達はなぜいつものように攻めなかったのかと小野君に聞いていましたが、決勝戦という事もあり小野君も緊張していたのではないかと思いました。私は前年に決勝戦で清水一郎君に負けましたが、準決勝で市川君に勝っていたのでその日は満足していましたが、翌日の新聞を見ると優勝者の清水君が大きく取り上げられていてそれから悔しさが込み上げてきました。その時に思った事はやはり勝たないと駄目だと思いました。勝つためには、自分の持てる力を発揮する事、発揮出来るように戦う事だと考えました。相手が強くて負ける事は仕方ないですが、自分の力を出せない自分の将棋が指せずに負けるのは悔しいと思っていました。

私が県代表を獲得した頃ですが、伯母の純子伯母さんが私に内緒で、松田幹雄先生に会いに行ったそうです。それは私が中学を卒業する頃に教えてもらったのですが、私の実力と奨励会に受かるかどうかを聞きに行ったそうです。松田先生は奨励会には受かるもしれないが、プロになるのは難しいと言ったそうです。私には奨励会に受かる自信もなかったのでそこは意外でしたが、後年私より少し年上のプロ棋士の方に伺うと、当時は特に関西は奨励会員が少なかったので、アマ三段位あれば通っていたという事を聞きました。松田先生はその事を知っていて受かるかもしれないと言ったのだと思いますが、私が受験しようとしていた年は、関東奨励会だけで80名以上の受験者がいた羽生さん世代が受験した57年組と呼ばれた年なので正直合格したとは思えません。しかし、それは後で分かった事で、その頃は自分が奨励会に受かる自信はなかったのです。

ちょうど県大会が終わった頃ですが、学校で三者面談会がありました。母親に宇和島から出て来てもらい進路の相談です。私は中学に入った頃には成績は中の上位だったと思うのですが、将棋にのめり込み2年生1学期には、学校を休んで松山に行ったりしており、鴨川中学の9月~2月10頃には父親との確執もあり120日程の登校期間中に30日も休んでいるので2年時の欠席は40日以上でした。勉強について行けるはずがありません。しかし、その頃は将棋一辺倒だったので自分の成績を気にした事もなかったのです。ですからテストの点数もあまり覚えていません。しかし、この6月の三者面談で高校の話になり、どうするのかと言われました。1年前に市川君達と対抗戦に行き施設の整った部室を見ていたので松山北高校に行きたいと言ったのですが、私の1学期の中間テストの成績は雄新中(私達の学年は12クラス)550名中350位だったのです。半分以下ですが今考えると勉強してない割には出来た方かも知れません。私は勉強はしていませんでしたが、学校の授業だけは聞いていました。小学校入学から高校卒業まで授業で居眠りをした事がないのです。授業中に眠くなる事もありませんでした。授業だけは真面目に受けていましたしノートも取っていました。しかし、当然ですが先生はこの成績で松山北へ行けるはずがないと言われました。松山の東西南北の高校に行くには雄新中で100位内(松山東高が20人位)には入らないと難しいと言われました。私はそれに対しては、今まで勉強は全くしていないので、勉強するから大丈夫ですと自信をもって答えました。先生は全く信用してなかったと思います。あと覚えている事は、私と数人の名前を挙げられましたみんな私と仲の良かった人なのですが、私達は私立高校に行くと駄目になるタイプだから県立に行けというのです。私立高校については初めから行くつもりはありませんでした。当時、県立高校の学費は1万円、私立高校は3万円でした。今と学費は変わらないのですが賃金が安い分は現在よりは割高ですし、今は県立高校の学費分は国が出してくれるので県立高校だと無料という事になっています。私の家庭の場合は兄弟3人が年子ですから、私が高校3年時には3人が高校生なので3人が県立でも月3万の学費が掛かります。給料が9万円ほどの母親には無理だと思っていましたし、仮に松山の叔父の家から松山の私立に通っても叔父にそこまで甘えられないと思っていたので、県立を落ちたら定時制の2次募集で夜間高校に行こうと決めていました。そうしていると1学期の期末テストが終わりました。この時点でも試験勉強はしていなかった上にテストの点も中間テストより悪かったのですが、なぜか順位は280位になっていました。

夏休みに入る手前で、私の生活環境はまた変化します。夏休みの期間だけ土居田町の叔父の家から北久米町の基三郎伯父さんの家に行ってほしいと言われ、北久米から学校の補習等も雄新中に自転車で通う事になりました。しかし、本当の所は夏休み期間中だけでなくその後も基三郎伯父さんの元で暮らす話だったようです。やはり、勝秋叔父さんの所では小さな子ども2人を抱えている節子叔母さんに負担を掛けてしまっていたようです。勝秋叔父さんは優しい叔父でした。今でも従弟になる叔父の子どもとは良く呑みに行きますが、子ども達は叔父に怒られた事がないと言います。私は一度だけ酷く怒られた事を覚えています。それは平日、将棋教室に行っていて帰ったのが23時でした。その時も何も言われませんでしたが、翌日は将棋教室で寝てしまい。22時半頃、母から教室に電話が掛かって来て家に帰ると2日連続で23時でした。この時は日頃温和な叔父に正座させられて怒られました。母から預かっているのに何かあったらどうするのだと言うような内容でした。そんな事もあったので叔父が面倒見切れなくなっても仕方がないです。北久米に代わることになり新聞配達も辞めました。そして、7月末に母と大阪に行き8月2日に3日から始まる中学選抜選手権に出場する為に天童に向かう事になりました。天童に行く前に母が奨励会試験どうするのと私に尋ねました。高校受験もあるし成績を考えると両方は無理だろうと言う話でした。私はこの大会が終わったら将棋は中断して勉高校受験の勉強をすると母に言いました。そんな状況での天童行きとなりました。大阪を出る前日に台風が通過して今考えると大会に参加出来ただけでも幸運でした。当時は、出発の日は天候も良かったので何も考えずに新幹線に乗り込みましたが、九州からは殆どの選手が参加出来ず、他にも西日本から参加できなかった選手が何人かいたのです。私も事前に大阪に渡っていなければフェリーが欠航で大阪に行く事すら出来ませんでした。当時は四国から本州への橋は一本も掛かっていなかったので本州に行くにはフェリーしかなかったのです。

(続く)