コラム
#11 「中学生の頃(松山の雄新中学時代)6」
2021.4.25 更新
児島有一郎
朝8時頃に新大阪に着き、初めて昨日の台風の影響で、新幹線が正常に運行していない事を知りました。現代のようにスマホはないし、新幹線など乗った事もないので駅に行くまでわかりませんでした。松山駅では特急と急行が1時間に一本あるかどうかです。新幹線が1時間に何本もあるなど考えられない大阪は考えられない世界でした。予約していた新幹線はかなり遅れているという事で、指定席は諦める事にして取り敢えず一番早い新幹線に乗りましたが、静岡辺りから停車している時間が長くなりました。川(多分天竜川)が増水しているので待っている新幹線が多くゆっくり進んでいると言う説明でした。今日中に天童に着けるのか不安になりました。お腹が減っても車内販売も売り切れで買えなかった記憶があります。昼を過ぎて東京駅に近づいても、駅の手前で待っている電車があるので、時間が掛るとアナウンスがありそこでも1時間以上待ったように思います。東京駅に着くと遅延したので特急料金を払い戻しすると言うので、また窓口に並びましたが凄い行列でした。私はお金よりも天童に着けるのかが心配でした。払い戻しが済、上野駅に向かいました。上野駅に着き私たちが階段上がっていると発車のベルが鳴っていたので私は駆け上がって電車に乗り込みましたが、母が付いてきていませんでした。私は乗車ドアの所から後ろを見ていて降りた方がいいかなと迷っていると後部の車両にギリギリのところで母が乗り込んだのが見えてホッとしました。後年、母はあれ程慌てた事はなかったと言っていました。ここではぐれたらどうしようかと思ったと言っていました。その電車で仙台まで行きましたが、そこまでは座れる席はなく2時間以上立ちっ放しだったと思います。仙台から山形行の電車に乗りましたが、やっとここで座る事が出来て駅弁を食べました。時間は覚えていませんがもう夕方だったと思います。隣に座っていた女性が話をしていましたが何を言っているのか全く分かりませんでした。母が話し掛けると分かるように話してくれました。山形から天童の大会会場になる滝の湯ホテル着いた頃は20時を過ぎていたのではないでしょうか。
ホテルの部屋は参加選手と相部屋なのですが、母が折角なのでと追加料金を払い個室を取ってくれました。それから食事に行きました。後年私が、子ども達の引率でこの大会に行くと、前夜祭があり開会式の練習ありと選手は結構、前日から忙しいのですが、私の時は、台風の影響があってか個別に食事をとる形でした。お膳はまだ沢山残っていて着いていない選手も多かったのだと思います。隣の席でお爺ちゃんと食事をしている選手がいました。話を始めると新潟代表だったと思います。今考えると新潟も台風の影響があったのかなと思えますが、到着は時間が遅かったようです。私は食事をする前に大会の抽選をしてその選手が1回戦の相手だと知っていました。母も気づいていたようですし相手の子もお爺ちゃんに明日当たる相手だと言っていました。それから、私はその子のお爺ちゃんに質問攻めに合いました。何所かで将棋を習っているのかと聞かれ、習っていますと答えると、孫は東京の松田先生(茂行八段)に習いに東京に通っていると言いました。君の先生の名前は誰と言われたので松田先生と答えると、東京まで習いに行っているのかと言われたので、四国の松田先生(幹雄準棋士四段)だと言うとそんな人は知らん、それでは孫に勝てる訳がないと言われました。その後もお爺ちゃんに得意戦法等を聞かれました。私が正直に答えていると、食事が終わってから、母親にお前は馬鹿か明日対戦する相手に自分の事をベラベラ話してどうするのだと言われました。私も拙いとは分かっていたのですが、聞かれているのだから嘘を言うのも悪いと思い正直に答えていました。母親に馬鹿と言われ明日は負けられないなと闘志が沸いたのを覚えています。私がホテル内を見学してから部屋に戻ると、部屋で母と話している人がいました。ホテル内で知り合った方で東京代表だったと思います。選手は長田博道さんでその後奨励会入りして三段まで進まれました。母が話している間、長田さんと将棋指したり将棋の話をしたりして過ごしました。
翌日大会が始まりました。大会には三笠宮寛仁親王が出席されており大会会場内も普通に歩いて観戦されていました。後年私は子どもの引率で4度この大会に行きましたが、セレモニー関係を厳しく事前練習するのは皇室の出席があるからだと聞かされました。後年は一度も皇室の出席はなかったのですが、皇室出席があってもいいように予行練習していると関係者の方が話されていました。参加選手は64名でした山形代表は5人位で多かったと思います。首都圏代表も2名以上だったと思います。この大会は台風の影響があり、九州代表・四国代表は不参加の人がいました。
1回戦の新潟代表とは激戦でした。私の居飛車穴熊に相手の振り飛車美濃囲いでした。終局は1回戦で一番遅かったです。秒読みの中勝ち切ることが出来てホッとしたのを覚えています。前日の事もあり、お爺ちゃんが呆然としていたのは覚えています。母にも東京に練習に行っている子に良く勝ったねと言われました。1つ勝って気持ちが楽になりました。その後2つ勝って、ベスト8で後1つ勝てば入賞まで来ました。その将棋は後々まで後悔が残りました。矢倉だったのですが将棋は私が負けていましたが、終盤の選択肢が受けるか攻めるかの局面で、受けは受けにならず寄せられてしまいます。私は仕方なく詰まない相手玉に王手を掛けて投了しました。頓死には期待していましたが、間違えませんでした。しかし、感想戦で相手が受けられると負けていたと言うので、私がこの受けには、この手でそちらの勝ちですよと答えると相手はその時点では気づいていなかったようで、受けていれば結果はわかりませんでしたが、その二択で攻めを選んだ事が後悔でした。(攻め将棋なので仕方ない事なのですが)
終局後に、大会の部屋から出ると今でも鮮明に覚えている事があります。指導対局に来ていた当時プロ棋士だった永作博美四段が、強い子どもいると話しながら会場の中に入って行きました。私がついて行くと、その子はその対局は負けて大泣きしていましたが、対局の内容に永作四段は感心されていました。その子どもは村山聖さんでした。
その後、母と天童の町を散歩しようと外に出ました。会場の入り口で大山十五世名人とすれ違い、母がお願いして写真を撮ったのですが、この写真の事で私は母からずっと言われる事になります。家にはカメラがなかったので、叔父から借りて行っていたのですが私はカメラなど扱った事がありませんでした。宇和島に帰ってから現像に出すと何も写っていなかったのです。私はカメラの珍しさに途中でフィルムを使い切っていない段階で、開けてしまい天童での写真は一枚も撮れていなかったのです。母に大変残念がられ、特に大山名人と撮った写真が惜しいと事あるごとに言われ続けました。
天童からの帰り道、母に1週間後に大阪で開かれる近鉄将棋祭りに昨年に続き出場したいと言いましたが、母はこの大会が終わると将棋は中断すると言ったのだから、大阪に行く事は駄目だと言いました。確かに天童に行く前に、その話はしましたが私は入賞にあと一歩だった事と昨年もベスト8まで行っていたので、この大会を最後にしたいと言いましたが、許してもらえませんでした。松山に帰り大阪に行きたいけど、どうすれば良いか考えていました。結局、母に黙って大阪に行く事にしました。お金は新聞配達していたので、大阪に行くくらいは持っていました。市川栄樹君と清水一郎君は松本伊代のコンサートがあるから大阪に行くので一緒に行こうという事になり3人で松山・大阪のフェリーに乗りました。後ろめたい気持ちが強かったのですが、これが最後と思いフェリーが出航してからフェリーの公衆電話から家に電話しました。母には思った通りだったと言われました。私の行動は予想で来ていたようです。一緒に行った市川君と清水君は高校生だったので、今回は大会に参加する為に大阪に行った訳ではありませんでした。今は王将戦には高校の部もありますが、当時は中学生の部門だけでした。この大会は、中学最後の大会と決めていましたが、奨励会受験を諦めていたので軽い気持ちで参加出来ました。
(続く)