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#12 「中学生の頃(松山の雄新中学時代)7」

2021.5.11 更新

児島有一郎

母に内緒での、大阪行きで罪悪感はありましたが、電話一本入れた事で少しは気が楽になりました。船の中では3人で将棋とトランプを徹夜でやりました。大阪南港に5時頃着き、バスは満員で乗れませんでしたが、時間はあるので弁天町まで歩きました。その日が、市川君達のメインの松本伊代のコンサートが夕方から開催される日でした。午前中何をして過ごしたかを覚えていません。私はコンサートに行くつもりはなく将棋会館に行きたかったのですが、その日は宿泊先も決めておらず、母に内緒で出発したので、大阪の伯母の家に泊めてもらう訳にもいかず、携帯電話もない時代に2人と離れてしまうと連絡を取る事も難しくなるので一緒に行動していました。覚えているのはJR環状線に乗った時に3人とも前夜に寝ていないので、電車の中で寝てしまい気が付くと環状線を1周してしまった事くらいです。昼過ぎにコンサートの開かれる厚生年金会館の近くの喫茶店に入り2時間位居ました。そこで今晩は厚生年金会館に泊まろうという事になりました。理由はコンサートの開かれる会場に松本伊代が泊っているかもしれないと言う理由でした。今考えるとそんな事はあり得ないのでしょうが、高校生が考えそうなことです。その後は喫茶店に居づらくなり公園に座っていました。私はコンサートには行きたくなかったのですが、その間2人と離れて将棋を指しに行くにも時間も中途半端だし、詰将棋の本はありましたが、外で3時間程待っている気力もなく結局、もったいないと思いつつ2人と一緒にコンサート会場に入りました。アイドルのコンサートと言うものにはこの後も行った事がありません。席に座ると前夜の疲れから寝てしまいました。目が覚めるとコンサートは終わっていましたが、アンコールが2回ありそれを聞いて終了になりました。市川君からあの歓声(い~よちゃんコール)の中、良く寝られたなと言われましたがとても疲れていました。コンサートは皆立ちっ放しの中、私だけが座って寝ていたので後ろの熱狂的なファンから私が殴られるのではないかとも心配だったと言われました。終わってからホテルにチックインしました。名前と住所に振り仮名を書く時に、振り仮名が平仮名なら平仮名でカタカナならカタカナで書くのだと市川君に教わりました。数字の番地の振り仮名を、ひら仮名で書いて笑われました。私と清水君がツインに泊まり、市川君はシングルに泊まりました。市川君は何かと旅慣れている感じがしました。当時はコンビニもなく夕食をどうしたか覚えていないのですが、夜お腹が減って一人で外に出ました。9時は過ぎていたと思います。中学生が知らない都会に来て一人で外出するのは、今考えると危ない事ですが、うどん屋さんを見つけたので思い切って入りました。カウンター席のみのお店でした。見た事のないメニューで鳥南蛮があり注文しました。食べているとお店のおばさんがどこから来たのかとか、何しているのかと色々聞かれました。今思うと家出少年と思われたのでしょう。松山から来たと話すとその方は高松の出身だと話されました。将棋大会に来て友達が2人そこのホテルに泊まっていると言うと、明日の朝ご飯を食べにおいでと言ってくれました。2人にその事を伝えると不思議そうでしたが、翌朝、うどん屋さんに行きました。3人に親子丼を作ってくれてお金も取られませんでした。大人になってから場所も覚えていませんでしたがそのお店を探してみましたが、見つける事は出来ませんでした。

近鉄将棋祭りの会場に着きました前年の反省から、外エレベーターで屋上に上がり、開館と同時に1階下の大会会場に行き素早く受付を済ませました。その時の将棋の内容はあまり覚えていないのですが、結構長い将棋が多く私が4回勝ったところで、次の相手は5回勝っている人しかいなかったので、私は1局不戦勝の扱いになり次の相手が決まりました。1週間前の中学選抜に出場して私と同じベスト8まで行っている選手で私は名前を覚えていました。私は負けられないと思いました。その将棋は矢倉になり私としては良い勝負と思いましたが、何となく指して力が出ないまま負けた感じでした。対戦相手の名前は佐藤康光でした。後年、佐藤先生と食事する機会がありその話をしました。当然、覚えているはずもなく、私は前年の優勝者は阿部隆先生だったのですが、その大会優勝されたのですかと聞いたのですが、その事も覚えておられませんでした。私の中学時代の将棋生活はここで終わりました。その対局を負けてからの記憶はほとんどなく。その日のフェリーで松山に帰りました。

松山に帰った翌日(8月20日頃)から、私は将棋を中断して約束通り勉強を始めました。担任の藤田妙子先生(女性の社会の厳しい先生)はここからは皆が頑張るから順位を上げるのは大変と言われました。塾に行くわけでもなく自宅で自己流の勉強を始めたのですが、やり方は問題集を買って来て解き捲る物量作戦でした。間違えた問題を理解するまで考えるとか調べると言うやり方でした。当時の私の成績は好きな社会と数学は得意でした。点数は社会が80~90点で数学は70~80点、理科は60~70点で、国語は40~50点、英語が30~40点と言う感じでした。当時の受験制度は、5教科の試験当日の点数で合格出来る制度で、今のような内申点制度はなく、学校内の5教科のテストの点数で受験出来る学校を決められると言うものでした。今の様な内申点制度だと、瞬発力で勉強を頑張っても、欠席が多い等授業態度に問題があると県立も私立も受験もさせてもらえないと聞いています。当時の高校入試は1教科50点の250点満点でしたので、記憶では松山東なら250点満点で210点以上、松山南高で200点以上、松山北なら190点以上、松山西高で180点以上だったと思います。しかし、点数以上に厳しいと思ったのは競争率でした。当時は生徒数が多かったので東校は競争率1,1倍くらいでしたが、残りの3校は2倍前後の競争率がありました。点数は取れていても、ギリギリだと合格するかは分からない状態でしたが、とにかく点数を上げるしかありませんでした。当時の雄新中は、学業のレベルは松山市で下から2番目に低いと言われました。私は夏休み前に北久米に引っ越しましたが、久米中に転校する話をした時に、担任の藤田先生から、久米中はレベルが高いから今から転校しては授業について行けないかもと言われ結局卒業するまで、北久米から雄新中に通う事になりました。(5月以降なら事情があれば越境登校しても良いと言われました)雄新中は当時550名の生徒がいましたが、東校に行けるのは20名程でした。南校と西高が30~40名と言う感じで、私が希望した北高は当時あった校区制で雄新からは殆ど行っていませんでした。5年間で合格者1人でしたが、どちらにしても100位前後にならないと合格ラインには届きませんし受験する事も難しかったです。勉強を始めてから私は学校から帰ってくると食事とお風呂以外の時間は全て勉強につぎ込みました。午前1時~2時位迄は勉強していたので、平日は平均5,6時間勉強したと思います。土日ずっと机に向かいました。楽しみは勉強の合間にBGMでビートルズを流している事くらいでした。時々寝てしまうと、基三郎伯父が部屋に怒鳴り込んで起こしに来てくれました。9月に入り、基礎が出来ていない英語の勉強方法が分からないので、伯父が近所に住んでいた元英語教員の知り合いに方に頼んでくれて、週2回教えてもらう事になりました。本当に中学1年の基礎から勉強をやり直しました。ただ単純に覚えるという事は、得意だったので、単語テストなどは学校の中3レベルだと、満点近く取れるようにはなりました。他の勉強は分からないところは、将棋友達の松山東校の近藤敬一君が、時々学校帰りに寄ってくれたので教えてもらいました。成績の方は上がって行き夏休み前の期末試験は280位でしたが、2学期末の期末は150位になっていました。しかしこの時期になって進路で考えるようになりました。将棋のプロ棋士を目指して松山に出てきたのに、プロ棋士の道を断念してまだ、松山にいる意味があるのかという事です。基三郎伯父と純子伯母は、本当に私に良くして頂いたし父親母親の様に思っていました。伯父伯母も高校はここから通ってもいいからと言って頂きました。しかし、やはり自分の中ではお世話になっていると言う遠慮があり、後3年間こんな生活を続けて良いのだろうかと言う気持ちもありました。私が大人になってから純子伯母が、あんな厳しい伯父の元で良く耐えたねと言いました。伯母は、伯父の私に対しての厳しさは異常なくらいだったと言っていましたが、私には伯父の厳しさには、暖かみが感じられて只怒っているのではないという事も分かっていました。元々が伯父の事を尊敬していたので、周りが思うほど厳しさを気にはしていなかったのですが、やはり親とは違い言い返すとか反抗するとかは出来ませんでした。この環境の中で高校3年間過ごす事が出来るかという事は考えるようになっていきました。吉田町の母の元に帰った方が伸び伸びと生活できるのではとも考えるようになりました。高校の進路については担任から、この調子で頑張れば西高は何とか受けられるかもしれないが、滑り止めの私立を受けないのだから、安全策を取って1期生になる伊予高はどうかと勧められました。しかし、伊予高は1期生なので人気校で競争率は高くなりそうだとも言われました。しかし、高校でも将棋は続けるつもりだったので将棋部のある学校に行きたいと言う気持ちもあり、進路について最も悩んだ時期でした。ただ高校卒業後の事などを考えれば、商業高校等も選択肢に入れて考えなければいけなかったのかも知れませんが、その当時は将来の事など何も考えていませんでした。

(続く)