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#13 「中学生の頃(松山の雄新中学時代)8」

2021.6.22 更新

児島有一郎

学校の成績は、猛勉強のおかげで急激に上がりましたが、進路は決めかねていました。奨励会は諦めても、将棋は続けようと思っており、将棋を指すならこのまま松山にいた方が良いし、将棋仲間と離れるのも辛い。しかし、基三郎伯父に迷惑を掛け続けるのも悪いと悩みました。吉田町(現宇和島市)に帰る事を決めたのは、1月末頃だったと思います。その事を担任の藤田妙子先生に話すと宇和島の高校事情が、よくわからないので自分で調べてくれないかと言われました。私の中では宇和島の高校のレベルは宇和島東の理数科、普通科、宇和島南普通科、宇和島東商業科という順番でした。宇和島東高に行きたいと思いましたが、私立を受けていないので落ちた場合の心配をしました。落ちたら宇和島南高の定時制に行こうとは思っていましたが、安全策を取って宇和島南の普通科にしようと思いました。その後で、吉田中学校1年の時の同級生で仲の良かった松崎雅彦君(あだ名はマンジュラ)に、宇和島の高校事情を聞いてみました。松崎君は宇和島東高の普通科に行くと言っていました。宇和島市内(旧市内)の高校はどこも競争率が1,1倍くらいなので受けたら大体通るから、東高にしたらと言われました。普通科が自信なければ、理数科にしたら良いとも言われ私は「えっ」と思いました。理数科が一番難しいのではと、聞き返すと理数科は毎年東大に行く人もいるけど、上と下の差が大きくて、合格レベルでは南高よりも下(その後は変わったそうですが)だと言われました。それを聞いてまた悩みましたが、聞いた時は願書の締め切りまで数日になっていました。結局、あまり考える事も出来ず相談相手もいなかったので宇和島南高校に決めました。

中学3年の3学期の期末試験は、550人中75位迄上がっていました。先生にも自信を持って行けば良いと言われました。これは、当時の試験制度だから出来た事なのです。20年以上前から、愛媛県の高校受験(愛光学園は違うようですが)には内申点制度が設けられて、学校に真面目に通っていないと、私立高校も受験させてもらえないと言うのです。私くらいの欠席(1年時が10日・2年時に50日)だと微妙だったと思いますが、試験時だけ点数が取れても日頃の学校内での態度が悪いと、受験すらさせてもらえないという事なのです。各自が抱える諸事情で学校に通えなくなった子ども達や、他の将棋教室の生徒からもそういう話は良く聞きます。部活動をしないとその部分の内申点が付かないとか、提出物を忘れるとその点が付かない等生活面を厳しく見るようになっているようです。10年程前になりますが、将棋教室の生徒で奨励会を目指していて、2年の時に諦めた子どもが松山東高を受けるには内申点が109点以上必要だったのですが、部活をしていなかったので内申点が104点しかなく受験は出来るのですが当日点を多くとらないと合格出来ないと話していました。今の制度だと、学業学校内以外の事を頑張っている人は、高校も思うようにいかないのでは考えさせられます。スポーツだとそれに力を入れている私立高校は取ってくれるでしょうが、文化系では難しそうです。学校の生徒のタイプも真面目に学校に通う似たタイプが揃い、教育する方はやり易いかもしれませんが、生徒間の人間関係等においては面白みに欠けるのではないかと思います。社会に出ると色々な人がいるので、そういう意味での対人間への免疫力が低下するのではないでしょうか?

2月の末の私立高校の受験日の話です。私は私立を受けなかったので、その日は登校しました。私には、県立の受験が控えているので勉強をしたかったのですが、その一日は掃除や、用具の片付けなどの作業を一日やりました。受験しなかった人は50名近く居たのですが、誰に聞いても県立を受験する人はいませんでした。就職するか、推薦で私立高校に合格が決まっている人ばかりでした。県立を受験する人で滑り止めを受けない人がいない事に驚きましたが、もう少し配慮してほしかったと思いました。

その後、県立高校の受験も無事終わり、吉田町(現宇和島市)に帰る事になりました。学校の思い出としては、私はこの雄新中学3年のクラスが一番印象に残っているクラスになりました。色々問題も多かったクラスですが、学校での事やその後の人生にも影響があった人と出会えたクラスでした。悪い思い出のエピソードを一つ出すと、私が児島で出席番号が一つ後ろのK林君(身長175C・体重は100K超え大柄で筋肉質握力が90あった)がテストの度に(テストの時は出席番号順に座りました)後ろからシャーペンの先を尖らせて後ろから突いてくるのです。初めは我慢していましたが、ある時我慢できなくなり喧嘩になりました私が先に顔面を殴りK林君は鼻血、私は頭を殴られて脳震盪で病院送りにされました。その時の病院の先生の話で覚えているのは、頭蓋骨は丈夫に出来ているから、頭蓋骨にひびが入るくらいなら殴った拳が折れるから大丈夫と言われました。他には、当時は友達位の間柄でしたが、高校を卒業する頃から仲が良くなり、今でも東京に行けば必ず呑む藤田賢治君や、今は年に1,2回呑みに行く遠縁になる澤田一動君や、私が2度目の結婚をした子もこのクラスの同級生でした。高校では、やはり個性が似ている人が多くなるのでこのクラス位インパクトのあるクラスはその後ありませんでした。

松山将棋教室でも松田幹雄先生が、送別会をしてくれる事になり、市川君、清水君達を中心に高校生から小学生まで20名程が集まってくれました。会場は今も大手町にあるシティホテルでした。サンドイッチとジュースの子どもらしい送別会で、私もみんなが集まってくれた事が嬉しかったのを覚えています。会の終わる頃、松田先生が会費1500円を参加者から徴収し始めました。私にも1500円と言うので私が払おうとすると、清水君が「児島の送別会に本人からお金貰うのはおかしいでしょう」と言ってくれましたが、先生はお金が足りなくなるから仕方ないと言います。私はその時は、みんなが集まってくれた事が嬉しかったのでその時は何とも思いませんでしたが、後々考えるとおかしかったのかなと思います。

私が実家に帰って母に言われた事は、あなたがプロになれるとは私は思っていなかった、プロの世界はそんなに甘いものではないと解っていたけど、頭ごなしに止めさせてしまっては、あなたに生涯恨まれるのも嫌なので、松山に行かせたのだと言われました。確かに挑戦して駄目だったので自分の中では、納得行く事が出来ました。そんな経験があったので、奨励会を目指している子がいれば、気持ちがあれば棋力は関係なしに応援するようにしていますし、本人が受けたくても親が反対している時も自分の体験から、一定レベルに到達していれば、自分の体験談等を親に話して受験を薦めるようにしています。自分に区切りを付けるという事は大事な事だと思います。将棋に限らずプロスポーツの世界等は20代でも夢に向かって頑張っている人が大勢いるので、将棋の世界はまだ早く見極める事が出来るのでやり直しが効く道だと思います。

母のエピソードを一つ、私が小学校に上がる頃だったと思いますが、餅焼き器でお餅を焼いていました。私がそれを見ていると母がいきなり、触ってみろと言うのです。私は不思議に思いました。触ったら熱いし火傷するのにと思いましたが、言われるままに触り「アッ」と言うと母は熱いから触ったら駄目だよと言うのです。そんな事は分かっているのですが痛い思いをしても体験させようとする教育だったのかと思います。

これで、中学時代の話は終わりになりますが、私の中では混迷していた時代だと思います。色々な人に迷惑も掛けましたが、自分の置かれた環境下の中で、夢に向かって努力(後々考えると努力が甘かったし、将棋の勉強の仕方もよくわかっていませんでした松田幹雄先生にも勉強方法を教えてもらった記憶がありません)したと言う事が、その後の人生にも役に立ったと思っていますし、チャンスを与えてくれた母親や親戚の方々には感謝するしかありません。

次号からは、高校時代の話になりますが将棋を続けて行くにおいては宇和島南高校の選択があっていたのかなと言う部分から話が始まります。

(続く)