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#14 「高校1年時代(宇和島南高校)1」

2021.7.21 更新

児島有一郎

宇和島南高校に入学した頃は、中学の時に将棋ばかりやっていたので、違う事もやってみたいと思っていました。しかし、元々が集団行動とか、上下関係等が苦手な所があるので学校の部活に入部する事は考えてなく、筋トレが好きだったので武道を習いたいと思っていました。将棋への情熱は少し冷めていたような気がします。しかし、入学して直ぐに、大洲青年の家に行く事になっていました。入学後1週間以内(多分4月15日頃)で行ったので、クラスでの自己紹介はその時にやる事になっていました。自己紹介の時に私が中学時代は将棋をやっていて全国大会ベスト8に入り、松山の道場で三段だった話をしました。全員の自己紹介が終わると、同じクラスの大塚研吾君が私に、全国ベスト8は凄い、敵わないと思うけど将棋を指して欲しいと言うのです。早速、私が持参していた将棋盤(なぜか持って行ってました)で対局しました。話を聞いた人が大勢観戦に来ました。大塚君は見かけ変な髪形をしていて当時で言うとツッパリ風に見えなくもなかったのですが発言は謙虚で、勝てないと思うけど二枚(飛車角)落ちでお願いしますと言うのです。今考えるとこういうタイプが強いのです。将棋は私が完敗しました。すると、勝負にならないと思うけど平手でもう1局お願いしますと言うのです。下手、下手に出て来るのです。そして私は平手も負けてしいました。観戦していた人は全国ベスト8も弱いなと言いましたが、大塚君は調子悪かったのですよねと私を慰めてくれました。私は相当にショックを受けました。大塚君にどこで将棋の勉強をしたのと聞くと、近所の人と指していたとか本を読んだとかと言う程度で、道場も行った事はないし宇和島にそんな場所がある事も知らないというのです。私なりに中学時代は人生を賭けて将棋に打ち込んだつもりなのに、道場に行った事もない人に負けてしまったのです。対局直後に吉田中学時代の同級生が、私の部屋を尋ねたそうです、私は部屋に居なかってのですが、同部屋の河野君が将棋負けたショックで、屋上から飛び降りるつもりで屋上に行ったよと言われたと後で聞きました。それ程ショックを受けたように見えたのでしょう。その時は確かにショックでしたがしたが、冷静に考えると敗因はいくつかあります。一つ目は私が相手を侮っていた事です。大塚君の謙虚な言葉を真に受けています。二つ目は大塚君が初段位の棋力を持っていたという事です。近所の人と指していたと言っていましたが、私が小学生の頃の通い続けた公民館にも初段位の人は何人かいました。近所の人と指していて本を読んでいても初段にはなれるという事です。今の松山将棋センターだと三段と初段は角落ちですが、平手では3~5局に1回くらいは勝てる棋力差ですから負けても不思議ではないのです。ショックでしたがその夜に私は思いつきました。大塚君と高校の団体戦に出れば上位まで行けるのではないかと、早速翌日大塚君に話しました。大塚君は快諾してくれました。大会の出場には学校の先生の引率が必要だったので、将棋部のない宇和島南高校で私1人の為には先生にお願いする事は出来なかったかも知れません。団体戦だとお願いし易かったのです。団体戦は3人1チームなのでもう1人探す必要があります。丁度同じクラスに吉田中学の1年時の同級生の島津孝司君がいて、4~5級位指せるのを知っていたので頼んでみると出場してくれる事になりました。後は引率の先生を探せば出場できます。私達3人は1年1組だったので、担任の英語教師だった中村陽一先生にお願いしてみました。すると即答で当日の大会会場に来てくれ事になりました。会場は済美高校だったので休みを1日潰すことになるのにスムーズに話が進み、第19回高校選手権愛媛県大会に宇和島南高校1年1組で出場する事が決まりました。大塚君と島津君は運動部にも入っていたのでそんなに多くは練習出来ませんでしたが、放課後の空き時間で練習しました。対局数が増えて行くとやはり私の方が分は良くなっていきました。大洲青年の家では負けましたが、3連勝して1敗、5連勝して1敗と言う感じになりました。大会前には私が10連勝した事もありました。

私が高校に入学した頃の宇和島市内の将棋事情は、私が中学1年の時に2回ほど行った和霊神社横の大高道場はやっていたようですが、宇和島市のローターリー近くにと金クラブと言う将棋道場が出来ていました。カメラ店の2階と3階で平日は2階席のみ、大会になると3階席を使い100人近く入れる道場でした。高校から宇和島駅の途中にあり学校帰りに立ち寄るには丁度良い場所でした。毎月第4日曜日に例会が開催されていました。参加クラスは超A・A・B・C・Dクラスの5クラスに分かれていて毎月上位2名が昇級・下位2名が降級するシステムでした。私が初めて出場した4月の大会では、超Aに出場を希望しましたが、初めてなのでA級からの参加になりました。大会のルールは総当たりリーグで昼食は合間で取り、18時終了でそれ以降は次の対局には入れないルールでした。勝ち星が多い人が優勝同じなら対局数が多い人(負けが多い人頑張って対局したという事)と言うルールでしたそれも同じなら直接対決だったと思います。その大会で私はA級で優勝する事ができ、次回の大会からは超Aに上がる事になりました。A級優勝者はと金クラブ師範の山川信雄(愛媛県名人4回当時の南予の第一人者)さんと記念対局して勝つと賞金がもらえました。棋譜が残っていますが山川さんの三間飛車に対して得意の居飛車穴熊で勝ち賞金を頂きました。ご祝儀の要素も多かったと思います。次の例会の時は松山から清水一郎君が私の家に遊びに来ていて参加しました。この時は何かの記念大会だったようで総当たりリーグ後上位4人でトーナメントをしました。私と清水君はベスト4に残り、私は村上昭三さんに敗れましたが、清水君は決勝で村上さんに勝ち優勝しました。村上昭三さんは赤旗名人戦では何度か県代表になっており、当時は宇和島最強と言われており師範の山川さんも私より今は強いと言っていました。私は高校時代はと金クラブの例会で1度も村上昭三さん勝てませんでした。当時居飛車党だった私は、戦形が相矢倉になりいつも力負けする感じでした。と金クラブの例会で入賞出来たのもこの時1度だけでした。自慢出来る事は宇和島の例会で入賞も出来ませんでしたが、降級する事もありませんでした。私は得意の相手には勝てるのですが、苦手な相手に殆ど勝てませんでした。村上さんは明らかに実力上位ですが、A級クラスの方にも苦手な人には勝てませんでした。この大会の日の事で覚えているのは、大会終了が遅くなり帰りの宇和島から吉田までの電車がなくなってしまいました。清水君と歩いて吉田まで帰ろうとしていましたが途中で挫折して、清水君がタクシー代を出すからと言ってタクシーで帰りました。それで清水君の優勝賞金が殆ど無くなってしまいました。清水君の将棋は天才肌で切れ味鋭い将棋でしたが、この時は高校の将棋部に所属していませんでした。清水君は新田高校でした。新田は前年団体戦県大会3連覇、全国大会は準優勝でした。躍進の原動力は私や市川君と清水君と同じ松山将棋教室に通っていた森本さんでした。森本さんは私より3つ年上になり中学高校で一緒になる事はありませんでした。松山将棋教室では段位は二段で、私は中学時代2局練習将棋を指して勝っていたので森本さんをそれ程強いとは思っていませんでしたが、市川君清水君達は、森本さんは強いと言っていました。段位以上の力があると言っていました。実際、高校の県大会では市川君との当たりを避けて3将に座り全勝で、全国大会でも決勝の麻布戦以外全勝だったそうなので強かったのだと思います。当時の新田高校は2年連続ベスト4、準優勝と全国でも強豪校でした。その年の新田高校は、実力的に言うと森本さんと同じかそれ以上の実力を持った清水君がメンバーに入る事が順当ですが、新田高校は3年でチームを組むと言う方針で清水君は個人戦の出場に回されたそうです。清水君抜きで全国準優勝するのですから、新田高校の選手層は厚かったのだと思いますが、その事が原因で清水君は将棋部を退部していて、次の高校選手権には出場しないと言っていました。

この年の高校選手権は7月10日(日)に済美高校で開催されているのですが、大会1週間前の月曜の愛媛新聞に3日(日)に開催された愛媛五段戦で市川君が優勝して五段位を獲得したと1面の見出しに出ていたのです。県代表ではないですが、当時の段位規定での四段獲得の規定は、県名人獲得、支部対抗戦(団体戦)西地区(西日本)大会優勝(現在はベスト4)、支部名人戦(個人戦)西地区大会ベスト8、県王将戦(今治王将戦)優勝くらいしかありませんでした。五段となると県名人連続3期、通算5期、全国準優勝という厳しさでした。現在は県竜王戦1回優勝で五段ですが、当時は五段戦と言う特別な大会での五段獲得ですがそれだけ参加者も気合が入っていますしレベルの高い大会でした。市川君の決勝の相手はアマ王座戦で全国準優勝の実績を持つ中屋茂さんでしたから一層価値の高い優勝だったと思います。高校2年での一般棋戦の県大会優勝は当時では最年少でした。市川君は私の前に立ちはだかる高い壁のように思えていました。

(続く)