コラム

トップ > 趣味の部屋 > コラム

コラム

#15 「高校1年時代(宇和島南高校)2」

2021.8.26 更新

児島有一郎

昭和58年7月10(日)に済美高校で第19回高校選手権愛媛大会が開催されました。私達は土曜の午前の授業が終わってから3人でJRに乗り松山に向かいました。松山に着くと練習を兼ねて松山将棋教室に行きました。松山将棋教室は、私が宇和島に帰った4ヶ月の間にJR松山駅の近くホワイトコーポと言うマンションから、松山市駅の花園町の通りのビルの2Fに引っ越していました。私が小学5年の時に初めて行った時は花園町だったので元の場所に戻ったのかと思っていましたが、市川君に聞くと元の場所とは少し違う位置だったそうです。何局か練習将棋指しましたが、私以外の2人は全敗でした、初めての場所で初対面の人に勝つと言う事は技術と地力がいる事なのだと改めて思いました。将棋教室を出てから、3月迄お世話になっていた基三郎伯父の家に3人で泊めてもらいました。昨年の夏頃、吉田町で島津君と久しぶりに呑みました。伯父の家に泊まった時の話になり大塚君の話になりました。私が大塚君の事で覚えているのは変わった髪形をしていた理由が、本人曰く家系的に将来は必ず禿るので、今から髪形を楽しんでいるのだと言っている事でした。確かに高校1年の時でも少し透けていましたが、島津君の話はもっと衝撃でした。伯父の家で島津君と大塚君は一緒にお風呂に入ったそうなのですが、島津君は大塚君の体毛が人間とは思えないほど毛深かったとの話で盛り上がってしまいました。(大塚君は今どうしているかわかりませんが大塚君すいません)

翌朝、大会会場の済美高校に向かいました。会場に着いて受付をすると中村陽一先生はまだ来ていませんでした。運営の先生から、引率の先生との打ち合わせ等あるから、大会開始後に引率の先生に〇〇教室に来て頂くように伝えるように言われました。その後中村先生が到着しましたが、真っ白のTシャッ短パン姿でテニスにでも行くような格好でした。打ち合わせがある事を伝えると、こんな格好では出席できないので着替えて来ると言って帰って行きました。

会場に入って参加名簿を見て驚いた事は、市川君が個人戦に出場になっていた事です。団体戦は15校27チームが参加、個人戦は団体戦参加チームに2校を加えた23名の参加でした。当時の愛媛大会のルールは、個人1回戦は個人戦参加者同士で当たります。2回戦からは団体戦1回戦敗退チームの選手も個人戦に回ります。2回戦以降も同じです。団体戦の3回戦で敗退するとチームとしてはそこで終わりですが、団体戦での個人成績が3連勝なら、個人戦予選通過と同じ扱いになり個人戦に回れました。3連勝者が8人いない時は2勝1敗者から抽選で上がれる制度でした。団体戦4回戦敗退はそこで終わりとなります。前年の大会では市川君の松山工業は市川君が大将で団体戦決勝まで進みましたが、決勝戦で新田高校に副将の人が5手詰めを逃して逆転負けしました。その新田高校はその年団体戦で全国大会準優勝したのです。松山工業の先生は、実力県内NO1の市川君がまた昨年のように全国大会を逃しては残念だと言う配慮から個人戦に出場させたと言われていました。

私達の1回戦の相手は八幡浜工業Bでした。大塚君と島津君は初の大会なので緊張している事がわかりましたが、3人が勝ち初戦を突破しました。2回戦は南宇和高校Aでした。南宇和高校は顧問の先生が熱心で将棋にかなり力を入れていました。宇和島と南宇和と言う事もあり、これ以降も2年時3年時と互いが行き来して練習試合を行う事になります。南宇和は3年生3人のチームでした。私の対戦相手の大将は、特に自信満々で席に座ってから副将と3将に、相手は1年ばかりだし俺は絶対勝つからどちらかが勝てと言うのです。私は内側から燃えるものが込み上げてきました。対局が始まり相手は初二段位の力があり、危ない局面もありましたが勝つ事が出来ました。島津君は敗れましたが、大塚君も何とか勝ち切り2勝1敗で勝つ事が出来ました。南宇和高校の大将が呆然としていた事を覚えています。個人戦はここで波乱が起こりました。優勝候補大本命の市川君が2年前の準優勝者の沖田靖彦(今治工業2年)さんに敗れたのです。沖田さんは続いて前年優勝者の、松山将棋教室での友人だった山口公文(松山北3年)さんも倒しました。市川君、山口さんが予選敗退となりました。山口さんも将棋教室では二段で指していたので、沖田さんも同じ位の棋力はあったのではないでしょうか。沖田さんは勢いに乗りこの大会を優勝しました。私達の準々決勝は新居浜高専Aでしたがここは3連勝で勝ちました。準決勝は今治西高Aと当たりました。私は今治西高Aを一番警戒していました。私と対戦する大将の飯淳さんは、私が中学2年の時に今治王将戦のA級の予選で対戦しており強い事を知っていました。その時は私が勝ったのですが、飯さんは中学生の私を明らかに格下だと思っていた為に、今回は何となく自信がありませんでした。対戦前に飯さんは私との対局の事は忘れていたようですが、その話をすると飯さんは思い出したように顔つきが変わりました。対戦相手と対局前に話をする事がこの当時の私の欠点でもありました。気合の入った相手に気持ちで押されるように私は敗れました。大塚君と島津君も共に敗れて3連敗で準決勝敗退となりました。今治西高は決勝では大会4連覇の掛かった新田高校を準決勝で倒した八幡浜工業Aを倒して優勝しました。この時の飯さんと3将の方は、将棋の強豪大学である早稲田大学に進まれ大学でもレギュラーだったそうなので、優勝も当然の結果だったのでしょう。私たちも敗れはしましたが宇和島南高校1年1組で、県大会ベスト4と言う結果に学校でも将棋同好会を創ればとの声が上がり、顧問の先生も見つかり、同じ1年生でしたが部員も数名入部してくれて宇和島南高校将棋同好会が2学期には発足しました。

将棋以外では、高校入学後に宇和島に少林寺拳法を習いに行き出した事と、朝の牛乳配達を始めました。牛乳配達は元々弟の伸宏がしていた地区を、割の良い配達が見つかったので、代わりがいないと辞められないというので私がする事になりました。牛乳配達は1本単位で配達の料金が決まるのですが、私の配達区域は、吉田町の喜佐方と言う区域で私の家から片道7キロ往復で14キロありました。しかも途中で右側と左側の山に分かれていて両方配ると時間が掛かり過ぎるので、山沿いの方は1日で2日分を1日置きに配達する事になっていました。牛乳配達は新聞配達と違い日曜日に2日分を配るので月曜が休みだったのですが、日曜日だけは、両方の山沿いを2日分の牛乳を持って配っていました二日分なので重いですが、学校がないのでゆっくり配れます。配達の距離はありますが家の件数が少ないので23件(本数は覚えていませんが)配って1ヶ月で7000円でした。松山で新聞配達をしていた時よりかなり分の悪いバイトでしたが、この頃は身体を鍛える事が好きだったので、バイトと言うより体力造りの目的が強かったです。配達が終わると雨の日は電車で高校に通いましたが、天気の良い日は自転車で宇和島に行きました。これも片道10キロ以上はあり途中には知永峠と言う難関があります。通いだして数日は知永峠を自転車で一気に登る事が出来ませんでした。これが登れるようになると学校まではダラダラと下っているので、比較的楽な道のりでした。帰りの方が大変でダラダラした上り坂を帰ってこなくてはならず、登り切ると急な下り坂なので5分以内で家まで着いてしまいます。自転車で通った理由は、宇和島駅から学校までが徒歩で30分近く掛かる事と、電車に乗り遅れると1時間に1本しか電車ないので時間潰しが大変だったからです。自転車だと飛ばせば30分ほどで家まで帰れました。松山と宇和島の道路事情の違いは信号が少ないという事です。松山だと信号に掛かると1分以上は止まりますが、宇和島では信号に引っかかる事が少ないのです。5月から夏休みくらいまでの週3回は、学校から帰ってからまた宇和島に行き少林寺拳法の道場に行っていましたから、道場のある日は1日60キロ以上、ない日も40キロは自転車に乗っていたのでかなりの体力作りになりましたが、少林寺拳法の始まる時間が遅く家に帰っていると10時になり、大変になって来ました。そんな時に吉田町の少林寺拳法の愛好家の方々が、吉田中学校の体育館で週に3日で練習会をする事になったので、そちらの方に移る事にしました。

(続く)