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#29 「松山商科大学(定時制)時代 8」

2022.11.3 更新

児島有一郎

4回生になり、生活面で変化がありました。1つは学校に行く日が減った事です。1年で8単位を取得すれば卒業できることになったので、履修は目一杯取りましたが、出席する授業は週1日で済むように2科目にしました。今考えると1つ落とすと卒業できないので、あと2科目くらいは出席した方が良かったと思いますが、なぜか落とす心配はしていませんでした。出来るだけ仕事をしようと思っていたので、学校は週1日しか行かなくなりました。夜の空いた時間は、将棋部に行ったり、週2回ほど伊予鉄スポーツセンターのトレーニングジムに通ったりしていました。この頃が一番筋トレに嵌まっていて、マンションのベランダにもベンチプレスを置いて50~70㌔位で練習していました。ベランダには屋根がなかったので、雨の日はジムに行くか練習は休みでした。今でも胸囲は103cmあるのですが、この頃は108cmありました。体重63kgで今(65kg)とそれ程変わりませんがウエストは大きくなっていますが、38才の時には最高79kgあったのでそれも仕方のない事だとは思います。

もう一つ変わった事は、花園のアルバイトから社員になった事です。これは吉田社長から、社員にならないかと誘われ私も会社が好きだったので正社員にしてもらいました。しかし、今考えると社員の定義が良くわからない事があり、本当に正社員だったのかと思う事もあります。花園は株式会社でしたが、厚生年金、健康保険はなく、私が年金に加入したのは大学卒業後の次の就職先からです。国民年金は概念がありませんでした。税金なども給与から引かれず自分で払っていました。変わったのは給与が日給月給から基本給に変わり、手当てが付くようになりました。主任手当、皆勤手当等で月2万程です。それと伊予農業高校を卒業した新卒が5人(宮田君・中野君・砂野君・源君・矢野君)入社してきて先輩としても忙しくなりました。新卒の5人の仕事は主に、久米窪田町にあったビニールハウスでのバラの栽培をする事でした。伊予鉄そごう(現伊予鉄髙島屋)の店舗で生花を販売していましたが、バラを生産販売すればコスト効率も上がると考えられたようです。それまでも社長は少しバラを作っていましたが、市場で仕入れるような品物は作れなかったようです。そこで農業高校からの新卒5人で、本格的にバラの栽培を考えたようです。私もその5人と大学の後輩の相原君とそごうの店のアルバイトの学生など、仕事上での後輩も出来何かと忙しくなりました。私は、この頃に母の弟の勝秋叔父に仕事上での後輩との付き合い方を聞いた事があります。勝秋叔父は私が中学時代にお世話(居候)になっている頃は、岩崎電工という雪印の自動販売機を販売する会社に勤めていました。とにかく仕事熱心でセールス力があり、当時で1台50万の自動販売機を月に10台以上販売していました。15台売った月は全国で1位だったと話していました。今から10年以上前ですが、知り合いからに紹介で自動販売機の業界に付いて知る機会がありました。自動販売機は販売するものではなく、置いた側が電気代を負担して家賃を貰う業界だと知りました。私が勝秋叔父にその話をすると、40年前からそういう業界だったと言っていました。その中で1台50万の販売機を売っていたのだと、その数年後に岩崎電工は倒産してしまいましたが、私は勝秋叔父に仕事上での後輩との関わり方を聞きました。叔父は飲み会などで後輩の面倒を見る事も大事だけど、一番は自分が仕事を頑張って、後輩のお手本になる事だと言われました。私は今でも勝秋叔父の言葉を忘れずに仕事をしているつもりです。

5月の中四国大会は、前期でB級1組に降級したのでA級復帰を目指した大会でした。前大会と前々大会では姑息(大将から3人当て馬作戦)な手段を使い戦わなければいけない戦力でしたが、松大(この年度から松山商科大学から松山大学に校名変更した)に私が中学時代に通っていた、松山将棋教室の後輩になる武田裕司君が入部してきました。武田君は私が中学3年の秋頃、松山に引っ越して来て将棋教室に通い始めの頃は、私が受験勉強で教室に行っていなかったのであまり接点はありませんでしたが、強い小学生(小学6年)が来たとは聞いていました。私がそのまま宇和島に帰ったので武田君とは、あまり面識はありませんでしたが、武田君が中学1年時の全国中学生名人戦で、全国3位に入賞してから強い事を意識するようになりました。高校時代に松山に行った時に指すようになり、宇和島の月例会にも誘って一緒に出た事がありますが、中学生で初参加で優勝しました。私は高校3年間で3位が最高でしたから、その時でも私よりかなり強かったです。その日は私の実家に泊まったので、何局も将棋を指しましたが1回も勝てませんでした。読みの入った手厚い将棋でした。高校時代には第1・2回全国アマ竜王戦の愛媛県代表になっています。愛媛県で高校生以下が県代表になる最初だったのではないかと思われます。また、詰将棋が得意で創作もしていて、詰将棋サロンに入選もしています。その武田君が入部してきて、前田君と私、なぜかまだ大学にいた6回生の植條さん、3回生になるはずの田中君は大学を辞めていて戦力ダウンでしたが、成長してきた2回生の中西君と高山君と前期よりは期待の持てるメンバーで中四国大会に臨む事になりました。広島での開催という事もあり交通の便も良く、私としては参加もし易く、4回生の私としては前期降級したので、何とかA級に復帰し秋の最後の大会ではA級で参加したいと思っていました。しかし、結果は2勝3敗で4位でした。結果論ですが1敗の山口大学との直接対決に勝っていれば、昇級出来たようですが、山口大学には2勝5敗で敗れたので2人が勝たないといけませんでした。私も4勝1敗と全勝は出来ず、山口大学に敗れていたので仕方ありません。A級昇級は出来ず、最後の中四国大会をA級で迎える事は出来なくなりました。GWの忙しい時に仕事を休んで出場していたので、個人戦には参加せずに松山に帰り翌日から仕事に行きました。

余談な話ですが、この当時も私は自炊をしていました。筋トレをしていたのでよく食べており、外食ではお腹が満たされなかったからです。カレーを作る時は大鍋で作り1日3食1週間でも食べ続けました。当時は辛子明太子も好きでしたが、高島屋の食品売り場で一腹1500円の辛子明太子を売っており、それを購入して3日間に分けて明太子と、大量のご飯だけを食べ続ける事もありました。高校時代に学校の帰りにラーメン豚太郎でラーメンをよく食べていましたが、ラーメン・焼き飯・餃子を一度に注文する事が夢でしたが、それは、大学に入って実現出来ていました。もう一つ出来ていなかった事は小僧寿しのパーティ寿司を1人で食べる事でした。子どもの時は兄弟3人で1桶を分けるので物足りませんでした。親戚の引っ越しに手伝いに行った時に昼は小僧寿しにする事になり、私が1桶食べたいと言うと、手伝いに来ていた弟の伸宏も1桶食べたいと言い、兄弟で同じことを思っていたのだと思いました。子どもの時からの食べる事での夢の最後は、吉野家の牛丼を並・大・特盛と同時に食べる事でした。これは13才の時に松山将棋教室で私がお腹空いたと言うと、石丸哲(多分、当時25才)さんが牛丼を食べにJR駅前の吉野屋に連れて行ってくれました。その時、石丸さんが猛スピード牛丼を食べるので、私が急いで食べているとゆっくり食べて、私はもう一杯食べると言って牛丼をお代わりしました。牛丼をお代わりする石丸さんを私はカッコいいと思い。将来は牛丼のお代りが出来る男になりたいと思いました。石丸さんを越えるには牛丼のフルコース並・大・特盛を食べなければと思ってはいましたが、中々食べようとは思いませんでした。しかし30才を過ぎた頃、その事を友人に話すと、ご馳走するから食べたらと言うので達成出来ましたが、年齢的に無理した感があり、その後は大食いの教え子ともう一度食べましたが、食後に食べた事を後悔するのでそれを最後に止めました。

大学3~4年時に良く外食していたのはお好み焼きでした。花園と自宅との間にタンポポと言うお好み焼き屋さんがあり、美味しかったので良く行っていました。気の良いマスターがやっており、私が昼、夜と2回行く事もあるので、お好み焼きばかりだと飽きるだろう言って、勝手にカツ丼とか自分達の夕食を出してくれたりしました。そんな時はお金は受け取ってくれませんでした。マスターは当時4才位の娘さんと2人暮らしで、お店の横に住んでいました。ある日、私が夕食を食べに行くと今夜はカレーだと言われました。娘さんがご飯を入れてくれたのですが、マスターが炊いていた3合のご飯を全部皿に盛っており、カレーを盛るスペースがありません。マスターが私の目の前にカレー鍋を置き、お玉で掛けながら食べなさいと言うので、頑張って食べ完食しましたが、あれ程お腹一杯になった事はその後もありませんでした。しかし、家に帰ると友人が来ていて、一緒にファミレスに行きフルーツパフェを食べました。甘いものは別腹でした。

それから11月の最後の中四国大会まで私は仕事に邁進しました。最高3ヶ月間1日も休まずに仕事に出た事もあります。社長が身体、大丈夫かと心配してくれましたが、やはり若さなのか疲れはなかったです。休日出勤するとその分、給料が増えるのでそれが楽しみでした。私は今の将棋教室・道場の仕事になってからも10年程はインフルエンザで寝込まない限りは、年に2~3日しか休まず仕事をしていました。仕事が趣味の将棋なので休まず出来ましたし毎日詰将棋・棋譜並べはしないと棋力の維持も出来なと思い練習もしていました。しかし、40才を過ぎた頃から、相当に無理が祟ったようで身体のいたるところに痛みが出ました。そうして49才の時に胸膜炎になり、(原因の50%は肺癌とも言われましたが、運良く過労から来る原因不明の胸水でした)今も年2回の検査に県病院に通っています。当時は働き過ぎで病気になるとは思いもしませんでした。

(続く)