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#30 「松山商科大学(定時制)時代 9」

2022.12.7 更新

児島有一郎

今回は、花園での出来事です。相原君の運転で軽四トラックのホロ付き車で今も本町にあるKBコート本町に観葉植物の配達に行きました。行きは裏口の駐車場に通じる道路から駐車場に入りましたが、配達を終えると道路に直接出られる潜り抜けの通路から出ようとしました。私が「通れるの?」と聞くと「大丈夫ですよと」と相原君は答えましたが、通路の真ん中まで進むとホロが天井に閊えて全く動かなくなりました。前にも後ろにも進む事が出来なくなりました。そこまでは入って来たのに、なぜか下がる事も出来ません。私が荷台に乗り負荷を掛けましたが動きません。次に荷物をタイヤの上に集めて負荷を掛けてみましましたが動きません。どうしようもなくなり首藤さんに連絡しました。首藤さんはなぜこんなところを通ったのか、呆れ顔でしたが、タイヤの空気を抜く事にしました。流石だなと思いましたが、全てのタイヤの空気を抜きましたが動かないのです。どうしてここまで入れたかが不思議になりました。結局、ハンマーでホロの内側の金具部分を四ヶ所叩いて、ホロの高さを低くして、やっと脱出する事が出来ました。当分の間少し低くなったホロ車を見る度に自分達のやった事を思い出すのでした。

次は夜の観葉植物のリースでの出来事です。その時は私が責任者で新入社員と2人での仕事でした。集金も私の仕事でした。しかし、新入社員に仕事を覚えさせようと、1件だけ集金に行ってもらいましたが、事務所に帰ってお金を計算すると、1万円足りないのです。当然ですが責任者の私が弁済する事になりました。新入社員に1件とはいえ集金を任せた事を後悔しましたが、自分の責任で人に任せたのですから仕方のない事です。お金の管理という事を改めて学んだ出来事でした。

この頃は、そごうのお店に入る事が多くなりました。先輩の女性店員さんがいたのですが、休みと休憩時の交代要員と入る事が増えました。私はそごうでの販売の仕事は嫌でした。まず接客が苦手な事と、平日の売り上げは3万円位だったので、お客様も少なく時間が経ちませんでした。あと自分の作った花束やフラワーアレンジメントが売り物になって良いのかとも思いました。アレンジメント教室に何度か習いには行きましたが、そのくらいのレベルで売り物のにして良いのだろうかとも思いました。そごうのテナント等の箱庭造りなども任せてもらっていましたが、全く勉強もしたことなく、先輩達が造るのを見ていた程度です。私が自信なさそうにしていると、社長は決まってこう言うのです。「自分が綺麗と思ったら、他人も綺麗と思うのだから自信を持て」と言うのです。しかし、フラワーアレンジメントを展示販売用のアレンジメントを作ると、先輩店員さんからは必ず、ダメ出しを受けていました。今思うと私の作るアレンジメントは少し個性的だったかも知れません。この頃の経験があったので、今でも花束くらいは作れるので、女子アマ王位戦の四国大会を始めた頃は、女性の大会だからと思い道場に少し花を飾り大会が終わるとその花を纒て花束を作り優勝者に渡したりしていました。

10月27日~29日の日程で、私の最後の中四国大会が高知の桂浜荘で行われました。私は松山大学をA級に復帰させて引退したいと思っていましたが、最後の大会なので、後輩達に一つだけお願いをしました。それは大将に座る事でした。中四国大会の団体戦に、ここまで7度出場し実質5将で指してきました。大会の成績は大会順に(1年時B級4-1・A級3-1・2年時A級0-4・3-1・3年時A級4-0・3-1・4年時B級4-1)と団体戦には貢献してきたつもりですが、1度だけ大将に座ってみたい気持ちもあり、後輩たちにお願いして座らせてもらいました。この時の部長は吉田昌央君(3回生)で私の宇和島南高校の将棋部からの後輩でした。私が創った高校の将棋部に吉田君が入部してからの付き合いなので、我儘も言いやすかったです。吉田君はおとなしく真面目な性格で、将棋は級位者(1級位)でしたが人望があり部長になっていました。高校の将棋部に入部して来た頃は、大学でも将棋を続けるとは思ってみませんでしたが、吉田君と2つ上の先輩の植條さん(6回生)の後押しもあり大将での出場を認めてもらいました。大会では全勝で昇級した山口大学と広島工業大学に3-4負けを喫して最終戦は優勝の可能性はなくなっていました。私も1敗して、大学最後の団体戦最終局は島根大学との対戦で、大将戦は私と伊ヶ崎博さんとでした。伊ヶ崎さんは、後にアマ竜王・西日本支部名人等を獲得する私達の世代の全国強豪ですが、大学に入った頃は知りませんでした。しかし1回生でいきなり春の中四国名人となりました。同期になる松山大学の武田君がその後も勝てなかったので、当時から相当強かったのだと思いますが、私は一発入れてやろうと相当な気合で臨みました。熱戦で相入玉になり、他の対局が終局して行く中で最後まで残り30秒将棋を指し続けて敗れた記憶はあります。その対局から20年程後に伊ヶ崎さんと話す機会があり、私が伊ヶ崎さんと指した事を覚えているのは当たり前の事ですが伊ヶ崎さんが私と指した事を覚えていて、秒読みを延々と指したのに、チームの勝敗には全く関係ない勝負だったと言われ伊ヶ崎さんの記憶力に驚きました。結果は松山大学の5―2勝ちでした。チームは勝ちが決まっているのに、私は最後の団体戦だったので投げ切れず指していました。最後の大会の結果は、松山大学は3勝2敗で3位でしたが、全勝の山口大学との直接対決に勝っていれば勝点、勝数が同数ながら直接対決で勝っているので昇級出来ていました。しかし、それは結果論に過ぎません。この時は最後の大会だったので、久しぶりに個人戦も出場しますが、予選通過後1回戦で岡山大学田辺さん(多分同期生で高校の全国大会でも当たっている)に敗れ私の大学将棋は終わりました。個人戦は最高がベスト8と大した成績は残せませんでしたが、強豪と早々と当たる事も多かったので、この頃の実力を考えると仕方なかったかもしれません。

12月に入り花園での仕事は忙しくなりました。お歳暮の配達や、クリスマス関係の配達で毎日が残業状態でした。そごうのクリスマスの飾り付け等も忙しかったですが、クリスマスイブは配達が物凄い件数ありました。道が混んでいて渋滞で動かない状態でした。当時なので地図を見ながらの配達で夜遅くに行くと、表札が見えずに家が分からない事も良くありました。表札の無い家もあり配達は大変でした。留守の時は社長の考えで家の裏に置いて帰り、後で電話連絡する事にしていました。もし無いとか、傷んでると言われたらもう一度持って行く方が効率的に良いと言う社長の考えでした。クリスマスの配達が終わると次は、25日の夜のそごうが閉店してからのクリスマスの飾り付けから、年末用の飾り付けに変更の仕事です。19時に閉店でそれからの仕事なのですが、日付が変わるくらいまで仕事をしていました。大晦日はもっと大変でした。閉店してからそごうのテナント毎に正月飾りの壼活けをして行きました。この日は年が変わるまで仕事でした。会社に帰りホッとして、新年の挨拶をして給料を貰いました。初めての事でしたが、給料に残業代が入り30万とボーナス30万を頂き、合計60万貰いました。こんな大金を手にしたのは初めてで嬉しくなり、深夜でしたが新年なので北久米町の基三郎伯父さんの家に行った事を覚えています。この年は1日だけ休んで2日から仕事しました。そごう店が2日から営業なので、品物の搬入などの業務があり、本店では私だけが仕事をしました。3日まで仕事して4日から休みを貰い宇和島に帰りました。この年は1989年で昭和最後の年が7日で昭和天皇が崩御され年号が平成に変わりました。私は7日の夕方松山に帰る事にしていたのですが、何か車の調子が変でした。松山に帰ってからは雄新中学時代の同級生の神谷君と呑む約束をしていました。車の調子が悪いと思いながらも吉田町を出発して大洲を過ぎた辺りで水温計が上がりオーバーヒートしている事がわかりました。もう少し行けるかなと思い走りましたが、座席下から煙が出て来たので内子町立川のガソリンスタンドに入りました。座席の下のエンジンルームを開けると凄い煙が出て来て運転席は真っ白になりました。ラジエターに水を入れてみましたが、穴が開いていて水は駄々洩れで入りません。仕方なく近くの修理工場の方に来てもらい車を預ける事にしました。午後6時頃でしたが、かなりの暗さになっていた上に小雨も降って来ました。手に持てるだけ荷物を持って立川のバス停で松山行きのバスを待っていました。6時40分位が発着時刻でした。小雨が降っていたので、バス停横の焼きサバを売っているお店の軒先に居ましたが、バスが来たのでバス停の方に行ったのですが、バスは止まらず私の前を通過していきました。次のバスは2時間後で、なぜJR駅のある大洲で止まらなかったのか後悔しました。立川にも少し離れた所にJR駅はあるのですが、電車の時刻も分らないので行く気にならず、立川郵便局横の公衆電話から友人の家に電話してみましたが留守で出ませんでした。バス停のベンチに座って途方に暮れていると、1台の軽4が私の前に停まり運転しているお爺さん(多分60才位だけど)が何所迄行くのと聞かれました。「松山です」と答えると乗って行けと言われました。私は知らない人の車に乗るのも怖かったのですが、1時間半も待たないといけないので、乗せてもらう事にしました。私が一番心配したのはその日が昭和最後の日だったので、天皇陛下が崩御されると、一緒に殉死する人がいると言う話を思い出し、私を道連れに谷に飛び込むのではと心配していました。気を紛らわすためにその方と出来るだけ話をしたのを覚えています。なぜ乗せてくれたのかと聞くと「あの時間だとバスは来んだろう」と言われました。その方は松山の藤原町に住んでいてその辺りで下ろしてもらいました。雨が降っていたので傘を貸してもらい。そこからタクシーで帰りました。翌日、その方の勤め先だった千舟町の当時紀伊国屋があった近くのパン屋さんに行きお礼と傘を渡しました。帰った日には友人と飲みに行きましたが、街の店は全て閉まっていて結局、コンビニでツマミとビールを買って家で飲みました。後日、店の人に聞くと天皇陛下が亡くなったので、お店を休めと警察から通達があったと言われました。

(続く)