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#31 「松山商科大学(定時制)時代~花園 10」

2022.12.31 更新

児島有一郎

2月になり大学の後期試験が始まりました。私は授業に出ていた2科目だけの試験を受けました。仮に合格点達していなくても、卒業が掛かっている場合は追試験が受けられるので、卒業者発表の時は、卒業者か追試者のどちらかに名前がある事になっているはずでした。追試者を落とす事はないと聞いていたので、その年は必ず卒業できると考えていました。私は卒業者発表の日に大学事務局の前に行きましたが目を疑いました。どちらにも私の名前がないのです。何度も見返しましたが名前がありません。私は事務局に入り、どちらにも名前がない事はおかしい事ですと事務局の方に説明しました。すると事務局長のK口さんと言う方が対応してくれました。私が「どちらかには名前がないとおかしいのです」と言うとK口さんは「名前がないという事は卒業出来ないという事だ」と当たり前のように言いました。私は単位の説明をしましたが、単位が足りないから卒業は出来ないと言うのです。私は私の成績表を見せてくれと粘りましたが、ここでは見せられないの一点張りでした。家に帰って調べればわかる事でしたが、納得が行かず時間ももったいないので、K口さんと30分程押し問答をした末に、K口さんが折れて、奥の応接室に通してくれて私の成績表を見せてくれました。そして単位数を数えてみなさいと言うので、私が2年時から修得した単位を数えました。(1年時は入学直ぐに休学したので単位は0です)何度数えても2単位足りないのです。私は唖然としました。あれ程、4年の履修時に単位数を確認して2科目で卒業できると思っていたのに、2単位足りないとは、私は諦めきれず15分程成績表を見ていました。するとK口さんが「私もおかしいと思ってのだよと、履修は沢山しているのに1時限も出席せずに2単位足りないとは、もし君が履修科目を1時限でも出席していたら、追試を受けさせても良かったのだと」言うのです。私は気休めの様なK口さんの言葉とは思いましたが、ここで土下座でもすれば追試を受けさせてくれるかなと一瞬思いました。しかし、1年時に休学しているので残り、半期は通えるので次年度の前期で2単位取れば卒業は出来ました。また、半期分の学費がいるなとお金の事を考えながら半ば諦めかけました。会社に絶対卒業は出来ると言いきって出て来た事が恥ずかしいと思うくらいでした。仕方なく諦めて帰ろうとした時でした。私は成績表のある事に気が付いたのでした。私が2年時に修得した単位(4単位物)が成績表では2単位と印刷されている事に気が付きました。私がその事をK口さんに指摘すると、K口さんは少し間を置いて「本当だな」と答えました。そして今度はK口さんが俯いたまま黙ってしまいました。私が「卒業は出来るのですか」と聞くと「出来る、出来るよ」と答えられました。私は卒業出来るなら良いかと軽い気持ちで思い応接室を出ようとしました。すると応接室の出口付近まで来た時に、K口さんが両手で私の両肩を強く掴み、「卒業は出来るけど、この事は誰にも言わないでくれ、この事が分かると私は首になる」と言うのです。私は「卒業出来るなら誰にも言いませんよ」と言って部屋を出ました。よくよく考えると成績表の印刷ミスなので、被害者は私だけではなさそうですが、ここまで履修ギリギリで卒業する人もいなそうなので、余り関係ない事ではないかと私は考えました。そして、会社に立ち寄り、誰にも言わないとは言った直ぐにその出来事を専務に話してしまいした。専務はそれ変じゃないかと言いました。その事務長の一存で卒業できるようなものではないかと言うのです。確かに言う通りなので、私は翌日また事務局に行きました。K口さんに本当に卒業出来るかと改めて聞くとK口さんは昨日より軽い口調で「卒業出来るし、卒業証書もあるよ」と言ってきましたが「卒業式は出る?」と聞かれました。私は卒業式に出たい訳ではありませんでしたが、その言葉に反応して「出ますよ」と言い返しました。卒業式の日、式が終わってK口さんに会うと「卒業証書あっただろう」と言われ何か腑に落ちないままに卒業する事になりました。数年後に、卒業証明書を取りに行った時も取れたので、卒業出来ている事には間違いないようです。しかし、今振り返っても大学で勉強して残っている事は何もありません。とにかく如何に卒業出来るかを考えての履修だったので、大学行った意味があるのかと思う程です。

大学は短大でしたが、結局4年掛かって卒業したので、4年制大学に進んだ同級生と同じ卒業になりました。卒業時の思い出としては、宇和島南高校の同級生で良かった友岡純君が、松野町役場に就職したので、同級生4人でお祝いに行こうと友人の軽四に乗って松野町に行きました。3月の末でしたが友岡君の勤務はもう始まっていました。私達は午後1時過ぎに役場の駐車場に到着し持って行っていたバレーボールで、役場の駐車場で遊んでいました。友岡君も黙っていれば、誰が遊んでいるかはわからないはずなのに、鬼の様な形相で駐車場に出て来て「お前ら帰れと」と怒るのです。普段は温厚で怒る事のない友岡君ですが、私達が怒らそうとしてやっているとしか思いえない行動に、切れてしまった様です。

卒業してから、一層仕事に力が入りました。5月の母の日の数日前は、数日前からフラワーアレンジメント造りに追われました。予め作っておかないと間に合わないほど売れるのです。首藤常務と私は、金曜は徹夜でアレンジを作りました。パートの方も夜遅くまで作ってくれました。そして、そのまま土曜日に突入して、伊予鉄そごう店が閉まってからまた本店でアレンジメント作りです。首藤常務と私が午前2時頃まで作業をしていると、吉田社長が出て来て、身体を壊すから帰って休めと言うのです。私達がこれでは「足りませんと言うと」社長は「出来るようにすればいいから」と言ってくれましたが、首藤さんと私は6時に集合しようと言って家に帰りました。私はシャワーを浴びましたが、前日も寝ていないので、寝たら起きられないと思い4時頃、会社に戻りアレンジメントを作り始めましたが、なぜか思うように手が動かないのです。何となくですが1個作るのに、3倍くらいの時間が掛かったような気がしました。首藤さんはやはり起きられず、8時過ぎに出てきました。私は2晩徹夜して、そごう店に入りました。その日のそごう店は戦場の様な忙しさで、日頃3~4万しか売り上げの無いお店が、その日は80万以上売れました。1日はアッいう間に終わり、眠気を感じる暇はありませんでした。若いから出来た芸当だと思います。しかし、私にとってはそこからの方が地獄でした。そごう店を閉めて本店に帰ると、社長が「お疲れさま」と言って食事に行こうと言うのです。首藤さんは、疲れていると言って帰ってしまいました。私は社長と2人で、東野町にあった社長の行きつけの海舟(今も松山市内にあるお店です)と言うお鮨屋さんに行きました。本当は帰って寝たかったのですが、社長の誘いを断るのも悪いと思った事と、どれくらい連続で起きていられるかに挑戦したい気持ちもありました。お店に行ったのは9時頃だったと思いますが、社長の話が思いの他長く、中々帰らしてくれず、酒も入り睡魔との格闘でしたが、0時にお開きになりました。私は家に帰ると直に寝てしまいましたが翌日も7時半には起きて、遅刻することなく8時の仕事に行けたので、体力は相当あった頃と思います。今も、年間あまり休む事なく仕事を続けて行けるのも、この頃の仕事に比べればと思う気持ちがあるからだと思っています。

この時期だと思うのですが、母親にも転機がありました。長年勤めていた三瀬商店から、吉田町に新しく出来た介護施設オレンジ荘に転職する事が出来ました。介護の仕事なので大変だったとは思いますが、母もそれまで大変な仕事をしてきたので、仕事の愚痴などは聞いた事はありませんし、子ども3人が一応巣立ち(2番目の弟はまだ大学生でしたが)今までの生活を考えるとゆとりが出て来ていた時期の様でした。休みの日には仕事仲間と温泉に行ったり食事に行ったと聞くようになったので、母の人生では一番平穏な日々ではなかったのかと勝手に思っています。また、一応公務員だったので年金の制度もしっかりしていたおかげで、今の母の生活の基盤になった事も大きい事でした。唯、生涯で一度だけの事ですが、この時に母からお金の事を相談された事があります。大阪の咲子伯母さん(母の姉)から私たちが、高校に進学する時に借りていた100万円を出来るなら返して欲しいと言われていると話されました。母は子どもにお金を要求する事は、それまでもその後も一度もなかったので、困っている事を話しただけだと思うのですが、私は一番下の弟の伸宏にその事を話し2人で50万ずつだして何とかしようと相談しました。伸宏は2年間の自衛隊生活を終え、福山通運に就職したところでした。自衛隊時代はお金を使う暇がなく、福山通運の給料も当時は良かったので、貯金もあり直ぐに出すと言ってくれました。あまり覚えてないのですが、母がびっくりしていました。

花園での母の日が終わった頃でした。私が花園のパートの人達に給料を話すと、私くらい働いていれば、もっと貰えても良いはずだと言ってきました。私は収入は多い方だと思っていましたが、何か仕事に疲れている部分もありました。仕事以外の事が何も出来ていない事もありました。そんな時に、母から大学も卒業したのだから転職したらどうかとも言われました。母は私の仕事の事を私の義理従弟に当たる忽那誠一さんに相談していました。義理従弟と言っても忽那さんは母と同じ年で、今もある愛媛日立と言う日立製作所の子会社では四国で一番大きい会社の社長をしていました。日立関連なら紹介できると言われていると言ってくれました。私は花園への愛着もあり仕事も頑張っていましたが、社長と2人で吞んだ時に、私がどれだけ仕事を頑張っても首藤常務より上に行ける事は無いと言われました。社長にすれば何気ない一言だったと思いますが、私はその言葉で花園を辞める事にしました。それから母に就職の事を頼みました。9月になり日立化成の四国の子会社になる四国日立化成住器の面接が決まり、花園を辞める事を社長に伝えました。社長は「そうか」と一言だけ言って受理してくれました。私が辞めそうだという事は何となくわかっていた様な感じでした。

(続く)