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#33 「四国日立化成住機時代 2」

2023.3.8 更新

児島有一郎

この頃の記憶は少し曖昧です。毎日が、仕事と将棋の繰り返しで単調な日常を送っていた為に記憶がありません。平成2年の10月に四国日立化成住機に入社し年末辺りから、将棋の勉強を毎日する様になったと思います。この頃、始めた徹夜将棋練習会の事をツキノワグマ会と呼んでいました。命名者は市川君で書く事が恥ずかしいくらいのくだらない理由で名付けました。現在の松山将棋センターでの子ども達の有段者リーグのヒグマ会・小熊会はその延長での命名です。土日の夜は練習が終わると、メンバーで焼き肉をよく食べに行きました。店は決まっていて北梅本町の方にあった「ていれぎ亭」に行っていました。ここには1800円食べ放題がありみんなでたらふく肉を食べました。特に私と武田裕司君が大食いでした。メンバー2人の時は土曜の昼から将棋を指し夜は焼き肉食べ放題に行きます。ていれぎ亭では8種類の肉が食べ放題なのですが、私と武田君の2人で全メニューを5人前ずつ頼みます。全部で40人前ですが、それにご飯大盛2杯を食べていました。この頃はお酒を飲まなかったので食べる方が専門でした。食べ終わると肉は当分いらない気分になるのですが、それから徹夜で将棋指して日曜の夜になると、また、ていれぎ亭に行こうかと言って同じメニューを2日連続で食べていました。

平成3年は、1日も欠かさず将棋の勉強をしましたが結果の方は出ませんでした。大会では入賞すら出来ませんでした。一般大会でのそれまでの私の成績は、高校1年時の南予棋王戦でA級優勝(二番目のクラス・初段~三段クラス)と高校3年時の県棋王戦のA級(二番目のクラス・初段~三段クラス)優勝でした。今の松山将棋センターの棋力に置き換えれば三段・四段格だとは思います。その力では最上位のクラスでは入賞する事は難しかったのだと思います。ただ各地方の月例大会にも出ていたので、その大会だと入賞はしてもおかしくはない棋力と思いますがそれも出来ませんでした。練習しても勝てないので自分が嫌になり、将棋大会で負けて帰った夜は、将棋を止めようと思った事も何度もあります。しかし、月曜の朝になるとまたやる気が出て来ていました。この頃は、止めたくなると考えてしまう時は、「考えるから止めたくなる、何も考えずで将棋と向き合わなければいけない」と自分に言い聞かせて物事を深く考える事を止めました。これは、当時私が好きだった映画に出て来る言葉からなのですが、私の将棋など所詮は趣味の小さな世界の事なので、私が勝とうが負けようが、世の中の何かが変わる訳でもないので勝てないから止めるという事も考えないようにしようと思いました。練習を1年近くすると徐々に結果が出始めました。最初に自信になったのは全国アマ王将戦の四国大会です。この大会は当時、香川県志度町で開催されており大山康晴十四世名人の弟子になる元奨励会の、広瀬修市さんが運営されていました。初めて出場した時は朝早く松山を出て1人車で行きました。行くだけで疲れましたが、行って驚いた事は、最初から予選無しの一発トーナメント戦で、受付を終えると抽選もなく広瀬さんが勝手に対戦相手を決めて、トーナメント戦を作り上げていく事でした。それに対して誰も文句が出ない大会でした。その大会にも数回行きましたが、数年後から、新聞社の方が来賓で来られ開会式が行われるようになってから、クレームが付き抽選が行われるようになりました。初参加の時は、私はいきなり広瀬さんと当てられて(広瀬さんが勝てそうと思うと当てられるらしい)1回戦敗退となりました。広瀬さんはこの大会の第1回優勝者(全国3位)で香川県代表にも数えきれないくらいなっている程の強豪なので完敗でした。私は初戦敗退しましたが、1,2回戦の敗退者だけが参加出来る敗者トーナメントで優勝する事ができました。敗者戦なので遊びの様な大会ではありますが、四国内から集まって来た人の中で優勝出来たという事が少し自信になりました。その少し後ですが、今治支部が開催していた県王将で3位に入賞しました。当時の今治王将戦は優勝者に四段免状を出していたので人気大会でした。今もあまり変わりませんが、四段免状を修得するには県名人戦、県竜王戦(今は五段)、支部名人戦西地区大会ベスト8、支部対抗戦西地区大会優勝(今はベスト4)しかありませんでした。同じ人が何度も優勝するので、無料で獲得する四段免状には価値がありました。この当時から将棋大会での勝敗を付けるようにしていたのですが、平成3年は54勝48敗勝率0.529でした。予選抜けると1・2回戦で負けている感じですが、予選落ちも多かったと思います。平成4年になると1月に読売新聞系列の松山市内で開催されていた新春大会で優勝出来ました。毎月出場していた松山支部の月例大会の王座戦でも5月に初優勝する事が出来ました。この頃は月例会と言っても参加者は百数十名いたので今と比べると将棋大会優勝の価値は高かったと思います。松山支部の月例会に参加する時は、朝は受付時間前に行って会場設営を手伝っていました。当時の大会は、今と違い対局時計はありませんでした。この頃が対局時計の出始めだったのですが、数が無かったので開始1時間経過すると秒読みでした。秒読みは参加者で手の空いている人が手伝うのですが、熱戦の秒読みは疲れるので嫌がる人も多かったのですが、私は率先してやっていました。大会で負けた時は、決勝戦の棋譜を取るようにしていました。強い人の将棋を近くで見て一緒に考える事が勉強になると考えていました。私が初めて大会で優勝した時に、愛媛の第一人者だった森岡正幸さんから、そろそろ将棋の神様から、ご褒美がある頃だと思っていたと言われました。平成4年の成績は45勝32敗勝率0.584で優勝2回でした。前年より対局数が少ないのは、八幡浜・宇和島の月例大会に行く回数が減ったのだと思います。

将棋ばかりしているみたいですが、仕事の方もそれなりにはしていました。営業だったのでノルマがあり、最初に貰った数字が1ヶ月600万でした。半年で見直しだったと思いますが、私が偶々、研修期間で大きな契約を取った為に上司に勘違いされて殆ど実績のない、街の日立の家電店ベースでこの数字を与えられました。仲の良かった先輩の近藤さんは、こんな数字出来る訳がないと言ってくれていましたが、実際、難しい数字で、最初の半年は半分のノルマも行かなかった事を記憶しています。ルートセールスで数字を上げるには、新規開拓とか既存販売店の取引額を上げれば数字は上がります。しかし、最初から大きな販売店を持たせてもらえれば、勝手に注文が入ってくるので数字は上がって行きます。仕事をしない人に大きな販売店を持たせて、出来る人には難しい販売店を持たす会社の方針でした。その中で営業成績を評価される事がだんだんと嫌になって来ました。最初の半期こそノルマの半分も行かない成績でしたが、その後は小さな販売店ばかりでしたが、売り上げゼロから10万程の注文を貰ったりする店も数件ながら出始め、徐々に数字は上がりだしました。私は小さな販売店を、北条市から当時の御荘町まで担当していたので忙しいかったったとは思うのですが、後に着いた仕事を考えるとやはり、ぬるま湯の中での営業だった思えます。私の担当した販売店は殆どが個人経営のお店で大きくても従業員が10名以内という規模でした。そのせいか大きな会社に販売に行くという事が何となくその後も出来なくなりました。入社して3年程で仕事は順調でしたが、会社の方針に矛盾を感じるようになりました。電話一本で注文を貰いノルマを楽にこなしている人と、細目に営業してノルマをこなしても、会社の評価は殆ど一緒で給料の上がり方も同じではおかしいと思う考ようになって来ました。もう一つ当時思っていた事は、なぜ同じ仕事をしても、年齢が高いだけで多い給料を貰える年功序列制度もおかしいのでは思うようになってきました。しかし、日立化成住機での仕事は嫌いではなかったし将棋は好きなだけ出来ていたので、日立化成は潰れる事はないから、公務員と同じだと思って我慢しよう思うようにしていました。会社に不平不満はあっても辞める勇気はまだありませんでした。仕事は何をやっても嫌な事はあるだろうから、我慢して勤めなければいけないと思っていました。私を日立化成住機に入れてくれた忽那さんはある程度の年齢になれば、そのうち所長くらいにはなれるのだからと言ってくれていました。

この頃、松山の所長が土居所長から清原さんに変わりました。土居所長は松山に家を構えていましたが、本社の日立化成からの出向で子会社に来ていました。土居所長の事で覚えている事は、私が入社して数か月してからの事ですが、夕方に突然飲みに誘われました。何も予定が無ければ行っていましたが、その日は、一色さんと将棋を指す約束をしていたので、拙いなと思いながら断りました。それから土居所長から誘われる事はありませんでしたが、私は趣味の事とは言え最初の約束を違える事は出来ませんでした。次の所長の清原さんは、私は好きなタイプでした。お酒が好きで昼食の時も1杯だけと言って瓶ビールを飲むこともありました。仕事も出来る人でした。私より20才以上離れていましたが、言い易くて私も言いたい事を言っていたようです。清原所長が開拓したJAを一部担当した事もあり一緒に仕事に行く事も良くありました。私は会社の不満等も言っていたようで、清原所長から、「お前の言い方は人を追い込んでいるそんな言い方をしたら駄目だ。相手に逃げ道はつくってあげないといけないと」良く言われました。私はそんな気などなく話していたので、意味がよくわかりませんでしたが、広範囲で件数が多く厳しいノルマの事を清原所長に愚痴を言っていた事を思い出します。もう一つ覚えている事は年賀状に「生一本で良いから大きくなれ」と書かれていた事が、忘れられない一言です。清原所長にはお世話になり、迷惑も相当に掛けてしまったと思っています。

(続く)