コラム
#34 「四国日立化成住機時代 3」
2023.4.4 更新
児島有一郎
私が入社した時の四国日立化成住機㈱松山営業所には、高松本社の社長より実質には役職が上の人がいました。栗原利幸さんと言う方で、その後私の人生に係わる方です。栗原さんは日立化成㈱本社の部長だった方で、子会社の社長より役職が上でした。定年が近くなり希望して出身地の松山に戻って来ていて、週に2,3度会社に顔を見せる感じでした。会社に来ても2階の会議室にある自分のデスクに座り、どんな仕事をしているのか誰も分かりませんでした。社長や所長も触れる事が出来ない存在でしたが、栗原さんは囲碁が趣味で自称六段の腕前と言うこともあり、将棋にも理解があり良く飲みに連れて行ってもらうようになりました。日立化成本社から出張で来ている栗原さんの同僚・部下の方との飲み会にも連れて行ってもらう事もあり可愛がってもらいました。しかし、その頃から職場では人間関係で悩むようになりました。私より年齢は2つ下ですが、入社が半年先輩になるK君との関係が上手くいかなって来ました。当初は年齢も近かったので一緒に遊びに行く事もありましたが、K君は仕事も遊びも調子の良い性格で、私が合わせて行く事に疲れてきました。入社3年目の頃に、K君の事で会社や上司に不信感を抱くようになり2年程悩み結局、」四国日立化成住機を5年で退社する事になります。その話はまたで後述する事にします。
将棋の成績は平成5年(1992年)に入り飛躍していきます。2月に平成4年の月例大会王座戦の、各月の優勝者を集めて年間優勝者を決める県グランド王座戦があり、その大会で優勝する事が出来ました。全国大会出場とかではありませんが県の冠の付いた大会での初優勝が出来ました。その2週間後には前年度から開催の始まった南西航空杯将棋大会で優勝(2名優勝)し県代表として岡山大会に出場する事が決まりました。前年の第1回は支部名人戦の併用大会になっており、1991年大会の優勝・準優勝が出場しました。南西航空杯は3回大会で終了してしまいますが、沖縄松山・沖縄岡山ルートを就航していた南西航空社が新規就航記念に沖縄・愛媛・岡山の3県の代表選手8名での大会を各県持ち回りで開催してくれていました。開催県の代表4名、他県は2名代表の8名でのトーナメント戦を行いました。目標にしていた全国大会への代表ではありませんが、県代表と名の付く大会で優勝出来た事に満足感はありました。唯、この南西航空杯の県大会の日は、松山将棋センターの前に松山にあった愛媛囲碁将棋会館のオープン大会の日で豪華な賞品(テレビなど)が出ていた為に有力な選手はそちらに出場していたという事もあります。
ここで少しだけ、私が知っている松山の将棋道場の歴史を話したいと思います。私が子どもの時に通っていた松山将棋教室と並行して1982年頃、中の川通りに将棋横丁が開設されました。ここは私が高校2年時に当時所属していた宇和島市内の将棋道場と金クラブと将棋横丁の対抗戦で初めて訪れました。その頃の将棋横丁の席主は永井兼幸(本名かねゆき)さんで通称ケンコウさんと呼ばれていました。永井さんにも、私はその後、相当お世話になりますが気性の激しい方でした。当時、諸事情は知りませんでしたが、私が松山坊っちゃん支部を始めた当初から永井さんに会員になって頂き交友関係が出来ました。その頃に本人から聞いてビックリした事は、松山将棋教室を閉店させたのは私だと胸を張って言うのです。しかし、どこの業界も同じだと思いますが、他の店を潰す事などは簡単には出来ない事だと思います。事の起こりは永井さんを含む数名の方が、松山将棋教室を出入り禁止になったそうです。くだらない事が原因でしたがそれは切掛けに過ぎず本当の原因は深い所にあるような気がします。その事で、永井さんが最初に取った行動は、将棋世界誌に松山将棋教室は閉館しましたと、嘘の広告を載せたと言うのです。当然、調べれば誰がそんな事をしたかは直ぐわかるので、永井さんは訴えられて、当時で50万の賠償金を支払ったそうです。その後、将棋横丁を開設して松山将棋教室が潰れるまで、席料無料で営業していたと言うのです。本当に恐ろしい人だと思いました。松山将棋センターを開設した時、数年間は永井さんには相談役として席料無料で来て頂いていました。永井さんは愛媛のアマ将棋界ではスーパーマン的存在だったと思います。将棋の実力は愛媛県名人の実力で、文章も上手く当時の愛媛新聞の夕刊に愛媛のアマチュア将棋観戦記を書いていました。又詰将棋も創作しており本人曰くスポーツ誌にプロ棋士が掲載していた詰将棋を、棋士の影武者で創作していたとも言っていました。あとは駒製作も行っていました。将棋の世界に限れば多種多能の万能型だったのではないでしょうか。しかし、将棋横丁の経営は3年程で、村佐さんと言う方に譲渡します。この経緯は、書く事が憚られるので書けませんが、村佐さんが経営を始めた将棋横丁は私が大学生だった頃で、数回しか行っていませんが、私から見ると将棋道場と呼べるものではなかったと思います。金曜の夜~月曜の朝まで麻雀・花札等を行い。その横で手の空いている人が将棋を指すような所でした。愛媛大学の将棋部もそのミニ版の様な処ではありましたが、将棋横丁は掛け金の額も大きかったようで、ある人など月で100万単位とか、ボーナス全部で払った等の話も聞く事がありました。私には将棋を指しに行く気には慣れない所でした。他で行った事のある将棋道場は三津浜港の近くに福島さんと言う方が経営している将棋道場がありました。ここは、将棋を指すには真面目な真剣勝負の道場でしたが、料金が高かった記憶があります。私も市川君の紹介で数回行った事があるのですが、或る日、席主の福島さんから連絡があり将棋を指そうと誘われ三津浜の将棋道場に行きました。私の父の従弟(小島伊勢夫さん)と福島さんの仲が良かったという事もあったようですが、その日は福島さんと3局指しました。福島さんは愛媛県では将棋大会には出ていませんでしたが、棋歴は中国素人名人戦の挑戦者になった事があるというものでした。3局指して成績は1勝2敗でした。終了してその日の席料を支払おうとすると、「私(福島)と3局指したら本来なら1万は貰うところだけど、児島君だから5000円にしとく」と言われました。そちらから連絡しといてこれは無いと思いましたが、揉めるのも嫌なので支払って帰りましたが、それ以降は三津浜道場にはいかなくなりました。私が行った事のない道場では、味酒町の阿沼美神社の敷地内で将棋を指していて天狗道場と呼ばれ100年続いていた道場が昭和60年頃まであったと言う話も聞いた事があります。その昔には、大街道でも将棋道場があったという事も聞いていますが、行った事のある人はもういないと思います。村佐さんの将棋横丁は平成4年に閉館します。その後は将棋横丁(ビルの3階)のビルの2階で田村勇人さんが、喫茶店で将棋を指せる場所を作りました。田村さんは私より年齢が5才上でしたが、私が宇和島時代にと金クラブで良く指した間柄でした。その当時の田村さんは、まだ初・二段位で宇和島時代の田村さんには、私は負けた事はありませんでしたが、その後、将棋横丁の徹夜将棋で鍛えが入り1990年の朝日アマ名人戦の四国代表になり全国大会でもベスト8に入り、1991年には県棋王位を獲得する実力者になっていました。その将棋喫茶に親しかった県の強豪が集まり、真剣勝ち抜き10秒将棋を指して、私は自分の将棋に自信が持てるようになりました。私の将棋は形勢が少し悪くなると悲観して持ち時間を使い自滅する事が多かったのですが、10秒将棋を指していると強豪も結構間違い形勢が二転三転する事が分かってきました。それが分かると指し手の思い切りが良くなりました。田村さんの将棋喫茶は愛媛囲碁将棋会館のオープンで、田村さんが囲碁将棋会館の将棋担当として就職した為に1年程で閉店してしまいました。囲碁将棋会館のオープン大会では前日に田村さんから参加して欲しいと連絡を貰ったのですが、私は南西航空杯に出場した事を田村さん悪い事をしたと思っていましたが、私が代表になると田村さんからは「おめでとう」と言ってもらいその後も、よく呑みに行く間柄になりました。田村さんの話で覚えている事は、宇和島の道場に来ていた頃は、養鶏関係の仕事をしていたそうで、養鶏場ヒヨコを育てて売っていたそうです。そのヒヨコをまとめて飼育していると突き合いをして死んでしまうヒヨコがでるので、嘴を少し切らないといけないらしいのですが、金曜の夜から月曜の朝まで徹夜で将棋を指し過ぎて仕事に出勤した時に、意識が朦朧としてヒヨコの嘴を切り過ぎてしまい、ヒヨコが餌を食べなくなり、死んでしまった事が理由で仕事を辞めたと話してくれました。私も当時は生活の全てが将棋中心になっていました。1億円よりもアマ名人の方が価値は高いと思っていましたが、その話を聞いて生活の基盤である仕事には支障が出ないようにしなければならないと思いました。
(続く)