コラム

トップ > 趣味の部屋 > コラム

コラム

#40 「四国日立化成住機時代 9」

2023.10.4 更新

児島有一郎

平成6年の12月に私は東予アマ名人戦で優勝しますが、この時期から将棋大会での成績は下降線に入りました。またこの頃に、会社に迷い込んで1週間程いた犬(シェットランド)を、清原所長が保健所に連絡しろと言うので、マンションに連れて帰って同居していました。東予名人戦の前日から、犬の体調が悪い事が原因であまり眠れず、朝起きてからも酷い頭痛がして体調は最悪でした。大会に参加する事を迷うレベルでしたが、予定していたので新居浜に向いました。体調は悪かったのですが、将棋は慎重に指そうと心掛けて会心の内容で優勝する事が出来ました。当時の東予名人戦は全国大会等には関係ないものの優勝すると、愛媛新聞社が主催していた愛媛県グランドチャンピオン戦への出場資格が得られました。県グランドチャンピオン戦は、毎年1回開催され15回大会位で打ち切られたと思います。当初は全国大会に出場する棋戦の県内優勝者(支部名人・県名人・赤旗名人・朝日アマ名人?・県竜王?)数名で争われる大会でしたが、同一人物が複数大会優勝すると参加者が殆どいなくなる事もあり、出場資格の解釈が拡げられて、各支部が主催する主要大会の優勝者も参加出来るようになって行きました。多い時は20名近くの参加となりグランドチャンピオンの意味を失っていき、それから数年後に消滅してしまいました。私が当時所属していた松山支部からは、グランド王座戦優勝者に出場資格がありました。今治支部なら今治王将戦、今治王将は県王将戦と呼ばれ40回大会まで継続しました。優勝すると四段の免状が貰えました。当時の四段免状は県名人戦優勝しか貰えなかったので人気の大会でしたが今治支部の解散で大会がなくなってしまいました。私には相性の良い大会で3回優勝しました。今治中央支部は波止浜名人戦を主催していて、優勝すると路山作の高級彫駒が賞品となっており、これも人気の大会でした。各支部が独自の特色を出して大会を開催していました。東予名人戦の優勝は所属支部以外からのグランドチャンピオン戦出場という事が思い出に残っています。

平成6年の大会成績は73勝42敗・勝率0.635優勝3回でした。

平成7年は、この年の9月に四国日立化成住機を退職する事になるので人生のターニングポイントでした。7月までは、会社には退社の事は話してもおらず、次の仕事も決まっている訳ではなかったのですが、気持ちは既に仕事から離れていて将棋に集中しているつもりでしたが、次の仕事の事、生活の事等が気になり何となく将棋に集中で出来ない状態でした。やはり、公私共に充実していないと上手く行かないものだと痛感しました。次の仕事は漠然と、日立化成の仕事に関連している住宅関係の仕事が出来たらと考えていました。辞める事を決めてから、他の職場で自分が同じように商品が販売できるのかと考えてみると改めて日立の看板と信用の大きさを感じました。親しくしていた大工さんや個人で設備工事の仕事をしている方もいたので、その人達と組んで増改築の仕事をしてみようかとも考えましたが、小さな増改築でも数百万は掛かるので、元手が最低1000万以上はないと出来ないと思い諦めました。そんな時に退職を考えている事を取引のあった三菱の家電店の佐伯さんに話をすると、「仕事に真面目に取り組み過ぎるから、人間関係で躓くのだもう少し気楽にしろ」と言われ、その日の午後から一緒にサボってやると言ってくれてポケットベル(当時なので)をオフにして半日、辞める事を考え直せと言って星乃岡温泉で説得してくださいましたが、気持ちが変わるには至りませんでした。そんな時に日立化成のOBの栗原利幸さんに、辞める話を改めてすると反対派されましたが、どうしても辞めると言うのなら、損保の代理店をやらないかと言われました。栗原さんの懇意にしている損害保険の代理店(AIU保険会社代理店ワールド保険)の後継者がいないので営業職の後継者を探しているから、やってみないかと言われました。私は「保険の仕事か」と思いました。これはわたしの勝手な思い込みだったのですが、子どもの頃から母親に保険の営業は、営業職の中でも仕事が出来ない人が最後に行きつく仕事だと言われていたので嫌悪感がありました。母親は保険の営業の方には良い印象を持っていなかったと思われます。確かに保険の営業を始めて、知り合いを加入させそれ以上仕事が取れなくなると、直に辞めてしまうような人が多い印象でした。私は、当時NHKの営業をしていた勝秋叔父さんに相談しました。勝秋叔父さんは、成績が悪いと数ヵ月で辞めさせられるNHK営業で(集金・未払い者の受信料徴収・衛星放送の新規加入)等で四国一の成績を取るほどの営業マンでした。契約社員のようでしたが定年の60才まで契約更新をしてもらい、その後も1年更新で65才までNHKの営業をしていました。多分そんな人は全国でも珍しいと思います。その後もNHKの下請け企業でそういう仕事をしている所に、就職して70過ぎまで働いていました。その叔父に相談すると、保険の営業は営業の中で一番難しい仕事だから、続かなくても必ず勉強になる事があるからやってみたらと言われ考えてみようと言う気になりました。

将棋の方はベスト8ベスト4で負ける事が多く予選落ち・1回戦敗退は殆ど無くなったのですが、優勝する事が出来ない事が増えました。GWの4月に第2回香川将棋フェスタと言うイベント・大会に参加して優勝する事が出来ました。この大会では初戦で愛媛大学将棋部では伝説的な存在になっていたOBの南谷誠一郎さんに勝つ事が出来て自信になった事を覚えています。南谷さんは愛媛大学が学生王座戦に出場した時、当時の学生棋界最強だった東京大学将棋部に愛媛大学が4勝3敗で勝利した時の大将です。東大の大将・谷川俊昭(谷川浩司17世名人の兄)さんに勝ったと私が入部した頃でも語り草になるほどの人物でした。香川将棋フェスタではその後2勝して準決勝の白井厚男さんが席上対局に出場するので、準決勝を辞退され私の不戦勝となり決勝で徳島の大松啓二さんに勝ち優勝する事が出来ました。この香川将棋フェスタは、プロ棋士が10名程来ている盛大なイベントで、香川県の将棋関係者が中心となり企業から協賛金を500万程集めて開催していると聞きました。会場費だけでもかなりの金額と思われる場所で、棋士10人の報酬・旅費でもかなりの金額と思われます。この時は、香川県は凄い将棋熱だと思いましたが、そのイベントでも色々とトラブルと諸問題があり、その後は開催されなくなりました。数年後に事の顛末を聞き驚きました。

会社に退社を伝えてからは、仕事は集中力を欠き、今でも申し訳なかったと思えるミスをしてしまいました。JAからの仕事で家の増改築の依頼を受けており、浄化槽の申請の書類を出さないと工事に掛かれないのですが、申請の書類を出し忘れてしまい。それに気づいた清原所長が手続きをしてくれましたが、私は許可が下りるまで申請の出し忘れに気づかないという失態をしてしまいました。辞める時だからこそ最後までしっかり責任を持って仕事をしなければなりませんでした。私の責任で着工が遅れたのを誤ってくれている清原所長を見た時は本当に悪い事をしたと思いました。

四国日立化成住機には8月の10日頃まで出社しました。そこからお盆休みに入り有休が30日程あったので、9月20日付での退社になりました。40日程何もしない日々を過ごす事になるのですが、私は大学入学で松山に出て来てから、アルバイトと学校の日々だったので何もせずに1日過ごすという事をした事がありませんでした。40日間も食べて寝てと言う生活を続けたら、生きていく事が嫌になるのではないかとか考えましたが、次の仕事は必死で働こうと決めていたので今は充電期間と思い40日間はゆっくりしようと決めていました。次の仕事も決まっている訳ではなかったのでお金の事も心配はしていました。栗原さんから紹介して頂いた損保の代理店の話は、ワールド保険の宮内社長に話を聞いてみると、一先ずAIU保険会社の研修社員となり、そこで独立を目指して5年間頑張って独立出来れば、一緒にやろうと言う話で私が始め聞いていた話とは随分違うものでした。今思うと代理店の社長の後継ぎの話は、顧客との社交辞令の会話の様な話で栗原さんが真に受けて私に持ってきたようなものでした。私は思っていた話と違い自分で独立するくらいになれば、宮内さんと一緒にやる意味もないのではないかと考え、職安にも仕事を探しに行きました。1年程前に日立化成住機を退社した。串宮さんは地元のガス会社を職安で見つけて就職しており、私もそのイメージで何度か職安に行きましたが、訪問販売の様な会社の募集しか営業職はなく、面接も1社受けましたが、気乗りするような会社ではありませんでした。そもそも訪問販売という事に凄い抵抗感がありました。損害保険の営業も同じような事ではとは考えていました。

40日間の休みの間は、今振り返ってもこんなにゆったり生活した事はないくらいダラダラと暮らしました。朝も寝たいだけ寝て10時位まで起きない事もありました。DVDを蔦屋でレンタルして1日2~3本みたりする日もあり、将棋にも熱が入らない状態でした。森川聖一さんが、平日に愛媛囲碁将棋会館で指そうと連絡をもらう事もありましたが何となく気乗りしません。理由は仕事もしてないのに将棋をしていて良いのかという事がありました。日曜日の大会には出ていましたが、何か集中仕切れない状態で良い結果は出ませんでした。仕事も決まらないまま、AIUの研修社員の面接の日が来ました9月20日頃でした。私は何か気持ちが乗り切らない所があり、通っても通らなくても良いと言う気持ちがありました。当然面接に行くのでスーツを着ていく事が当たり前なのですが、私はその日が暑くスーツを出す事も面倒に思えて、採用されなくても良いかなと言う気持ちで、上着を着ずにネクタイだけ締めて面接に行きました。3日程して採用すると連絡が入り10月1日から出社と言われました。あんなにやる気のない面接で、採用されたのは、ワールド保険の宮内さんの口添えがあったからだとは思っています。損保の営業など自信もありませんでしたが、決まった以上は頑張ろうと決めました。有休があったので仕事をしてない期間は結局10日間だけでした。

(続く)