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#42 「AIU保険会社IS社員時代 2」
松山坊っちゃん支部発足へ 1

2023.11.27 更新

児島有一郎

平成7年の11月王座戦に参加した時に、松山支部の役員をされていたT市さんと言う方に声を掛けられて、相談があるので1度話がしたいと言われ、その日の大会に参加されていた西口さんと言う方を紹介されました。西口さんは松山市御幸町で西口内科を開業したばかりの開業医さんで、その週の内に西口内科で会う事になりました。T市さんは年齢40代後半位で、将棋の棋力は1級位で面識はありましたが話した事はありませんでした。西口さんは当時の年齢は51才で数ヵ月前から王座戦に参加し始めて、対戦した事もあり棋力は二、三段位で日本将棋連盟の免状は四段でした。話の内容は松山支部の運営の事でした。松山支部は支部長のNさんが毎月の例会を精力的に開催しており、松山支部の会員数も多く、支部会員全員に無許可で役職等を付けていましたが、役員会、会計報告会等は一切行っていませんでした。私も編集部長という意味のない役職になっていましたが特に気にもしていませんでした。T市さんは勝手に役員にされているので役員会の開催を、支部長に進言しているようでしたが一度も開催された事がないと話されました。毎月、松山支部主催で100人以上が参加する例会を開催していながら会計報告も一切ない事も不満のようでした。確かに一部の人はN支部長が例会の利益で家を建てたと言っている人もいましたが、Nさんが頑張って運営している事なので私は深く考えていませんでした。T市さんは私に新しい将棋の支部を作ろうと話を持ち掛けてきました。支部長を西口さんにすれば医師なので信用もあると言うのです。私は松山支部では全国支部対抗戦の西地区大会を優勝した事で愛着もあり、気乗りしない部分もありましたが、松山支部の会員を引き抜くのではなく、将棋は好きだけど将棋大会には、参加していない層の方を集めた新しい支部作りがコンセプトで、松山支部の活動の邪魔はしないと言われたので私も協力する事にしました。平成8年の4月1日発会を目指して会員集めをして行く事になりました。新支部の年会費は松山支部の活動とは一線を画す事もあり10000円としました。日本将棋連盟の登録費は3000円なので残りの会費で支部活動・大会の運営費とする事にして、毎月1度土曜の午後から将棋を指して夕方から親睦会を開催する事を決めました。後は10000円の年会費を頂くので会報誌等を発行して会費以上のメリットを見出してもらう事でした。私の将棋仲間は所属している支部(基本年会費3000円)があるので入会してくれそうな方はいませんでしたが、西口さんが開業医という事もあり、西口さんの仕事関係の製薬会社の方や、患者さんで将棋好きな方に声を掛ける等して少しずつ会員が増えて行きました。また、新支部を発会する事を日立化成のOBの栗原利幸さんに話しました。栗原さんは私にAIU保険会社を紹介した切掛けになった事もあり、気に掛けてくれていて週に1度は行き付けの、弦と言う居酒屋に呼んでくれて色々と話をしてくれていました。栗原さんは日立化成を退職後、富士企画㈱と言う会社を立ち上げ、浄化槽の維持管理や浄化槽周りの工事等を施工する会社をしていました。また、平和通りにビル(ピースビル)を購入して愛媛大学・松山大学の学生向けの賃貸物件としていました。1Fと2Fは貸しテナントになっており、2Fは弦の経営者の弦巻さんに任して昼は喫茶店を営業していました。栗原さんから支部を発足すれば将棋を指す場所もいるから、ピースビルの2Fの喫茶店を新支部の道場にしてはどうかと申し出がありました。私が将棋で栗原さんは囲碁(自称六段)を見るという事で、「囲碁将棋会所」という名称で立派な看板まで製作して頂きました。しかし、支部設立が前に向いて進むに連れて、私にはいくつかの懸念が出てきました。1つは新支部の名称です。私は全国大会に出場した時に、石川県の加賀百万石支部と言う支部名を見て、その県を直ぐにイメージ出来る素晴らしいネーミングだと思いました。新支部にはそういう名前を付けたくて、直ぐに「松山坊っちゃん支部」を思い付き提案しました。支部長の西口さんは良い名前だと言ってくれましたが、T市さんは渋い顔をされ「まだ日数はあるからゆっくり決めよう」と言うのです。もう一つは、T市さんが議員の会員集めを始め将棋好きと言われる議員に連絡を入れて勧誘を始めた事です。T市さんは松山市議会議員の大森利夫さんが将棋好きなので、入会してくれるように話をしたので会費を貰いに行ってと連絡してきました。T市さんはある理由から、運転免許を所有していなかったので私がそういう役目でした。今治が地盤の衆議院議員村上誠一郎さんも将棋好きだからと、事務所に入会の案内をして入会の意志があると言うので今治の村上誠一郎事務所に行って手続きして来てと言うのです。松山の衆議院議員関谷勝嗣さんに至っては、将棋は指さないが何の会でも入会してくれるのでという事で事務所に行きました。私は違和感しかありませんでした。私なりに人生を賭けて打ち込んできた将棋の世界にルールを知らない人や、政治家を入れると言う事が嫌で堪りませんでした。この時は知りませんでしたが、T市さんにはある狙いがあったのです。しかし、後で思い返すと損害保険の仕事を始めた事も同じで事なのですが、私が意図しない気の進まない事から人生が進んで行き、今振り返れば良い方向に向かってきたという事が多くあります。当然、失敗し痛い目にあった事も沢山あります。新支部設立の会員集めは、順調に進んで行きました。栗原さんの関係の方や、弦で知り合った飲み仲間の方等、将棋大会に出た事もなく棋力は5級前後位ですが、将棋好きな方が入会してくれました。損保の営業が切掛けで入会して頂いた方もいます。松山市駅の裏の藤原町にあった加栄建設と言う土木会社に私が飛び込み営業に行った事が切掛けです。事務所に入ると机の上に将棋盤が置いてあるのが直ぐに目に留まりました。まずは、一通り損害保険の営業をしましたが、加栄建設は既にAIU保険会社の他社の代理店の顧客であり、AIUの松山支店には他の代理店の顧客から契約を取ってはいけないと言うルールがありました。約束を破って契約した場合は、基本は最初に契約をしている代理店に新契約を移管しなければなりません。加栄建設で私が将棋をすると話すと、まず、専務と対局する事になりました。終わると今度は社長が出て来て対局を数局しました。社長の奥様らしき方が迷惑そうな顔をしてこちらを睨んできますが、専務も社長も気にする素振りも見せません。最後は奥様らしき方が「ええ加減にして」の一言で終わりましたが、専務にまた来るように言われました。数日して伺うと同じように夕方から20時頃まで将棋を指しました。そして専務が、私達より喜ぶ人がいるから連絡を入れさせるので、訪ねてみてくれと言われました。翌日、南高井の佐伯(さいき)石材彫刻社の佐伯(さいき)と言う方から連絡が入りその週の土曜日に訪ねて行きました。佐伯さんとのエピソードは数多く、長くなるのでまた後で記す事にしますが、佐伯さんも新支部の事を話すと直に入会してくれました。そういう日々を送りながら平成7年が終わりました。

平成7年の将棋大会成績は88勝57敗 勝率0.607優勝2回でしたが、1回の優勝は急所での不戦勝と、もう1回は月例大会(王座戦)での敗者戦優勝と胸を張れる成績ではなく、大会に数多く出場して生涯年間最多の88勝した割に負け数も多く将棋への集中力を欠いていた1年でした。

そして平成8年が始まりました。この年は私にとって大きな人生での出会いの年になりました。この時は私が代理店研修生に転職した時だったので、時間の融通が付き新支部設立の活動時間が多く取れた事もあります。仕事は転職したばかりで自信はありませんでしたし、1日中飛び込み営業を続けると気が滅入って精神的に落ち込むので、数時間の飛び込み営業をしたらその後は、新支部設立の事をしている方が丁度良い気分転換になり1日を乗り切れていたと思います。しかし、T市さんと西口支部長の発案で発足大会・発足式の件等新支部設立に費やされる時間は増えて行きます。新支部での立場はT市さんが幹事長、私が事務局長兼会計と言う事になっていました。T市さんの発案で、発足の記念大会を開催しようという事になりました。折角なので大きな大会をしようと言う事になり賞金大会にする事になりました。その方が県外からの参加者も見込めると言う狙いでした。優勝20万・準優勝5万・3位3万・4位2万の賞金大会を企画しました。賞金は広告収入を募り大会のパンフレットを印刷して広告形式で掲載するというものでした。パンフレットの印刷費でもかなりの金額になり、懇親会費用等も含めると100万程掛かる事になりますが、西口支部長が何とかなるだろうというので、6月の大会実施を目指して準備が始まりました。私は愛媛新聞社の事業局に事情を話して後援申請をしたのですが、基本は賞金大会の後援はしないと言われました。しかし、新支部の発足という事もあり1度だけという事で後援をして頂けることになりました。新支部発足の初例会は3月の末に開催する事になりました。当時は愛媛県内で支部を作ると、愛媛県内の支部が所属していた日本将棋連盟愛媛県支部連合会にも登録(必ずではなかったのですが)する必要もありました。通常は各支部の支部長とそれに準ずる人が県支部連合会の役員をする事になっており、当時は今治中央支部所属の川下静男(70才)さんが会長で、副会長が3名、実務担当を県連運営していく3役が事務局長・事業局長・普及局長となっていました。事務局長は今治支部の支部長の門田昇(50才位)さん、事業局長は今治中央支部の河野栄次郎(43才)さんで普及局長が松山支部の永井兼幸(69才)さんでした。それ以外の支部長は理事と言う立場で県支部連合会(以下県連)の役員を務めていました。支部の発足は4月1日付けでしたが、4月から県連に入会させてもらうという事で、3月に今治市内で開催された県連の役員会に出席させてもらいました。当支部からは西口支部長と私が参加しました。その役員会で普及局長の永井さんが3役を降りたいと申し出があり、後任の普及局長を私に任せたいと発言してくれました。私からすれば支部の運営経験もなく、永井さんと特別親しい間柄でもなかったのですが、私にいきなり県連の重要な三役に指名されて驚くばかりでしたが、1つの理由は3役の1人は松山が良いと言う事もありました。大会の関係上愛媛新聞、県庁に出向かないといけない事もあり、松山以外だと大変だという事が1つの理由でした。この時の私の一番の心配事は、まだまだ大会に出場したい気持ちが強く、県連の3役となると全国大会等の県予選の運営側となるので大会には出場出来なくなってしまうという事でした。私がその事を会議で話すと、大会の運営、準備等を手伝ってもらえば数年間は大会に出場しても良いという条件を提案してもらい役員になる事を引き受けました。他の理事の方から20代で役員になったのは初めてだから頑張るようにとも言われました。

3月末に支部の日本将棋連盟に支部登録をしたのですが、T市さんに驚く事言われます。支部名は話し合いで「松山坊っちゃん支部」と決めていたはずなのに、日本将棋連盟には「愛媛勝山支部」で登録したと言うのです。松山城は昔、勝山城と呼ばれていたという事が、その理由でしたが、この頃から私はT市さんに不信感しか感じる事が出来なくなりました。愛媛勝山支部では愛媛松山支部と似過ぎている事も松山支部に悪いとも思えました。西口支部長に相談すると「仕方ない」の一言でした。私は納得いきませんでしたが、西口さんとT市さんの関係は開業を始めたばかりで、患者さんの少ない西口内科で営業担当と言う事になっていて、仕事上での繋がりも出来ていました。

(続く)