コラム
#43 「AIU保険会社IS社員時代 3」
松山坊っちゃん支部発足へ 2
2023.12.29 更新
児島有一郎
平成7年の年末頃だったと記憶しているのですが、新支部の会員を紹介したいと言われ、棋友の一色厚志さんに司法書士の三好典史さんを紹介して頂いた。当時の三好典史司法書士事務所は宮田町の愛媛ビル1Fに数部屋を借りているようでした。三好先生を紹介してもらうと話していて直ぐに将棋が好きな事は分かったのですが、「私(三好)より将棋が好きな人はいない」と、初対面では信じられない発言も多く、知らない人でもこんな将棋好きがいるのだと思い感動しました。三好先生も私の事は知らなかったので、私と同じように思ったかも知れません。事務所で少し話した後、大手町の愛媛新聞近くにあった寿司松に食事に行きました。そこで司法書士の仕事内容などを始めて知りました。その時の話で覚えている事は、銀行からの仕事が多いと言われたので、それに対して私が「預金が多いからですか?」と質問すると苦笑いしながら「そんな事で仕事が増えるなら苦労はないと」と返されました。この時の私は三好先生の本当の真意が、何所にあるかわからないくらいのレベルでした。もう一つ覚えている事は登記の仕事が多いと言われ、登記は司法書士会で値段を決めているので、儲かる仕事だと言われました。登記は法務局が親切になれば本人が出来るので、司法書士は必要のない仕事だとも言っていました。三好先生の言葉は私にとって為になる事が多く、考え方もかなり影響を受けた人であり私が何とかここまで来られた事は、三好先生とのこの出会いが大きかったと思っています。私が困った時も色々とアドバイスを貰い助けてもらいました。この頃もう一つの大きな出会いをしています。私には人生の師匠と思っている人が3人います。1人目が三好さんで、もう1人が新支部発会の宴会で将棋を指した衆議院議員の村上誠一郎さんです。村上先生と親しくなるのはそれから数年後の事になりますが、初めて将棋を指したのは支部発会の懇親会でした。その場で私が村上先生と対局する事になりました。強いとは聞いていましたが所詮は、国会議員のお遊び将棋で一度も大会にも出た事がないレベルです。程々に軽く指してギリギリ勝てばよいと言う気持ちで対局を始めました。村上さんは一目散に四間飛車から穴熊に囲いました。私も相穴熊は得意ですが得意な将棋を指して勝つ事もないと思い。普段は指さない5七銀左急戦を指しました。村上先生は穴熊を相当指し慣れており細い攻めを繋げられ1時間半以上の熱戦となり私は負けました。負ける気はなかったので途中からは本気モードでしたが逆転には至りませんでした。こうして新支部は愛媛勝山支部としてスタートしました。
4月に発会しましたが、6月2日の新支部発会大会への準備は急ピッチで進めていました。優勝賞金20万、準優勝5万、3位3万、4位2万の賞金と優勝後の祝勝会・発会大会の広告の印刷費等で100万円の寄付を集める事を目標にしていました。広告料は1ページだと5万でした。二代目の支部長になる大森利夫さん(当時は松山市議会議員)は理事長を務めていた愛媛県理容環境衛生同業組合の広告を掲載してくれましたが、1ページほぼ白紙で下の方に小さく宇宙と書いてある洒落たデザインでした。私が「これで良いのですか」と聞くと、「メモにも使えるだろう」との返事です。佐伯石材彫刻社の佐伯さんも1ページ広告を掲載すると言ってくれましたがデザインは、名前なしで「墓墓墓」とだけ掲載してくれれば良いと言われましたが、T市さんに言うと「広告に墓墓墓」縁起が悪いから駄目だと言われ、佐伯さんはそれなら小さな広告で良いと言われ1万円の広告になってしまいました。他にも小さな広告欄は5000円からあり相当な人数の方が協力してくれて目標の100万の広告が集まりました。私が集めた広告料は30万でした。西口支部長は親族の企業と病院関係の業者の方から30万程の広告を集めました。広告集めが進んで行くとT市さんが変な事を言い始めました。新支部の事務局長は私が務めており会計も私だったのですが、新支部設立大会の会計はT市さんがするから集めたお金をT市さんが持って来いと言うので私は反論しました。西口支部長も交えた話し合いの中でそう決まるのならまだしも、勝手にT市さんが大会の部分だけ会計だという事を独断で決めて西口支部長が承認している事に、私には納得出来ませんでした。西口支部長は、T市さんに任せておいたらと言うのですが、新支部の名称の件もあり私はT市さんを信用できなくなっていました。新支部の実質の会計は私だったので何かあれば、私の責任になってしまします。しかし、西口支部長にそれ以上話をしてもT市さんを「信用できないのか?こういうことは信頼関係で成り立つものだ」と言われそれ以上は何も言えませんでした。しかし、気持ちはモヤモヤして、何かあれば責任を取らされるのは事務局長の私ではないかと言う気持ちの日々が続きました。誰かに相談しようにも、私がT市さんと西口支部長の話に乗り進んでいる事を、今更協力してくれいる人に、そのT市さんと支部長が不審だとは言えませんでした。そんな時、三好典史司法書士事務所を訪ねると、三好先生からその夜飲みに行こうと誘われました。その日は私の行きつけの居酒屋弦に行きました。三好先生と話をしていると、T市さんが広告を取って来ていた松山合同事務所の話になりました。T市さんは合同事務所の中川所長と呑み友達で昔は測量を手伝っていたと言うのでその話をしました。すると三好先生が「中川先生は私には仕事上の親の様な存在だと」話してくれました。T市さんはお酒が好きでしたが、中川さんは三好さんでも驚くほどの酒呑みで、中川さんの家の近所の酒屋さんが、中川さんほど酒を買ってくれる個人宅はないと言っていたのに、中川さんはそれと同じ位の量を別の酒屋さんでも買っていたと言う程の酒豪でした。三好先生と話していると中川さんは信用できる人物だという話をしてくれたので、私は思い切ってT市さんとの経緯を話しました。三好先生は私の話を聞いた後に「それはおそらく金ないな」と言いました。それから中川さんに電話してくれてT市さんとの人間関係や人柄を聞いてくれましたが、暖簾に腕押しの様な遣り取りです。そして最後に三好先生が「一つだけ教えて欲しい、金の事で信用出来るか」と言いました。中川さんは「知らん」と言い三好先生は電話を切りました。三好先生は「金はない」と言い。中川さんは決して人の悪口を言わない人なので、本心を聞き出す事は難しいのだけれど「知らん」と言うのは信用できないという事だろう言いました。そして医師の西口さんが任せろと言ったのだから、西口支部長に責任を取ってもらうようにしなければならないと言い、私に西口支部長と喧嘩をして来いと言ってくれました。T市さんの事を信用している西口支部長にお金がなかったらどうするかを詰め寄り、西口支部長に金が無い時は支部長が責任を取るという事を言わせなければならないと言いました。早速私は翌日、西口内科に行き支部長にお金が無い時はどうするのか強く突き詰めました。西口支部長は、私の友達が信用出来ないのかと私を怒鳴って来ます。病院は休診時間で患者さんはいませんが、看護師さんや事務の方、支部長の奥様がいました。かなり広い病院でしたが、院内に鳴り響く大声で私は怒鳴られました。そこで私は「支部長がそこまで言うなら、お金が無い時は支部長が責任は取ってくれるのですか」と切り返すと「責任は私が取ってやる」と言いました。私はその言葉を聞いて内心はホッとしましたが、西口支部長との関係もそれ以降悪くなりました。三好先生に報告するとそれで良いと言われました。しかし、証人もいないのに本当に支部長が責任を取ってくれるのか心配していないわけでもありませんでしたが、三好先生はそれだけ大声で怒鳴った事を反故にする事はないだろうと言われました。
それからも準備に追われる日々が続き、大会の少し前でしたが、大会の関係者を三番町の愛媛共済会館の地下の中国菜館優というお店で15名程の打ち合わせ会を開催しました。その日の昼にT市さんから電話があり、私と西口支部長が争った件で、支部長の奥様からクレームを言われ様子で、西口内科の営業部長的な名刺を持っていたT市さんにはその事が痛手となり、新支部の発足大会から外れろと言うようなことを言われました。実際、私も西口支部長との1件以来、私が西口内科に行くと奥様が不機嫌になり来ないで欲しいと言われた事もあるので、西口内科には行きにくくなっていました。新支部設立に相当力を注いできた私に、外れろと言われたので私はかなり怒って夕方の打ち合わせ会に出席しました。私が仕事で少し遅れて行くと全員が席に座っていて、私はT市さんと違うテーブルに座る事になりましたが、私が不機嫌な事に気が付いた三好先生が、私の席まで来て「この会はお前の会のだから、お前が不機嫌だと皆が嫌な思いをする。今日は嫌でもニコニコと振舞えと」声を掛けてくれました。しかし。私は三好先生にその日のT市さんに会から外れろと言われそれでも、我慢しなければいけませんかと聞き返しましたが「お前の会だから我慢しろ」というのです。この時の三好先生のアドバイスも私には忘れられない一言です。この日に三好先生が来てくれていなければ、日本将棋連盟松山坊っちゃん支部は存在していなかったかも知れません。また、この会で私は今も長くお付き合いさせて頂いている、現愛媛県議会議員の戒能潤之介さんとも出会いました。戒能さんはこの時は関谷勝嗣代議士の秘書をしていて代議士の代理出席していました。私は名刺交換だけしましたが、正直この時は、一番年下の私に戒能さんは余り興味なさそうな感じで、支部長やT市さんに気を遣っている様子で、初対面では良い印象が残りませんでしたが、親しくなればなるほど、父親の同士の繋がりも分かって来て色々とお世話になる事になって行きます。
私としては多難な出だしの支部発足になっていますが、この新支部を設立していなければ、多くの人との出会いもなかったかもしれないのでそういう意味では愛媛勝山支部(松山坊っちゃん支部)の設立は大きな分岐点だったと思います。
その後も大会準備、仕事と忙しい日が続き新支部発会大会の日を迎える事になりました。
(続く)