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#45 「AIU保険会社IS社員時代 5」
松山坊っちゃん支部発足へ 4

2024.3.11 更新

児島有一郎

少し遡りますが平成8年の年明けから、平和通りにあった栗原利幸さんの所有のピースビル2階の囲碁将棋会所で、隔週土曜日の午後から子ども将棋教室を始めました。募集はリビング新聞の数行広告で行いました。まず入会して頂いたのが、兄弟(吉田君)の小学生と幼稚園児が入会してくれましたが、私も指導は初めてで何をしたら良いのか全く分からない手探りの状態でした。ただルールを覚えたばかりの子どもに平手で指すのは手が広すぎて意味がないと思い駒落ちと詰将棋を始めました。この指導方法は今も同じです。駒落ち指導をして一番困った事は、子ども達が平手の戦い方が分からない事でした。しかし、平手の将棋を教えると駒落ち定跡と平手の指し方が混乱してしまってこれも上手くいきません。私は敢えて平手は指さない事にしました。暗中模索の中での将棋教室でしたが生徒は徐々に増えて行き秋頃には8名になり教室の形になって来た頃でした。愛媛囲碁将棋会館支部の永井兼幸さんから「愛媛社会保険センターで将棋教室を開講しているのだが、講師を任せたいので一度見学しに来てほしい」と言われました。時間帯は、私が将棋教室をしている時間帯と被る時間帯があったので、「空いている時に見学に行きます」と返答しました。すると次の土曜日に私が自宅にいる時に永井さんから電話が入り、今から社会保険センターに来てくれと言うのでした。教室がない日だったので私が社会保険センターに行くと、いきなり永井さんが私を後任の講師だと生徒さんに紹介し始めました。私はそんな急な話だったのかと驚きましたが、数週間待って頂き、囲碁将棋会所の将棋教室の生徒さん達に事情を話し、愛媛社会保険センターの教室に入会していただく事を勧め、翌月から今も続いている(現えひめ文化健康センター)愛媛社会保険センターの講師をする事になりました。社会保険センターは当時、厚生労働省の中の社会保険庁の管轄で国の運営するカルチャーセンターでした。受講料が安価で生徒さんには社交ダンス・カラオケなどの人気教室では受講受付日に行列で申し込みがある程の人気でした。将棋は定員30名に対して15~20名程と説明されました。私が引き継いだ時は大人の方ばかりで20名近くの方が在籍していました。愛媛社会保険センターは1984年から開講しており永井さんが、12年講師をして私が引き継ぐことになりました。生徒さんには、開講当初から通われている生徒さんと開講1年目から通われている女性の生徒さんもおり、その後も長く続けて頂く事になります。囲碁将棋会所からの生徒さんは半数位の方が移動してくれましたが、続けられなかった方には申し訳なく思いましたが、当時は損害保険業が本業で、土曜しか指導の時間は取れなかったので仕方のない事でした。

本業の損害保険業は、平成7年の12月IS社員としてスタートして、当初はガソリン代の節約の為に原付バイクで営業していました。しかし、1、2月の寒い時期にバイクで営業するのは防寒をしていてもとても寒く、営業先で防寒着を脱ぎバイクで走行してない時は暑いくらいの防寒をしているので、室内に入るととても暑く、営業先で直ぐに断られると、また防寒着を着て次の営業先に向かうと非効率な営業をしていました。凄く寒い日に砥部町で凍えながら運転していると、路肩で滑り転倒してしまいました。もし横をトラック等が走行していたら怪我ではすまなかったと思うと、バイクでの営業は止めようと思いました。翌日から燃料代は掛っても車で営業する事にしました。車の方が営業資料を積んでおけるなどのメリットもありましたが、やはり寒さに凍えながら営業をしていると、マイナス思考になってしまう事が良くないと思いました。営業で数字が上がらないと余計に思考が悪い方向に向かってしまうので、思考が悪循環にならないように「寒い、ひもじい(腹が減る)、金がない(財布にはお金を入れておく)」という事にはならないように心掛けました。飛び込み営業も得意ではなかったのですが、この時期は営業の武器がこれしかなかったので、日々、飛び込みするしかないのですが飛び込み先に断れ続けられるとメンタルをやられてしまいます。飛び込み先が数件留守続きでも、無意味な事をしているようで気持ちになり気分が落ち込んでしまいます。そこで、私が考えた事は、嫌な事を無理に続けるのは良くないと思いました。しかし、苦手な事から逃げるのも良くないので飛び込み営業は時間を決めてする事にしました。最初は1日2時間と決めました。断れ続けられても2時間、1件目の営業先で2時間話を聞いてもらえた時は1件で終わりと決めました。AIU保険会社から教えられたそれ以外の営業の手法は、DM(ダイレクトメール)とテレアポでした。両方とも嫌いでしたが、両方とも1日1時間と決めて行いました。その他は営業先で話を聞いて頂いたところにお礼状を書く、見積書を作る等をして1日5~6時間仕事をしていました。それ以外の時間では、休憩も兼ねて決まった喫茶店に行く事にしていました。カウンターが4人とテーブルに10名程の喫茶店(MEH)でしたが、営業の基本は人と会うという事だと思っていたので、いつも同じ所に行く事によって常連さん達と仲良くなり営業に繋がって行くようになりました。私が営業で一番やってはいけないと思っていた事は、家で寝る事でした。これは何も生産性がないと思っていました。そんな日々を送っていると、私の営業力だと100件飛び込むと10件ほど話を聞いてくれて、2~3件契約になるという確率が分かって来ました。出来る先輩等は毎日契約を取ってくるスーパーマンの様な人もいましたが、営業を始めて半年の私はそのペースでした。半年が過ぎた頃でした。日立化成時代の営業先だった愛媛日化サービスの前をバイクで走っていました。暖かい時期だったのでバイク営業に変えていたのですが、会社の前に私を日化サービスへの転職を薦めてくれた原専務がおり、私が会釈をすると気づいた専務が、社内で話そうと言ってくれました。私は転職の挨拶もしていなかったのですが、今の仕事を聞かれました。私が損害保険の営業をしていると話すと会社の自動車保険の半分を任すと言って頂きました。私は驚きました。愛媛日化サービスには軽四貨物自動車が殆どでしたが、30台以上の車がありました。保険の営業としては駆け出しの私に挨拶しただけで半分を任すと言って頂いた専務の言葉に耳を疑いました。金額にすると年間50万程だったと思います。会社に戻りIS担当ソリシターの坂本さんにその話をすると、傷害保険の飛び込み営業を主に販売しているIS社員で自動車保険を1社で10台以上保有している(フリート契約)を持っているIS社員はいないと言われました。後日、日化サービスの原専務になぜ私に任せてくれたのかを聞く機会がありました。それは日立化成時代の仕事振りを見ていたからだと言って頂きました。私はそれを機に、日立化成時代にお世話になった会社にも、そろそろ挨拶を兼ねて訪ねてみようかと考えました。私はこの仕事が続くかわからないと思い自分の自動車保険ですら、まだ他社で契約していましたが、そろそろ前職の顧客先にも行っても良い時期かと思いました。その後、北条市(松山市北条)の中山設備さんを訪ねると、奥さんが心配してくれていて話をしました。丁度、中山設備さんでは自動車事故で揉めている時でした。加入していた保険が農協共済で示談交渉が進んでない状況でした。当時の農協共済では担当者は保険の専門職と言う訳でもなく、担当地域以外に出向く場合は出張扱いになる為に、話し合いが長引く傾向がありました。中山設備さんで例えるなら当時は北条市であった為に松山市内で事故があり、事故相手が松山市の方だったので、農協の担当者は松山に出向くには出張申請がいるという事でした。しかし、農協共済の最大の魅力は掛け金が安いという事もありました。中山設備さんでは軽四トラック~4トンのユニック車まで10台車を保有していましたが、数年前までは自動車保険に加入しておらず、公共工事等をするので保険加入を薦められに加入したと話されました。奥さんに見積もりを頼まれて持って行くとAIU保険会社での掛け金は年間110万でした。農協共済の掛け金は70万を超える程で30万以上の開きがありました。奥さんは差が有り過ぎるのでAIUへの加入は難しいと言われましたが、横で話を聞かれていた社長が一言、「児島君とこで入ってやれ」と言ってくれて決まりました。日立化成時代に中山設備さんには5年以上通っていましたが、中山社長は無口な方で必要な話以外は殆どした事がなかったので意外な感じがしましたが、確かに経理を預かる方の立場なら年間の支出が30万以上増えれば決める事は出来ないと思います。中山設備さんで年間100万以上の契約が決まった事も大きかったですが、中山設備の奥さんから、その後も沢山の顧客を紹介して頂く事になり、私には生涯の恩人と言える方でした。

AIU保険会社の研修社員となり1年が経ち年間の成績は550万でした。このペースをもう少し増やして5年間続ければ独立出来ます。1年目は成績が上がらないのは当然なのでノルマは450万で会社に残れる最低基準は380万でしたから1年目としてはまずまずの成績でした。

この年の10月16日から1ケ月程、私の自動車保険が切れている状態になっていました。私は19才でバイクを買った時から基三郎伯父の仕事の関係で井関農機の関係の保険に加入していました。毎年自動更新で特に手続きをしていませんでした。私は年間5万程の自己契約を自分で入らないと困る状態では独立は難しいと考えていて、独立出来る自信が付く迄はそのまま井関の保険に入っておこうと考えていました。11月の半ばに通帳を見ると保険の引き落としがされていない事に気づきました。井関の代理店に連絡すると、私が自分で代理店を始めているので、自分の所で入ると思って更新してないと言われました。この時点では契約日から1ヶ月程経過していて、もしこの間に事故を起こしていれば大変な事になっていました。しかもそこから自分で入り直すと、更新日から1週間以上が経過しているので、数年間の無事故の割引が無くなり7等級から入り直さないといけません。私は代理店へ強く抗議しました。翌日連絡があり私が井関の団体保険に加入していたので加入漏れという事で私の保険は復活出来ると連絡があり事なきを得ましたが、自分の顧客ではあってはならない事だと思う経験となりました。

(続く)