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#47 「AIU保険会社IS社員時代 7」

2024.5.15 更新

児島有一郎

平成9年は、2年間の不調から一転して将棋大会の成績は上がって来ました。4月20日のアマ棋王戦で優勝県内初のタイトルを獲得しました。棋王戦は全国大会への出場権利はありませんが、アマ名人戦優勝者と共に四国名人戦の参加資格があり、愛媛新聞の中では名人戦よりも格上の棋戦です。名人戦の優勝者が辞退した場合は、棋王戦の準優勝者が出場する事になっています。記念大会で代表3名の時も、棋王戦の準優勝が優先です。棋王戦で優勝出来た事も、嬉しかったのですが決勝戦で一色厚志さんに勝てた事が大きな自信になりました。それまで私は一色さんと森岡正幸さんに大会で15連敗以上していました。私が他の大会で優勝出来た時は、当時の愛媛の双璧だった森岡正幸さんと一色さんが参加していないか、私と対戦する前に敗退しているかのどちらかでした。私が東予地域での大会の成績が良かったのも森岡さん、一色さんが参加していない事が多かった為です。一色さんに勝てた将棋は一色さんの居飛車に私が四間飛車穴熊を目指したのですが、一色さんが無理攻めして私が上手く対応出来て勝つ事が出来ました。その将棋を見ていた人は、私の穴熊を一色さんが嫌がり無理攻めを誘発させた事が勝因だろうと言われました。私が初の県内棋戦で優勝したので、坊っちゃん支部の有志の方々20名程で宴席を開いてくれた事も嬉しかった事です。

6月には前年に発足大会をした、松山坊っちゃん支部の主要大会、第1回坊っちゃん名人戦でも優勝する事が出来ました。この大会も思い出に残る大会でした。1回戦の相手が宇摩支部支部長のの篠原正幸さん(県支部名人・赤旗県代表数回)でした。私は運営をしながらの大会出場でした。組み合わせを作り、ルール説明をして私の後手番で対局が始まりました。篠原さんの7六歩に私が3四歩、2六歩、4四歩として、私は一息入れようと思い席を、立ち缶珈琲を買いに行きました。大会の進行状況等も確認して5分程で戻り6八飛と指しました。すると篠原さんに「まだ指してないので2手指しの反則」と言われましたが、篠原さんはなかった事にして続きを指そうと言ってくれました。しかし、1度反則をしてはこちらも、もし勝っても後味が悪いので私は負けにしてもらいました。私は篠原さんに「5分以上離席していたのに、なぜ指してないのですか」と尋ねました。篠原さんは私が忙しそうで疲れていそうだから待っていたのだと言われました。篠原さんの大らかな気持ちと勝負に固執しない人柄の表れです。私が投了した事で次戦まで1時間近くあり、朝の慌ただしさの中で浮足だっていた気持ちが落ち着いた気分になりました。2戦目を勝ち1勝1敗になり予選通過の1戦はまた篠原さんとの対戦です。この将棋は終盤まで激闘になりましたが、形勢不明の状況で篠原さんが並んでいた竜と馬を間違えて動かす反則をしました。1局目に私の反則を許してくれようとした篠原さんに、私が「いいですから」と言うと、「あなたが潔く投了したのに私が指す訳にはいかんと」投了されました。予選を通過して初戦を勝ち2回戦は苦手なK保さんでした。徹夜で1分切れ負け戦を100番指すほど練習将棋は指していましたが、大会では2勝8敗位の成績でした。内容的には私が優勢になっても、細い攻めを繋げられて攻め切られたり、優勢なはずなのに見えない所から飛んでくるような蹴りを食らって負けるような意表の攻撃で逆転される事が多かったです。この将棋は相穴熊(私が振り飛車穴熊)で優勢だったのですが、終盤不思議な局面が現れました。相手は受け無しですが、持ち駒がお互い飛車角しかなく飛車か角の王手に飛角の合駒しかなく打ち場所も多数あるという局面でした。持ち時間は私が5分。K保さんが1分でした。私は延々と王手ラッシュを続けられて時間を減らされるかと思いましたが、K保さんは持ち時間が少ないからと投了されました。しかし、後で思えば同じ所から飛角を打ち換えて行けば千日手なっていたのです。お互いが時間を切らして勝つ事しか考えていなかったので、そんな錯覚が起こってしまったようです。準決勝は私が大会では1度も勝った事がない森岡正幸さん(西地区支部名人・準アマ竜王・全国レーティング選手権準優勝他)でした。私はこの将棋は諦めず粘り強く指そうと決めていました。森岡さんの強さは序盤感覚の良さと、不利になってからも離されない技術と正確な終盤でした。この将棋も私が振り飛車穴熊に囲ってから、無理に動いて不利に陥りました。いつもならそこで焦って指して自滅するのですが、この時は次の手に30分の持ち時間の内10分をつぎ込んで自陣龍の粘りの一手を指しました。すると森岡さんが焦って決めに来た手が決まらず、私の玉が穴熊から脱出して中段に出て行って捕まらなくなったところで、森岡さんの時間が切れて私の勝ちになり、大会での対森岡戦初勝利となりました。実はこの時の心境に至るには理由がありました。この頃、私が親しくしていた友人で田村勇人(全国朝日アマ名人戦ベスト8)さんがいました。田村さんとは愛媛囲碁将棋会館の近くの喫茶店(MIE)や居酒屋にもよく行く間柄でした。その田村さんから森岡さんが、私の将棋の弱点を言っていたと教えてくれたのです。これは私に限った事ではないと思いますが、「児島君は悪手を指すと、慌てて直に次の手を指してまた悪手を指す」と森岡さんが話してしたそうです。私にはその意識がありませんでしたが、この対局の時はその点を、気を付けてみようと意識して指しました。1度勝てるようになると一色さんにも大会で4連勝出来ました。森岡さんにもその大会から1年半の間で4勝4敗と互角の戦いが出来るようになりました。もう1つ勝てるようになった理由に、森岡さんから昔聞いていた電気を消して寝た事がないと言う話の真意が分かった事もありました。森岡さんは18才で将棋にのめり込みだしてから、毎晩就寝前には将棋の本を読み、そのまま寝てしまうので電気を消して寝た事ないと聞いていました。私はそんな人に勝てるはずがないと、数年の間、勝手に自己暗示を掛けていたようです。この大会の少し前に森岡さんと呑みに行った際に「あの話は、少し誤りがあり金縛りが怖いから電気をつけっぱなしで寝ている」と聞いて、何か気持ちが変わりました。一色さんにも同じような話がありました。一色さんと武田裕司君、流田義夫君で私の宇和島の実家に泊まりに来た時です。私が風呂に入ると、浴室内に将棋の本が3冊置いてありました。何でこんなところにあるのかと思いましたが、私の前に入った一色さんが風呂の中で将棋の本を読んでいたのです。私は他人の家に来てまで風呂場で本を読む人には勝てないと当時は考えましたが、当時、近代将棋誌の付録で風呂詰めと言う小冊子が付いて風呂の中で読める本が付いていて、それから普通の詰将棋も風呂に浸かりながら解くようになり、一色さんへの暗示も解けたようです。この日の坊っちゃん名人戦決勝戦は、森川聖一さんとの対戦となり勝ち棋王戦に続いての優勝となりました。

ここからの5年間が私の一番将棋が勝てた時期になります。将棋の勉強を日立化成時代よりはしているはずもなく、なぜ勝てるようになったかは自分でもわかりませんが、メンタル部分が大きいと思いました。勝てるようになり自分の将棋に自信が持てるようになりより勝てる感じです。技術的な事ではありませんが、考え方としては、森岡さんに頂いたアドバイスが大きかったです。「時間がない時でも焦って指さない。時間が切れるよりも、焦って悪手を指す方が恥ずかしい」という事とマナー的な事でも「相手にクレームを付けられるようなマナーでは駄目で、クレームを付けられることは反則と同じ」というアドバイスが対局時の心構えになった事も大きかったです。森岡さんの将棋に対しての考え方は非常に参考になりました。もう1つ苦しい将棋の時に意識していた事は、「どうしようもない形勢の時は一手違いを目指せ」という事を心掛けた事です。その気持ち対局していると不思議と逆転出来る事が多かったです。あとは対局の前日には小池重明さんの棋譜を並べ捲っていました。これは苦しい将棋でも頑張れば逆転出来ると自分に言い聞かせる為にやっていました。

仕事の方は2年目に入り、自分に合った営業のコツをつかんできました。私がこの頃一生懸命に取り組んだ事は、保険を売る事ではなく、何でも屋さんの様な事をして暇な時間を作らず1日を費やす事でした。私がしていた事は、携帯電話の紹介と日立化成の知識を生かし簡単なリフォームを友人の大工さんに紹介していました。携帯電話の紹介は、私が日立化成を辞める時に引き留めてくれた、三菱電機の代理店だった佐伯電機さんが、NTTドコモの携帯を販売しており他のショップより少し安く販売していたので、友人に紹介しその紹介がまた紹介に繋がり、数年間で買い替えを含めると200台近くお世話をさせて頂きました。リフォームの紹介の切っ掛けは私が行きつけの喫茶MIEの経営者の方が、持ちビルのマンションのお風呂が水漏れするという事から始まりました。私がユニットバスにしたらと言うと値段が高いからと言われました。確かに集合住宅用のユニットバスは定価が高いのですが、卸価格は20%台の掛け率でした。私が日立化成時代に懇意にしていた友人の大工さんにお願いして仕入れてもらい、打ち合わせは私がして、施工をその方にお願いしていました。そのマンションは結局、全室ユニットバスへの改装工事を行いました。そういう事をしていると、また次のリフォームの話が来ました。元々資金があれば損害保険業でなく私がしたかった仕事なので楽しかったですが、その時は損害保険の代理店として独立する事が第一でしたから、リフォームや携帯電話の紹介では、利益を取らず紹介のみで皆さんに喜んでもらうという事を第一に考えていました。そういう1日を過ごしていると自然と保険が取れるようになってきました。

当初は保険を契約する事は大変そうに思っていましたが、保険は入っていない人を探す方が難しいくらい万人がお客様なので、営業して仕事を取るよりもお客様から来て頂く為にどうするかという事を考えるようにして行きました。そういうスタイルで保険を取っていたので、AIU保険会社の法人顧客を取る方針と違い私の顧客は個人顧客が増えて行きました。当然、自動車保険がメインとなりましたが自動車保険が増えると業務が忙しくなる事に、2年目の私はわかっていませんでした。自動車保険には必ず事故処理があるので、忙しいのです。しかも事故は昼だけではありません。

(続く)