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#48 「AIU保険会社IS社員時代 8」
松山坊っちゃん支部時代 1

2024.6.27 更新

児島有一郎

将棋を通じて司法書士の三好典史先生と出会った頃、何度目かの飲み会の時に、三好先生より週に1度、自宅で子ども達と食事をしてくれないかと言われました。理由は三好先生の仕事が忙しく帰宅する事が殆ど深夜の為、3人の子ども達と食事をする事が出来ないので先生の代わりに、子ども達と食事して欲しいという事でした。そこで毎週水曜日の夕方には、仕事か飲み会がない限りは三好先生の自宅に行くようになりました。私はこの生活を4年近く続ける事になります。今考えると不思議な生活でした。18時~19時までに三好先生宅に行って子ども達と食事をします。食事の時間が終わる頃に、三好先生の家の斜め前に住んでいる松山坊っちゃん支部会員の山本浩造さんが、米長邦雄棋聖の署名付きの本榧7寸盤と竹風作根杢の菱湖盛上げ駒を持って三好先生宅に来て22~23時頃まで将棋を指します。山本さんが帰ってからは三好先生の奥さんと1時間程話をして、その間に三好先生が帰宅すれば、そこからまた3人で1時間程話してから帰ると言う1日を過ごしていました。0~1時に先生宅から帰る感じでした。遅くなりますが三好先生と色々な事を話していると勉強になりやる気も沸いて来ました。この頃は営業成績を上げるよりは人脈作りを主に考えていて、誘われた飲み会は断らないと決めていました。週5日位の頻度で飲みに行っていました。三好先生宅に伺った日も帰りは遅くなるのですが、その日は酒を飲まない日(運転して帰る)だったので、自然と休肝日になり身体の疲労は少なかったようです。

三好先生は将棋も強く初めて指した時は負けてしまい、知らない人でも強い人はいるなと思いました。2回目の対戦をした時は、坊っちゃん支部会員さんが経営していたキャロットクラブと言うショットバーで対戦しました。この時は前回負けているので、絶対に勝つつもりで臨みましたが完敗しました。その後2局指してこの日は3連敗通算4連敗になりました。私はかなりショックを受けましたが、三好先生の棋歴は中央大学の将棋部レギュラーで、県大会では赤旗名人戦3位の実績があり、愛媛でただ1人の一般棋戦の全国優勝者の全国支部名人になった加地嘉信六段にも大会で勝っている程の実力でした。

松山坊っちゃん支部の副支部長で県・四国代表に20回以上なっている松田耕治さんも、三好先生と初対戦した時に3連敗しており、辛口の松田さんが「三好先生は強い」と言う程です。三好先生が将棋大会から遠ざかった理由は、顧客から預かっていた権利書を失くして、困っていた時に将棋道場に行くと、前回来た時に権利書を道場に忘れて帰っており、道場の席主の方から権利書を渡された時に、将棋は夢中になり過ぎては仕事が駄目になると思い、将棋大会と将棋道場に行くのを止めたそうです。自宅には将棋雑誌を含め棋書が1000冊近くあり、寝る前は必ず将棋の本を読んで寝ていると言っていました。

三好先生の話で勉強になった事は沢山あり、一度には書き切れないのでその都度書いて行きますが、今回は少し書きます。まず名刺の話です。名刺管理の仕方ですが、名刺を背丈以上の本棚に50音別もしくは、会社別・業種別などに名整理して保存されていて、頂いた名刺はどんな名刺も一枚も捨てた事がないと言われました。そんな時に、私の父親(岩敏)が松山市役所を退職後に、健康食品の販売を経て、毎日新聞の勧誘をしている時に、三好先生の事務所に勧誘に行って面識がある事を先生に話すと、コの字の名刺ホルダーを出して来て私の名刺の横に、父親の名刺が並んでいました。三好先生に2人は親子だったのか言い。自身も中央大学卒業後に、銀行勤務をして司法書士を目指すために銀行員を辞めて新聞配達をしながら、試験の勉強をしていたので、新聞の勧誘の方の名刺は大事にしていると言われました。

三好先生は銀行員時代に、銀行の仕事が面白くなかったそうです。それは、銀行員が銀行の為に仕事をしていて、顧客の事は考えてないように思えたからと私は理解しましたが、私が保険代理店を目指していたIS社員の時も同じように感じていました。会社で今月は傷害保険のキャンペーン(CP)で傷害保険を売る月と決めて、ノルマを達成すると表彰されるのですが、CPは会社の都合であって、顧客の事を考えて販売している訳ではありません。CPに参加するかも本人次第なのですが、なぜ、顧客の為にならない事でCPと謳うのかと管理者に聞いた事もあります。それは社員のやる気を出す為と言われました。私は顧客が必要とする保険を販売する事が大切と思っていたので、こちらの都合で保険を販売するのはおかしいと思っていました。三好先生の銀行員時代の事も同じような話ではないかと思っています。

三好先生の話で、私が他の人に話しても全く同意してもらえないエピソードがあります。三好先生の友人のO田さんの話ですが、O田さんがある人の誘いで今日はその方が全部ご馳走するから、飲みに行こうと誘われ5件目までご馳走してもらったのに、6件目は割り勘と言われてO田さんは、最後に怒って(殴って?)帰ったのだがこの話どう思う?と聞かれました。私は怒って当然です。ご馳走すると言ったのだから最後まで約束は守らないといけないと言いました。最後お金が足りなくなってしまったのなら6件目は行かなかったら良かったと答えると、三好先生は「俺もそう思う」と言われるのですが、この話を私が何十人の友人に話しても5件ご馳走になったのだから、1件位払っても良いのではないかと言う答えしか返って来ません。この考え方が一致している事も先生と長く続いている要因ではないかと思っています。三好先生と2人で呑みに行った事は100回以上あり、1回に何件も連れて行ってもらった事もありますが、2人の時に私は支払いをした事がありません。初めの頃はご馳走になったので、翌日お菓子を持って行った事もありましたが、そんな必要はないと言われ、その分を後輩に返せばよいと言われました。今では教え子と呑みに行く事も多いのですが、三好先生の言葉を出来るだけ実践しているつもりです。

三好先生の仕事の話で強烈に印象に残っている事は知り合ったばかりの頃ですが、個人破産をするのに弁護士に頼んだら幾ら掛ると思うと聞かれました。当時は愛媛だと50万でした。しかもお金がないから破産するのに50万払えないのに50万は高い、そもそも弁護士はお金がない人から仕事をしても儲からないから破産の手続きをする弁護士も少ないと言われました。すると先生の所なら15万で出来ると言うので、私が「お金がない人には15万も用意するのは大変では」と言いました。三好先生は「だから支払いは後払いにしている。破産が終わってお金が出来たら持ってくれば良い」と返して来ました。私が「持って来ない人がいるのでは」と言うと「3割が持って来ない人がいるので本当は12万で出来るのだけど、持って来ない人がいるので15万にしている」と言われ私は7割もの人が払ってくれるのですねと言うと、人は本当に困っている時に助けてもらうと、支払うものだと言われました。その上、その後にその他の仕事を色々紹介してくれる人も多いと言われました。私の子ども時代も親戚の助けがなければ生活保護を受けなければいけなかったかも知れないので、三好先生のこの話が一番印象に残りました。

もう1つ私の目安になった年賀状の話です。当時、正月に三好先生の事務所に行くと年賀状が600枚以上来ていました。1000枚出して600枚来ると言われました。私は、当時300枚出して100枚来る感じでした。保険の顧客からは年賀状を返してもらえる事は殆どありませんでした。この時に三好先生に言われた事は、どんな関係性でも良いから年賀状が300枚来るようになれば、どんな商売でもやっていけると言われ、それを目標に1年間頑張っていた感じでした。今は時代が違うかも知れませんが、年賀状の枚数が私の1年間の成果でした。損害保険代理店として独立が出来る頃に250枚程来るようになり、今では350枚程なので三好先生の言われた事は、間違いではなかったと思っています。

次は会報誌の話です。今は2ヶ月に1回松山将棋センターから香歩新聞を発行していますが、当時は毎月坊っちゃん支部の会員さん向けに、赤シャツ月報を発行していました。私が主な大会結果と会員紹介のコラムを書き、一色厚志さんが定跡解説をした会報誌でした。数枚の会報誌でしたが、毎月となると結構な手間と時間が掛かりました。当時から松山坊っちゃん支部の会費は1万円でしたが、多い時は90名近くの方が入会してくれていました。毎月の例会に来ない方も、会報誌を頑張って発行しているのでその為に入会していると言って頂く方もいて有難かったのですが、会報誌のコピー代も結構掛かっていました。その話を三好先生にすると事務所のコピー機を使えば良いと言ってもらい毎月、三好事務所で赤シャツ月報の製作をさせてもらいました。これは、私が独立して事務所を出すまで続きました。

(続く)